病院に着くと、朝の廊下はすでに人で賑わっていた。
ナースシューズの音が忙しなく響き、消毒液の匂いが漂う。
看護師たちの明るい声、患者さんの笑い声、電子音。
いつもの朝。けれど、結衣の胸の中だけが落ち着かない。
カルテを抱えてステーションを通り過ぎたとき、視界の端に白衣の背中が映った。
――陽向先生。
白衣の袖をまくり、小学生くらいの男の子に膝をついて話しかけている。
「じゃあ、退院したらちゃんと宿題やるんだよ?」
「はーい!」
少年の元気な返事に、陽向先生が優しく笑った。
その笑顔に周囲の空気が一瞬ふわりと和らぐ。
近くの看護師たちもくすっと笑い、自然と場が明るくなる。
結衣の胸の中にも、知らず小さな温かさが灯った。
(……いつも通り。いつもの、陽向先生。)
その優しさに、どうしようもなく惹かれていってしまっているのを、
昨日、痛いほど知ってしまったのだ。
「今日も陽向先生、爽やかイケメンだよねぇ~!」
隣から聞こえる明るい声。柚希だ。
相変わらず朝からテンションが高い。
彼女はカルテを抱えながら、目を輝かせて続けた。
「ねぇ結衣、あの笑顔ずるくない? 患者さんも看護師もみんな落ちてるよ?」
「……はぁー。」
結衣はため息をつき、カルテを整理するふりをして視線を落とす。
カルテを整理しながらぼそっと呟いた。
「別に……そんなに爽やかでもないけどね。」
「え?」と柚希が顔を向ける。
結衣は視線を泳がせた。
柚希が不思議そうに眉を上げた。
けれど、結衣の頭の中には別の“笑顔”が浮かんでいた。
(昨日の陽向先生、全然“爽やか”じゃなかったもん……。)
あの時の彼は、優しさの奥に熱を秘めていた。
冷静じゃなくて、少しだけ意地悪で、でも真剣な眼差しで抱きしめてきた陽向先生の姿。
それを思い出した瞬間、また頬が熱を帯びる。
手の中のカルテが少し震えた。
「……結衣?」
柚希が覗き込む。
「な、なに?」
「ちょっとー!顔、赤くない?!」
にやにやしながら一歩近づいてくる。
「え、まさか!陽向先生と進展あったの?!」
「な、なんにもないよっ!」
あわてて手を振る。
けれど、声がわずかに上ずってしまい、逆に怪しい。
柚希の目が鋭く光った。
「ほんとぉ~? だってその反応、絶対なんかあったやつじゃん!」
「ち、違うってば! 昨日は……ただ……っ!」
そこまで言いかけたとき、ふと前方の気配に気づいた。
廊下の向こう――
陽向先生がちょうどこちらを振り向いていた。
目が、合った。
ほんの一瞬。
けれど、心臓が止まりそうになるほど長く感じた。
その瞬間、周囲の音が遠のく。
ナースステーションのざわめきも、電子音も、全部消えた。
ただ、二人の間に流れる静寂だけが残る。
彼はふっと目を細めて、あの“完璧な笑顔”を浮かべた。
柔らかく、穏やかで、まるで何事もなかったかのような微笑み。
けれど――その奥に、一瞬だけ“昨日の眼差し”が覗いた。
あの真っ直ぐで、逃げ場のない光。
結衣の心臓が跳ね上がる。
「……っ!」
彼女はとっさに視線をそらし、カルテに顔を埋めた。
頬の熱を隠すように、唇を噛む。
「きゃぁぁぁぁ!!今の何?!今の見た!?目、合ったよね?!
