蝶々結び

食後、二人はソファに並んで座り、テレビをつけた。
 音量は小さく、映像はニュースなのに、誰も見ていない。
 紅茶の香りが漂う部屋の中、ただ二人の距離だけがゆっくりと近づいていった。

 「橘さん、仕事のときと違ってよく笑うね。」

 「え?」

 「うん。その顔、ずっと独り占めしたい。」

 その言葉に、結衣の心臓が跳ねた。
 頬がじんわり熱を持ち、言葉が喉で止まる。

 「……もう、陽向先生、ずるいです。」

 彼は穏やかに笑って、そっと彼女の手を取った。
 指先が触れた瞬間、静電気みたいに小さな熱が走る。

 「あれ、名前で呼んでくれないの?」

 優しく問いかける声。
 その響きが、まるで心の奥に触れるようだった。

 結衣は一瞬、息を呑む。
 名前――そう呼ぶだけなのに、距離が一気に近づく気がした。
 それが怖くて、けれど嬉しくて、胸が苦しい。

 「えっと……、碧…さん。」

 言い慣れない響きが、空気の中に溶けていく。
 次の瞬間、碧が小さく笑って囁いた。

 「結衣。」

 たった一言なのに、心の奥が震えた。
 呼び慣れていないその音が、まるで優しい魔法のようだった。

 顔を真っ赤にした結衣を、碧は静かに見つめる。
 その瞳は、まるで「大丈夫」と言っているみたいに優しい。

 「……その呼び方、気に入った。」

 「私も……。」

 二人の間に流れる沈黙は、不思議と心地よかった。
 テレビの音が遠くに霞んで、時計の針の音だけが小さく響く。
 指先と指先が、まるで蝶々結びのようにそっと絡まった。







 結衣は思う。
 “手をつなぐ”という行為が、こんなにも安心するものだったなんて。
 過去の傷も不安も、少しずつ溶けていくように感じた。

 「ねぇ、碧、さん…。」

 「ん?」

 「こうやって、一緒にいる時間が、もっと増えたらいいなって……思います。」

 「増えるよ。これから、いくらでも。」

 碧の答えは、まっすぐで迷いがなかった。
 その確かさが、何よりも心強くて。
 結衣はそっと微笑んだ。

 「……じゃあ、ちゃんと信じますね。」

 「うん。信じて。」

 指と指が、きゅっと結び直される。
 その瞬間、結衣の胸の中に小さな灯がともった。
 それは、確かに彼と繋がっている証のようだった。