蝶々結び【完結】

 数日前の夜勤。

 窓の外では、雨が静かに降っていた。
 当直室で書類を整理していると、ナースコールの音が鳴り響く。

 「――302号室、急患です!」

 柚希の声。

 すぐに走り出した。
 病室の中では、結衣が患者の脈をとり、落ち着いた声で指示を飛ばしている。

 「柚希!酸素確認!……陽向先生、腹部圧痛強いです!バイタル86の32、レート120です!!」

 その真剣な声に、胸が強く打った。

 (この人、本当にすごいな。)

 冷静で、的確で、誰よりも患者を見ている。

 急変はなんとか乗り切り、処置が終わる頃には、時計は午前3時を指していた。








 片付けのあと、立ち話をしながら、ナースステーションに戻ると、結衣がそっと声をかけてきた。



 「……でも、陽向先生、電話出るの遅かったですよね。
  他の病棟で何かあったんですか?」

 

 少し低い声。
 叱られると分かっていても、どこか嬉しかった。

 「ああ、ごめん。ちょっと仮眠室で寝落ちしてて……気づかなかったんだ。」


 「……寝落ち?」

 眉がピクリと動く。

 「陽向先生、お疲れなのはわかりますけど、いつ急変してもおかしくない患者さんもいるんです。
  当直の間は、気を引き締めてくださいね。」


 真っすぐな瞳で言われ、胸が熱くなる。

 「……うん。ごめんね。橘さんにも迷惑かけた。」

 「いえ、……仕事ですので。」

 言葉は冷たいのに、その声の端がかすかに震えている。

 思わず、手が動いた。

 「――あ、ちょっと待って。」

 軽く腕を掴む。

 「……な、何ですか?」

 「橘さんがいてくれて助かった。本当に、ありがとう。」

 触れた腕から、体温が伝わる。
 ほんの一瞬なのに、世界が止まったように感じた。

 彼女はすぐに手を振りほどき、視線を逸らす。

 「いえ……お疲れ様でした。」

 それだけ言って、背を向けた。

 (……かわいいな。)
 小さく笑って、陽向は自分の胸の鼓動を抑えようと深呼吸した。








 翌朝――。

 夜勤明けの休憩室。

 柚希と結衣の笑い声がかすかに聞こえてくる。

 「――陽向先生ってさ、なんか天然っぽいよね。」

 「そうかもね。」

 「でもあの笑顔、反則じゃない?つい許しちゃう感じ。」

 「はは……そうかもね。」

 (許されてる……?)

 扉の外で立ち止まり、苦笑する。

 扉を開けて入るのはやめた。
 それ以上、聞いてしまうと、自分の気持ちが抑えられなくなりそうだった。








 春の午後。

 外来での診察を終えて、ふと休憩室の窓から外を眺めた。
 桜が散り始めている。
 淡い花びらが、風に乗って舞っていた。

 (橘さん、今、どこにいるかな。)

 そんなことを考えている自分に気づいて、思わず笑った。

 「――ははっ、重症だな。」

 恋なんて、もっと軽くて楽しいものだと思っていた。
 でも彼女を思うたびに、胸の奥が痛くなる。

 ただ笑ってほしい。
 それだけなのに、どうしてこんなに難しいんだろう。








 夕方、偶然、エレベーター前で結衣とすれ違った。

 彼女はカルテを抱えていて、少し疲れた顔をしていた。

 「お疲れさま、橘さん。」

 「陽向先生も。……まだ残ってるんですか?」

 「うん、外来の記録が少し。君は?」

 「病棟の整理が残ってて。」

 「頑張るね。」

 「仕事ですから。」

 それだけ言って、彼女は歩き出した。

 その背中に、思わず声をかけた。

 「――橘さん。」

 彼女が振り向く。

 「……何ですか?」

 「君のそういう真面目なとこ、すごく良いと思う。」

 言った瞬間、結衣の目が大きく見開かれる。

 そして、すぐに視線を逸らして、
 「……え、あ、どうも?」と小さく呟き、エレベーターに乗り込んだ。

 扉が閉まる。
 残された陽向は、額に手を当てて小さく笑った。

 「(ああ、やっぱり……好きだな、俺。)」