蝶々結び

それから数日。
 結衣は、陽向先生と出くわすたびに気まずくなっていた。
 会話もぎこちなく、以前のように自然に笑えない。

 ――意識している。
 その事実を、自分が一番分かっているから苦しい。

 ナースステーションで患者のデータを入力していると、
 背後からあの穏やかな声がした。

「橘さん、昨日の310号室の患者さん、点滴量調整してくれてありがとう。助かったよ。」

「……いえ、仕事なので。」

 結衣はパソコンから目を離さずに答える。
 指先の動きが、いつもよりぎこちない。

「あれ~?相変わらずそっけないなぁ。」

「そんなことありませんよ。」

「そう?なんか避けられてる気がするんだけど。」

 陽向が笑いながら、モニター越しに覗き込む。
 その距離が近くて、結衣は息を詰めた。
 頬にかかる彼の気配。
 あの柔らかい声が、こんなに近い。

「……別に、そんなことないです。」

 言葉とは裏腹に、ほんの少しだけ後ろへ下がってしまう。
 陽向は眉を下げて、「ふ~ん、そっか」と微笑んだ。
 その笑顔が、以前より少しだけ寂しそうに見えた。

 彼が去ったあとも、胸の奥でざらりとした感情が残る。
 ――どうしてこんなに、苦しくなるんだろう。







 夜――。

 帰宅後、窓の外では風が枯葉を転がしていた。
 コートの襟を立ててベランダに出ると、空気がすうっと肺に冷たくしみこんだ。
 街の灯りが遠く霞んで、冬の入り口を告げている。

 息を吐くと、白く濁った空気が空に消えていく。
 その儚さが、まるで自分の心のようだった。

 ――陽向先生の噂。

 もし、それが本当だったら。
 もし、あの笑顔がただの職場の優しさじゃないのだとしたら。

 考えるだけで、胸の奥が妙にざわめいた。
 心の奥で、静かに波が立つ。

 彼が他の誰かと話している姿を見たとき、
 自分でも驚くほど胸が痛んだ。
 それが何の感情なのか、まだ認めたくなかった。

 風が頬をなでる。
 指先が少し冷たくなっていく。

「……ばか。」

 呟いた声が、風に溶けた。
 けれど、頬をかすめた風はなぜか温かかった。
 まるで、彼がそこにいて微笑んでいるような気がして。

 結衣は目を閉じた。
 まぶたの裏に、あの夏の日の笑顔が浮かぶ。
 真剣な瞳と、不器用な優しさ。
 それがまた、心を静かに揺らした。

 ――これが恋だなんて、まだ言えない。
 でも、もう後戻りできない気がしていた。