蝶々結び




次の電車が来るまでの数分間、結衣は静かに目を閉じた。電車の金属音やホームのアナウンスが、遠くの水面で反響するかのように、胸に静かに響く。

脳裏に浮かんだのは、懐かしい声だった。

――「ねぇ結衣、こっち向いて。」
――「結衣、笑って。」

胸の奥がぎゅっと締め付けられる。懐かしい。でももう、遠い。

新しい病院に勤めてから一年が経とうとしていた。

仕事にも少しずつ慣れ、手術や処置も以前よりは自信を持って行えるようになったけれど、夜勤の明け方や、ふとした空き時間に、あの人の名前がひょっこりと頭をよぎる。

「早瀬先生……」

声に出して呼ぶことはもうない。けれど、心のどこかに残るその響きは、まだ完全には消えていない。胸の奥でそっと揺れ続ける。

結衣は小さく息を吐き、もう一度バッグの紐を見つめる。蝶々結びは今も完璧ではないけれど、手をかければ結び直すことができる。それなのに、人の心の結び目は、簡単には直せない。

「私……大丈夫かな。」

独り言のように、かすかに声が漏れる。誰にも届かないけれど、それでいい。今はただ、自分の胸の奥にある結び目のことを、そっと抱きしめていたい。

そのとき、風が少し強く吹き、結衣の髪を耳にかけながら、遠くのホームの照明が一瞬だけ煌めいた。まるで、ほどけた結び目をもう一度結び直すための、小さな合図のようだった。

結衣は目を細め、手元の紐を握り直す。
「また、結び直せるかな…。」

駅の夜風が、彼女の背中をそっと押しているようだった。