さっきまでの静寂を破ったのは、陽向先生の――笑い声だった。
「……あぁ、あれ?」
笑いながら、椅子に軽くもたれる。
「橘さん、それで僕を避けてたの?ひどいなぁ。」
その口調は明るいのに、どこか意地悪な響きがあった。
結衣は思わず眉をひそめる。
「……なんか、おかしいですか?」
陽向先生は、笑いを引っ込めずに目を細めた。
「いやね、橘さんって、そういうの気にせずクールにかわしそうだなって、僕には見えてたからさ。」
そう言って、彼は机のペンをくるくると回す。
その仕草が妙に余裕たっぷりで、腹が立つくらいだった。
「へぇー、そっかぁ……」
ペンを止め、少しだけいたずらっぽく口角を上げる。
「気にするってことは、僕のこと――やっぱり意識してるってことかな?」
ニヤリ、と笑う陽向先生。
その表情が、いつもの爽やかさとはまるで違った。
どこか挑発的で、結衣の心の奥を覗き込むようだった。
「……っ!、そういうことではなくて!」
結衣は慌てて首を振る。
頬が熱くなるのを感じながら、言葉を探す。
(もう…なんなのこの人…)
陽向先生は、そんな結衣の反応を面白そうに見つめている。
その目が、まるで「今の君の顔が見たかった」とでも言いたげで。
胸の鼓動が止まらない。
「……避けてたのは謝ります。すみません。」
結衣はそれ以上その場にいられず、診察室のドアに手をかけた。
「では、私は仕事が残ってますので。」
早口で言ってドアを開けようとしたその瞬間、左腕をそっと掴まれた。
「……っ!」
その感触に、結衣の身体が一瞬にして固まる。
振り向くと、すぐそこに陽向先生の顔。
目が合った瞬間、時間が止まったように感じた。
近い。
息が触れそうなくらい近い。
陽向先生の手は優しく、でも確かに彼女を引き止めていた。
結衣の心臓が、ドクン、ドクンと激しく鳴る。
――この音、聞こえてないよね?
心の中で焦りが募っていく。
「それは嘘。だよね?」
陽向先生の声が、低く、優しく落ちる。
その響きに、空気が震えた。
「…………え、」
「そうじゃなきゃ、あんなところで――
うとうとしながら、ミルクティーなんて飲んでないでしょ?」
意地悪そうに笑う彼の口調に、結衣の頭が真っ白になる。
「……っ!!」
顔に一気に熱がこもるのがわかった。
頬が真っ赤になっていくのが、自分でも分かる。
(まさか……あの時、見られてたの?)
心臓の音がどんどん大きくなる。
陽向先生は、結衣の反応を確かめるように見つめていた。
その瞳が、いつもよりずっと熱を帯びている。
このまま何かがほどけてしまいそうで、結衣は怖くなった。
今、彼を受け入れてしまえば――
守ってきた“心の結び目”が、全部ほどけてしまうような気がして。
だから、結衣はほんの少し視線を逸らして、震える声で言った。
「……陽向先生、これ以上はセクハラです。」
その瞬間、陽向先生の笑みがふっと消える。
「……え?」
静かな空気が流れる。
結衣は、心臓を押さえながら、それでも顔を上げた。
「私、彼氏がいるので。やめてもらえますか?」
はっきりとした声だった。
けれど、その声の奥に、どこか罪悪感が滲んでいた。
陽向先生は一瞬、表情を変えずに彼女を見つめていた。
そして、わずかに眉を動かす。
「……へぇ。」
静かな声で言う。
「"彼氏"、いるの?」
そのトーンには怒りも驚きもなく、
ただ抑えられた何かが潜んでいた。
結衣は、それ以上彼の顔を見られなかった。
