蝶々結び【完結】

翌日――。

 勤務終わりのナースステーションは、すでに人の気配がなかった。
 夜の静けさの中、蛍光灯の白がぼんやりと反射する。

 結衣は、机に広げたカルテを一枚ずつ丁寧に整理していた。
 残業というより、仕事をきちんと終わらせたい性分。

 カサ……

 背後で微かな音。
 振り向くと、陽向先生が紙コップを二つ手に持って立っていた。

 「はい、これ。今日も一日お疲れ様。」

 「陽向先生……また甘いやつですか?」

 「うん。今日はココア。橘さん、よく頑張ってたから特別。」

 「……甘やかさないでください。」

 「僕、結構甘やかすの好きなんだよね。特に、橘さん限定で。」

 「……っ。」

 言葉が出ない。
 視線を逸らしても、心拍数が誤魔化せない。

 「でも、あんまり言うとまた怒るでしょ?」

 「……怒りません。ただ、戸惑ってるだけです。」

 「戸惑うってことは、ちょっとは僕のこと意識してくれてるってこと?」

 陽向先生の笑みが、柔らかくてずるい。
 結衣は何も言えず、ただココアを見つめた。

 紙コップの表面から、白い湯気がふわりと立ちのぼる。
 その温度が、指先に、そして胸の奥にまで伝わってくる。

 「……陽向先生って、ほんとずるいですよね。」

 「そう言われるの、橘さんだけだよ。」

 その言葉に、胸がまたざわつく。
 軽口のはずなのに、彼の声がどこか優しく響いた。






 少しの沈黙。

 カーテン越しに夜風が入り、書類がふわりと揺れる。
 ココアを口に含むと、やさしい甘さが広がった。

 「……こうやって飲むの、なんか落ち着きますね。」

 「うん。仕事終わりのコーヒーは最高。」

 「陽向先生は、コーヒー飲むんですね。」

 「そりゃあね。……でも、こうやって飲むのは初めてかも。」

 「え?」

 「誰かと、同じ時間に。」

 不意の言葉に、結衣の胸が跳ねた。

 「僕ね、ずっと仕事ばっかりしてたから。
  こうやって話す時間があるの、なんか新鮮なんだ。」

 「……そんなふうに見えません。」

 「そう? でも、ほんとはけっこう寂しがりなんだよ、僕。」

 「……冗談ですよね。」

 「半分本気。」

 そう言って笑う顔が、少しだけ寂しげに見えた。
 それを見た瞬間、結衣の胸の奥で、何かがきゅっと締めつけられる。

 (……なにそれ。そんな顔、反則じゃない。)






 「陽向先生。」

 「ん?」

 「陽向先生って……いつも、あんなふうに言うんですか?他の人にも。」

 陽向先生は一瞬だけ目を細め、ゆっくりと首を振った。

 「いいや。橘さんだけ。」

 「……なんで、私なんですか。」

 「さあ。理由なんて、あったら困るな。」

 「……困る?」

 「うん。惹かれるのに理由なんていらないでしょ?」

 息が詰まる。
 ココアの湯気が、ふたりの間をかすかに揺らす。

 結衣は下を向き、震える声でつぶやいた。

 「……そういう冗談、ほんとにやめてください。」

 「……冗談じゃなかったら?」

 その言葉が、静かな夜を切り裂いた。
 目を上げると、彼はもう笑っていなかった。
 真剣な眼差しで、まっすぐに結衣を見ている。

 時間が止まったように、世界が静まり返る。
 時計の針の音が、やけに大きく響いた。

 「――…っ、帰ります。」

 かろうじてそれだけを言い残し、結衣は逃げるようにナースステーションを出た。







 夜の駐車場。
 春風が吹き抜ける。
 空には、薄い雲の向こうにぼんやりと月が浮かんでいた。

 (冗談じゃなかったら、って……どういう意味…?)

 心臓がずっと鳴りやまない。
 風が頬を撫でるたびに、さっきの彼の声が蘇る。

 "惹かれるのに、理由なんていらないでしょ?"

 ――あの人の笑顔が、脳裏から離れない。

 まだ、恋とは認めたくない。
 でももう、“好き”の輪郭は、どうしようもなく形を成していた。

 白衣の袖口を握りしめながら、結衣は小さく呟く。

 「……陽向先生、ずるい。」

 夜風が、その言葉をそっとさらっていった。

 触れそうで、触れない距離。
 けれど、もう確かに――灯り始めた小さな恋の熱が、そこにあった。