蝶々結び【完結】

夜の病棟は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。

 廊下の照明は淡く、規則正しく並ぶ白い光が、床に長く影を落としている。
 聞こえるのは、点滴の落ちる音と、時折どこかの病室から漏れる寝息だけ。
 時計の秒針が「コツ、コツ」と響くたび、結衣はその静けさに包まれていた。

 ナースステーションの机の上には、整理し終えたカルテの山。
 ボールペンのキャップを閉め、深く息を吐いた結衣は、胸の奥でそっと呟く。

(今日も、やっと終わった……)

 疲れているはずなのに、不思議と心は穏やかだった。
 陽向先生と付き合い始めてから一週間。
 忙しい日々の中でも、彼の何気ないメッセージや、ふとした笑顔を思い出すだけで、胸の奥があたたかくなる。

 机に肘をつき、ぼんやりと窓の外を見ていたその時――

「橘さん。」

 振り向くと、陽向先生が立っていた。
 白衣の袖をまくり、いつもの爽やかな笑顔ではなく、
 少しだけ熱を帯びた眼差しだった。

「陽向先生……どうしたんですか?」

「ちょっと、相談があって。……時間ある?」

 そう言われ、結衣は頷いた。

 陽向先生に連れられ、二人は空き個室へと入った。

部屋に入ると、ほんのりと薬の匂いがした。
 夜の照明は柔らかく、二人の影が壁に寄り添うように映っていた。

「……患者さんのことですか?」

「ううん。」

 陽向先生は、静かに首を横に振った。
 そして、少し迷うように言葉を探していた。

「本当は、ただ会いたかっただけ。……結衣に。」

 結衣の胸が高鳴る。

 その声がやけに近く感じた。

「……陽向先生、ここ病院ですよ。」

「わかってる。」

 そう言いながら、彼は一歩近づいた。
 距離が、息一つ分まで縮まる。
 心臓の鼓動が早くなる。

「……でも、これだけは、我慢できなかった。」

 その言葉と同時に、陽向先生の手が
 結衣の頬にそっと触れた。

 指先が震えているのは、彼の方だった。

 結衣は何も言えなかった。

 ただ、その手の温かさに包まれて、
 呼吸をするのも忘れていた。

 そして――。

 唇が、静かに触れた。

 それはあまりにも優しいキスで、
 時間が止まったように感じた。

 消毒液の匂いと、陽向先生の体温。
 すべてが混ざって、世界が少しだけ甘く滲んだ。

 陽向先生が唇を離し、額を軽く合わせた。

「……結衣、ほんとに、可愛い。」

 結衣は顔を真っ赤にし、俯いた。

 心臓の音が、もう隠しようもなかった。

「もう、笑わないでください……。」

 小さな声でそう言うと、
 陽向先生は柔らかく笑いながら、彼女の髪を撫でた。

「ごめん。つい、意地悪したくなるんだ。
……でも、ちゃんと想ってるから。」

「……はい。」

 短く答える結衣の瞳には、
 もう不安よりも、確かな光が宿っていた。