蝶々結び

翌朝。
目を覚ました瞬間、まぶたがやけに重かった。
部屋のカーテンの隙間から、淡い光が差し込んでいる。
寝起きのぼんやりした視界に、昨日の記憶がうっすらと浮かんでくる。
胸の奥が、静かにざわついた。

シーツを握る指先に、かすかな温もりの感覚が残っている気がした。
昨夜――あの診察室で、陽向先生の腕の中にいた。
思い出した途端、心臓が一気に跳ねる。
そして、次の瞬間、ため息がこぼれた。

「……夢、じゃないんだよね。」

ゆっくりと起き上がり、鏡の前へ向かう。
鏡に映った自分の顔は、いつもより少し疲れて見えた。
恐る恐る近づいて、目の下に指を当てる。

「……うわ、やっぱり腫れてる。」

泣きすぎた証拠。
目の下にはうっすらと赤みが残っていて、化粧でも隠せるか怪しい。
鏡越しの自分が、なんだか他人のように見えた。
感情を押し込めようとして、結局押し込められなかった顔。
それでも、いつものように整えなきゃいけない。

結衣はコンシーラーを手に取り、念入りにポンポンと叩き込む。
その手つきは、まるで自分を守るための儀式のようだった。
重ねてファンデーションをのばし、血色をチークで誤魔化していく。
鏡の中の表情は少しずつ“いつもの橘結衣”に戻っていった。
仕事用の笑顔。誰にも見せない心の奥を、丁寧に隠す仮面。

(……大丈夫。いつも通りにできる。)

深呼吸をして、鏡の中の自分に向かってにっこりと笑う。

「よし、完璧!」

声に出して気合を入れた。
けれど、その笑顔はどこかぎこちない。
心の奥のもやもやは、まだ霧のように残っていた。

――昨日のことが、何度も頭をよぎる。
診察室での抱擁。
陽向先生の腕の温かさ。
耳元で囁かれた低い声。
それが記憶というより、まだ身体に残る感覚のようにリアルで。

「……っ」

思い出した瞬間、頬が一気に熱を帯びた。
胸の奥で心臓が跳ね、言葉にならない震えが広がる。

(陽向先生って……つまり、私のこと、ずっと好きだったってこと?)

頭では理解しても、心が追いつかない。
その答えにたどり着くたびに、鼓動がドクンと跳ねた。
でも同時に、不安が胸をかすめる。

(でも……本気なの? それとも、あのときの勢いで……?)
昨日の彼の眼差しは、確かに優しくて真っ直ぐで。
だけど、あまりにも突然で、夢みたいで。
信じたいのに、信じきれない。
鏡の中の自分と視線がぶつかり、結衣は小さく息を吐いた。

「どうしよう……今日、どんな顔して会えばいいの……。」

呟いた声が、部屋の中で寂しく反響した。
バッグを掴み、勢いよく家を飛び出す。
冷たい朝の空気が頬に当たって、少しだけ目が覚めた。