蝶々結び

外来の診察室には、消毒液のほのかな匂いが漂っていた。
白い蛍光灯が天井から静かに照らし、銀色の器具が淡く光る。

陽向先生は、結衣の手を優しく取り、流れる冷水の下に小指をかざした。

 冷たい水が火照った指をなぞるたび、少しヒリヒリとした痛みが走る。


「少し小指が赤いね。ごめんね、橘さん。」

申し訳なさそうに眉を下げながら言う陽向先生の声は、いつもより柔らかかった。

結衣は、心臓の音がやけに大きく響いている気がして、落ち着かなかった。


 ――久しぶりの、至近距離。

 最近は意識して避けていたから、こんなふうに向かい合うのは本当に久しぶりだった。

(近い……。そんなに顔、近づけないで……。)

水の音に混じって、自分の鼓動が聞こえる気がする。

視界の端に見える陽向先生の長い睫毛が、やけに印象的だった。

まつげの先に、白い光が落ちている。



(……陽向先生の睫毛、綺麗だなぁ。)

ふと、そんなことを考えてしまい、慌てて首を振る。


「いえ、もう大丈夫です。自分でできますから。」

そう言って手を引こうとするが、陽向先生は首を横に振った。

「いや、僕に任せて。」



 彼は近くの処置カートから包帯を取り出し、結衣を椅子に座らせる。

そして、ためらいなく結衣の右手を取った。

 彼の手は温かく、しっかりとした感触だった。
 長い指先が器用に包帯を扱い、少しずつ結衣の小指を包んでいく。

 その丁寧さに、結衣の胸の奥が不思議とざわついた。

 陽向先生の睫毛が、また光を受けて揺れる。


 距離にして、わずか10センチ。

 目を逸らしたくても、なぜか逸らせない。

「ありがとうございます。陽向先生、もう大丈夫ですから。」

 必死に平静を装い、結衣は視線を横にそらした。

「僕が驚かせたせいで怪我させちゃったんだ。これくらいさせて。」

陽向先生は、少しシュンとした声で言う。
まるで自分を責めているようだった。

結衣は、胸がチクリとした。
でも、それを表に出すことはできない。


「そういえば……」


 空気を変えるように結衣が口を開いた。


「何か私に用事があったんじゃないですか?」

「あぁ……。」


 陽向先生は包帯の端を留めながら、少し目線を上げた。

「最近、橘さん忙しそうだったから。
 大丈夫かなって……ちょっと、気になってたんだ。」

 そのまっすぐな視線に、結衣は思わず息をのんだ。
 胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。


「……まぁ、疲れてはいましたけど、大丈夫です。」


 そう言いながらも、声がほんの少し震えていた。

「ならよかった。」

 陽向先生が微笑む。
 その笑顔を見ていると、どうしてこんなにも苦しくなるのだろう。


 ――これ以上、優しくされると、心が崩れてしまう。


 結衣は立ち上がり、「ありがとうございました。では、戻りますので。」と口早に言ってドアに向かった。


 だが、その背中に声が飛ぶ。

「でも、橘さん……」


 その声音に、足が止まった。




「僕のこと、避けてるよね?」





 ――図星だった。
 背中に冷たい汗が伝う。

すぐには振り返れなかった。


「……気のせいじゃないですか?」

 なんとか言葉を絞り出す。


「ううん、気のせいじゃない。」


 陽向の声は穏やかだけど、どこか寂しげだった。


「気のせいなら…僕の目を見てほしいんだけどな。」


 その言葉に、結衣は息を呑む。
 ゆっくりと振り向くと、陽向先生が真剣な目でこちらを見ていた。


 その瞳には、責める色も怒りもない。
 ただ、まっすぐな想いだけが宿っていた。


「……困るんです。」



 絞り出すように、結衣が言う。



「こういうのも。噂とかも。」




「噂?」


陽向先生は何の事だと言わんばかりに眉を寄せる。


「噂って?」


 結衣は一瞬ためらったが、深呼吸をして口を開いた。

診察室の空気は、いつもより少しだけ熱を帯びていた。
 白い壁に反射する蛍光灯の光が、やけにまぶしい。