視線を落とし、唇を噛む。
(なんで……そんな言い方するの。)
胸の奥が、きゅっと痛む。
言葉にした途端、嘘が空気に滲んでいくのが自分でも分かった。
診察室の時計が、カチ、カチと音を立てている。
外の光は薄く、窓の向こうには沈みかけた夕日。
オレンジの光が二人の間を照らしていた。
結衣は、言ってはいけない言葉を言ってしまった気がして、
心の中がざわついていた。
"彼氏がいる"なんて――あんなの、ただの嘘。
でも、陽向先生はその言葉を聞いても特に動じず、「じゃあ、さ――」ぽつりと彼が口を開いた。
「彼氏に、今電話してみて?」
「……え?」
結衣は思わず顔をあげた。
陽向先生はいつもの柔らかな笑みを浮かべている。
――でも、その笑みの奥に、かすかな怒りが見えた。
冷や汗が背筋を伝う。
「かけてみてよ。ね?」
穏やかな声。けれど、逆らえない圧があった。
「……かけて、どうするんですか?」
恐る恐る問い返す結衣に、陽向先生は少しだけ口角を上げた。
「うーん、そうだな。」
冗談めかした声で、ゆっくりと言う。
「“今から橘さんを僕がもらいます。助けに来てください”って、言ってあげようかなって。」
――その瞬間、結衣の頭が真っ白になった。
「な、何を言ってっ……!」
思わず声が裏返る。
心臓が跳ねて、喉が苦しくなる。
けれど陽向先生は、笑ったまま結衣を見つめていた。
「かけられないんだ?」
その声は優しいのに、まるで逃げ道を塞ぐようだった。
「やっぱり……それも橘さんの嘘なんだね。」
結衣は息を呑んだ。
「僕には分かるよ。橘さんの嘘も、何か抱えてることも。
恥ずかしくて僕から逃げてることも。
周りには冷静で繕って見せてるけど、僕には――分かる。」
静かな声。
でもその言葉の一つ一つが胸に突き刺さる。
結衣はもう、陽向先生の目を見られなかった。
優しく握られた左腕が熱い。
鼓動が、指先まで響いている。
「……なんで……私なんですか?」
ようやく、かすれた声が漏れる。
「え?」
「また、そうやってからかって……楽しいですか?」
涙がこみ上げて、喉が熱くなる。
「周りと賭け事でもしてるんですか?
人のこと弄んで……そんなに面白いですか?」
陽向先生の目が、見開かれた。
「は?」
低く短い声が、診察室に響く。
その表情には明らかな怒りが宿っていた。
でも、結衣は止まらなかった。
怒らせて、離れてくれるなら――その方が楽だから。
「陽向先生には、もっと若くて綺麗な人だって寄ってくるでしょ?
よりどりみどりじゃないですか……!」
声が震える。視界が滲む。
「え、ちょっと、橘さん?」
陽向先生が慌ててもう片方の手を伸ばす。
けれど結衣はそれを振り払うように続けた。
「こんなことして、女が喜ぶとでも思ってるんですか……!」
「女遊びしたいんだったら――っ!」
その言葉の途中で、ぐいっと身体が引き寄せられた。
次の瞬間、強く、しっかりと抱き締められる。
「……っ!陽向先生?!ちょ、やめっ……!だめっ……!」
必死に胸を押して離れようとするが、びくともしない。
陽向先生の腕は、ただ静かに、けれど確かに結衣を包み込んでいた。
「……ごめん。」
耳元で、低く優しい声が囁かれる。
「橘さんが可愛いくて……意地悪しすぎた。泣かせるつもりじゃなかったんだ。」
その言葉と同時に、結衣の右目から涙がこぼれ落ちた。
あたたかい腕の中で、胸の奥がぐちゃぐちゃになる。
(私、なんで泣いてるの……?)