しかもあの笑顔、完全に特別待遇じゃん!!」
柚希が興奮気味に肩を揺さぶる。
「ちょ、やめてってば!ほんとに違うからっ!」
焦って言い返すが、声が震えているのを自分でも感じた。
耳の奥まで真っ赤になっていく。
柚希は面白がってさらに追及しようとしたが、
結衣は顔を背けて仕事に戻るふりをした。
(……やっぱり、いつもの顔なんてできない。)
昨日の温もり。
今日の笑顔。
どちらも陽向先生。
でも、どちらの彼も、私の心を揺らしてくる。
心臓の鼓動を落ち着かせようと、胸に手を当てた。
それでも、鼓動は速くなるばかりだった。
――そして、ほんの少しだけ。
その“揺れ”が心地いいと感じている自分に気づいて、
結衣はまた、そっと視線を逸らした。
窓の外では、灰色だった昨日の空が少しずつ青に戻り始めていた。
けれど彼女の胸の中では、まだ新しい嵐が静かに渦を巻いていた。
ナースシューズの音が忙しなく響き、消毒液の匂いが漂う。
看護師たちの明るい声、患者さんの笑い声、電子音。
いつもの朝。けれど、結衣の胸の中だけが落ち着かない。
カルテを抱えてステーションを通り過ぎたとき、視界の端に白衣の背中が映った。
――陽向先生。
白衣の袖をまくり、小学生くらいの男の子に膝をついて話しかけている。
「じゃあ、退院したらちゃんと宿題やるんだよ?」
「はーい!」
少年の元気な返事に、陽向先生が優しく笑った。
その笑顔に周囲の空気が一瞬ふわりと和らぐ。
近くの看護師たちもくすっと笑い、自然と場が明るくなる。
結衣の胸の中にも、知らず小さな温かさが灯った。
(……いつも通り。いつもの、陽向先生。)
その優しさに、どうしようもなく惹かれていってしまっているのを、
昨日、痛いほど知ってしまったのだ。
「今日も陽向先生、爽やかイケメンだよねぇ~!」
隣から聞こえる明るい声。柚希だ。
相変わらず朝からテンションが高い。
彼女はカルテを抱えながら、目を輝かせて続けた。
「ねぇ結衣、あの笑顔ずるくない? 患者さんも看護師もみんな落ちてるよ?」
「……はぁー。」
結衣はため息をつき、カルテを整理するふりをして視線を落とす。
カルテを整理しながらぼそっと呟いた。
「別に……そんなに爽やかでもないけどね。」
「え?」と柚希が顔を向ける。
結衣は視線を泳がせた。
柚希が不思議そうに眉を上げた。
けれど、結衣の頭の中には別の“笑顔”が浮かんでいた。
(昨日の陽向先生、全然“爽やか”じゃなかったもん……。)
あの時の彼は、優しさの奥に熱を秘めていた。
冷静じゃなくて、少しだけ意地悪で、でも真剣な眼差しで抱きしめてきた陽向先生の姿。
それを思い出した瞬間、また頬が熱を帯びる。
手の中のカルテが少し震えた。
「……結衣?」
柚希が覗き込む。
「な、なに?」
「ちょっとー!顔、赤くない?!」
にやにやしながら一歩近づいてくる。
「え、まさか!陽向先生と進展あったの?!」
「な、なんにもないよっ!」
あわてて手を振る。
けれど、声がわずかに上ずってしまい、逆に怪しい。
柚希の目が鋭く光った。
「ほんとぉ~? だってその反応、絶対なんかあったやつじゃん!」
「ち、違うってば! 昨日は……ただ……っ!」
そこまで言いかけたとき、ふと前方の気配に気づいた。
廊下の向こう――
陽向先生がちょうどこちらを振り向いていた。
目が、合った。
ほんの一瞬。
けれど、心臓が止まりそうになるほど長く感じた。
その瞬間、周囲の音が遠のく。
ナースステーションのざわめきも、電子音も、全部消えた。
ただ、二人の間に流れる静寂だけが残る。
彼はふっと目を細めて、あの“完璧な笑顔”を浮かべた。
柔らかく、穏やかで、まるで何事もなかったかのような微笑み。
けれど――その奥に、一瞬だけ“昨日の眼差し”が覗いた。
あの真っ直ぐで、逃げ場のない光。
結衣の心臓が跳ね上がる。
「……っ!」
彼女はとっさに視線をそらし、カルテに顔を埋めた。
頬の熱を隠すように、唇を噛む。
「きゃぁぁぁぁ!!今の何?!今の見た!?目、合ったよね?!
しかもあの笑顔、完全に特別待遇じゃん!!」
柚希が興奮気味に肩を揺さぶる。
「ちょ、やめてってば!ほんとに違うからっ!」
焦って言い返すが、声が震えているのを自分でも感じた。
耳の奥まで真っ赤になっていく。
柚希は面白がってさらに追及しようとしたが、
結衣は顔を背けて仕事に戻るふりをした。
(……やっぱり、いつもの顔なんてできない。)
昨日の温もり。
今日の笑顔。
どちらも陽向先生。
でも、どちらの彼も、私の心を揺らしてくる。
心臓の鼓動を落ち着かせようと、胸に手を当てた。
それでも、鼓動は速くなるばかりだった。
――そして、ほんの少しだけ。
その“揺れ”が心地いいと感じている自分に気づいて、
結衣はまた、そっと視線を逸らした。
窓の外では、灰色だった昨日の空が少しずつ青に戻り始めていた。
けれど彼女の胸の中では、まだ新しい嵐が静かに渦を巻いていた。