自分でも分からない。
けれど涙は止まらなかった。
抵抗していた手が、だんだんと力を失っていく。
腕をだらんと下ろすと、陽向先生の胸の鼓動が、すぐそこに聞こえた。
静かに、でも確かに響く音。
それがなんだか懐かしくて、心が少しずつ溶けていく。
「……でも聞いて?」
陽向先生が、結衣の髪に顔を寄せたまま、小さく囁いた。
「僕はずっと――ずっと、橘さんしか見てない。」
その声は、嘘を許さないほど真っ直ぐだった。
鼓動と息遣いが混ざって、胸の奥まで響く。
「本当だから。信じてほしい。」
ぎゅっと、さらに強く抱き締められる。
その温もりに包まれながら、結衣は何も言えなくなった。
胸の奥に固く結んでいた“心の糸”が、
少しずつ、ゆっくりとほどけていくのを感じる。
――この人は、優しいだけじゃない。
怖いほど真っ直ぐで、不器用なくらい本気だ。
そんな陽向先生の腕の中で、
結衣はもう抵抗することをやめた。
夕方の診察室には、
ほんのりとした温もりと、二人の呼吸音だけが満ちていた。
「……あぁ、あれ?」
笑いながら、椅子に軽くもたれる。
「橘さん、それで僕を避けてたの?ひどいなぁ。」
その口調は明るいのに、どこか意地悪な響きがあった。
結衣は思わず眉をひそめる。
「……なんか、おかしいですか?」
陽向先生は、笑いを引っ込めずに目を細めた。
「いやね、橘さんって、そういうの気にせずクールにかわしそうだなって、僕には見えてたからさ。」
そう言って、彼は机のペンをくるくると回す。
その仕草が妙に余裕たっぷりで、腹が立つくらいだった。
「へぇー、そっかぁ……」
ペンを止め、少しだけいたずらっぽく口角を上げる。
「気にするってことは、僕のこと――やっぱり意識してるってことかな?」
ニヤリ、と笑う陽向先生。
その表情が、いつもの爽やかさとはまるで違った。
どこか挑発的で、結衣の心の奥を覗き込むようだった。
「……っ!、そういうことではなくて!」
結衣は慌てて首を振る。
頬が熱くなるのを感じながら、言葉を探す。
(もう…なんなのこの人…)
陽向先生は、そんな結衣の反応を面白そうに見つめている。
その目が、まるで「今の君の顔が見たかった」とでも言いたげで。
胸の鼓動が止まらない。
「……避けてたのは謝ります。すみません。」
結衣はそれ以上その場にいられず、診察室のドアに手をかけた。
「では、私は仕事が残ってますので。」
早口で言ってドアを開けようとしたその瞬間、左腕をそっと掴まれた。
「……っ!」
その感触に、結衣の身体が一瞬にして固まる。
振り向くと、すぐそこに陽向先生の顔。
目が合った瞬間、時間が止まったように感じた。
近い。
息が触れそうなくらい近い。
陽向先生の手は優しく、でも確かに彼女を引き止めていた。
結衣の心臓が、ドクン、ドクンと激しく鳴る。
――この音、聞こえてないよね?
心の中で焦りが募っていく。
「それは嘘。だよね?」
陽向先生の声が、低く、優しく落ちる。
その響きに、空気が震えた。
「…………え、」
「そうじゃなきゃ、あんなところで――
うとうとしながら、ミルクティーなんて飲んでないでしょ?」
意地悪そうに笑う彼の口調に、結衣の頭が真っ白になる。
「……っ!!」
顔に一気に熱がこもるのがわかった。
頬が真っ赤になっていくのが、自分でも分かる。
(まさか……あの時、見られてたの?)
心臓の音がどんどん大きくなる。
陽向先生は、結衣の反応を確かめるように見つめていた。
その瞳が、いつもよりずっと熱を帯びている。
このまま何かがほどけてしまいそうで、結衣は怖くなった。
今、彼を受け入れてしまえば――
守ってきた“心の結び目”が、全部ほどけてしまうような気がして。
だから、結衣はほんの少し視線を逸らして、震える声で言った。
「……陽向先生、これ以上はセクハラです。」
その瞬間、陽向先生の笑みがふっと消える。
「……え?」
静かな空気が流れる。
結衣は、心臓を押さえながら、それでも顔を上げた。
「私、彼氏がいるので。やめてもらえますか?」
はっきりとした声だった。
けれど、その声の奥に、どこか罪悪感が滲んでいた。
陽向先生は一瞬、表情を変えずに彼女を見つめていた。
そして、わずかに眉を動かす。
「……へぇ。」
静かな声で言う。
「"彼氏"、いるの?」
そのトーンには怒りも驚きもなく、
ただ抑えられた何かが潜んでいた。
結衣は、それ以上彼の顔を見られなかった。
視線を落とし、唇を噛む。
(なんで……そんな言い方するの。)
胸の奥が、きゅっと痛む。
言葉にした途端、嘘が空気に滲んでいくのが自分でも分かった。
診察室の時計が、カチ、カチと音を立てている。
外の光は薄く、窓の向こうには沈みかけた夕日。
オレンジの光が二人の間を照らしていた。
結衣は、言ってはいけない言葉を言ってしまった気がして、
心の中がざわついていた。
"彼氏がいる"なんて――あんなの、ただの嘘。
でも、陽向先生はその言葉を聞いても特に動じず、「じゃあ、さ――」ぽつりと彼が口を開いた。
「彼氏に、今電話してみて?」
「……え?」
結衣は思わず顔をあげた。
陽向先生はいつもの柔らかな笑みを浮かべている。
――でも、その笑みの奥に、かすかな怒りが見えた。
冷や汗が背筋を伝う。
「かけてみてよ。ね?」
穏やかな声。けれど、逆らえない圧があった。
「……かけて、どうするんですか?」
恐る恐る問い返す結衣に、陽向先生は少しだけ口角を上げた。
「うーん、そうだな。」
冗談めかした声で、ゆっくりと言う。
「“今から橘さんを僕がもらいます。助けに来てください”って、言ってあげようかなって。」
――その瞬間、結衣の頭が真っ白になった。
「な、何を言ってっ……!」
思わず声が裏返る。
心臓が跳ねて、喉が苦しくなる。
けれど陽向先生は、笑ったまま結衣を見つめていた。
「かけられないんだ?」
その声は優しいのに、まるで逃げ道を塞ぐようだった。
「やっぱり……それも橘さんの嘘なんだね。」
結衣は息を呑んだ。
「僕には分かるよ。橘さんの嘘も、何か抱えてることも。
恥ずかしくて僕から逃げてることも。
周りには冷静で繕って見せてるけど、僕には――分かる。」
静かな声。
でもその言葉の一つ一つが胸に突き刺さる。
結衣はもう、陽向先生の目を見られなかった。
優しく握られた左腕が熱い。
鼓動が、指先まで響いている。
「……なんで……私なんですか?」
ようやく、かすれた声が漏れる。
「え?」
「また、そうやってからかって……楽しいですか?」
涙がこみ上げて、喉が熱くなる。
「周りと賭け事でもしてるんですか?
人のこと弄んで……そんなに面白いですか?」
陽向先生の目が、見開かれた。
「は?」
低く短い声が、診察室に響く。
その表情には明らかな怒りが宿っていた。
でも、結衣は止まらなかった。
怒らせて、離れてくれるなら――その方が楽だから。
「陽向先生には、もっと若くて綺麗な人だって寄ってくるでしょ?
よりどりみどりじゃないですか……!」
声が震える。視界が滲む。
「え、ちょっと、橘さん?」
陽向先生が慌ててもう片方の手を伸ばす。
けれど結衣はそれを振り払うように続けた。
「こんなことして、女が喜ぶとでも思ってるんですか……!」
「女遊びしたいんだったら――っ!」
その言葉の途中で、ぐいっと身体が引き寄せられた。
次の瞬間、強く、しっかりと抱き締められる。
「……っ!陽向先生?!ちょ、やめっ……!だめっ……!」
必死に胸を押して離れようとするが、びくともしない。
陽向先生の腕は、ただ静かに、けれど確かに結衣を包み込んでいた。
「……ごめん。」
耳元で、低く優しい声が囁かれる。
「橘さんが可愛いくて……意地悪しすぎた。泣かせるつもりじゃなかったんだ。」
その言葉と同時に、結衣の右目から涙がこぼれ落ちた。
あたたかい腕の中で、胸の奥がぐちゃぐちゃになる。
(私、なんで泣いてるの……?)
自分でも分からない。
けれど涙は止まらなかった。
抵抗していた手が、だんだんと力を失っていく。
腕をだらんと下ろすと、陽向先生の胸の鼓動が、すぐそこに聞こえた。
静かに、でも確かに響く音。
それがなんだか懐かしくて、心が少しずつ溶けていく。
「……でも聞いて?」
陽向先生が、結衣の髪に顔を寄せたまま、小さく囁いた。
「僕はずっと――ずっと、橘さんしか見てない。」
その声は、嘘を許さないほど真っ直ぐだった。
鼓動と息遣いが混ざって、胸の奥まで響く。
「本当だから。信じてほしい。」
ぎゅっと、さらに強く抱き締められる。
その温もりに包まれながら、結衣は何も言えなくなった。
胸の奥に固く結んでいた“心の糸”が、
少しずつ、ゆっくりとほどけていくのを感じる。
――この人は、優しいだけじゃない。
怖いほど真っ直ぐで、不器用なくらい本気だ。
そんな陽向先生の腕の中で、
結衣はもう抵抗することをやめた。
夕方の診察室には、
ほんのりとした温もりと、二人の呼吸音だけが満ちていた。



