ほんのジョークです。

「おはようございまーす」
 翌朝、草薙が編集室のドアを開けると、既に隣のデスクに石原が座っていた。
「おはようございます、先輩。相変わらず目の下にクマがありますけど、どうせ夜遅くまでネトゲしていたんでしょ。ゲームするより、仕事した方が良いと思いますよ」
 草薙はいつもの悪態を聞き流し、自分の席に腰を下ろす。
「いいんだよ、まだ締め切りまで1週間以上あるしな。それより、石原の方こそ健康管理に気を付けた方が良いんじゃないのか。鼻声だし、鼻水もズルズルじゃないか」
「ああ、これですか。ちょっと、花粉症の薬を飲み忘れてたので」
 石原は上を向いて鼻を啜ると、カバンから先日飲んでいた薬を取り出す。
「これを飲んでると大丈夫なんですけど、飲み忘れたりするとこれです。本当に、煩わしいです」
 そして、4種類に増えている薬をまとめて口に含み、ペットボトルの水で流し込んだ。

「ふう・・・そう言えば、先輩が薬を飲んでいるところを見た事がないですね。課金のし過ぎで金欠だからですか?」
 草薙は手にしていた缶コーヒーのプルタブを引く。
「まあ、確かに金もないが、待合室に座っとくのとか面倒臭いんだよな。コロナが蔓延していた時にワクチンを打てとか言ってたけど、結局、1回も行ってないんだよ。いや、別にワクチン接種に反対してた訳じゃないんだ。ただ単に、時期を逸したというか。実際、一度は打とうとしたんだよ。で、どこに行けば良いのか問い合わせをしたら、もう皆は2回目だから、1回目の人は直接病院に問い合わせて予約を、とか言われて、そのまま面倒臭くて放置と、な」
 草薙の話しを聞き、石原はいつものように嘆息する。
「はあ、先輩らしいというか、何と言うか・・・でも、つまり、先輩の血液はプレミアム血液って事ですよね。1リットルくらい抜き取って売りますか?そうしたら、資金も確保できますよ」
「何だそれ?」
 初めて耳にする単語に草薙が反応する。
「陰謀論というか、都市伝説というか、知らないんですか?ワクチンが人体に悪影響を与えて、云々っていう、よくある噂話です。それで、ワクチンを接種していない人の血液を富裕層が高額で買い取っているらしいと。まあ、誰かが面白半分に流したデマでしょうけど」
「へえ・・・」
 石原の説明を聞いても納得できなのか、草薙は曖昧な相槌を打つだけだった。そんな態度の草薙に対し、石原は無遠慮に身を乗り出して告げる。
「それはそうと、あの(・・)救急車で運んだ女の子が回復したようで、インタビューに応えても良いという返事が届きました。早速、今から病院に行きますので準備をして下さい」
「え、俺は関係ないと思うんだけど?」
「先日のお礼にランチを奢ります」
 その一言で、草薙は素早く立ち上がった。


 国立中央病院のインフォメーションで、石原が搬送された女の子の名前と部屋番号を伝える。そうする事で、ようやく病室の案内を受ける事ができた。病院の個人情報の取り扱いが厳しくなり、入院患者の氏名と何科に入院しているのかを答えられなければ面談できない病院もあるようだ。「入院したと聞いたから来てみた」では面会できない時代になった。
 2人は女の子が入院しているという精神科の病棟に向かう。精神科は脳、うつ病、統合失調症、不安障害、依存症など、心の症状や精神的な病気そのものを専門に診断・治療する診療科だ。薬物中毒患者もここで診療される事が多いらしい。

 あの日、コンビニ近くのコインパーキングで笑っていた女の子は、犬飼(いぬかい) 愛莉(あいり)と名乗った。救急車で搬送された後、緊急で胃洗浄等が行われ現在はすっかり落ち着きを取り戻している。両親は仕事に行っているため夕方までは1人という事だった。
「もう大丈夫なの?」
 犬飼は横にはなっておらず、ベッドの上に座っている。石原はベッドの横に座り、穏やかな口調で犬飼に話し掛ける。
「はい、もう大丈夫です。あの時はありがとうございました」
 その口調や話し方から、平時の犬飼が年齢の割にしっかりした人柄だと分かる。それだけに、違法薬物を使用する事と同義のオーバードーズを実行した事が草薙には理解できなかった。

「大丈夫な範囲で良いから、少しお話しを聞かせてね」
 草薙が見た事もないような優しい笑顔の石原が、視線を落としている犬飼に話し掛ける。すると、小さくではあるが、確かに頷いた。
「オーバードーズって、以前から知っていたの?」
「いえ・・・高校3年生になって周囲が受験の話題ばかりになって、自分の成績とか進路とか考えているうちに、どんどん不安になってしまって・・・」
 消え入りそうな声で話す犬飼。その内容に対し、草薙が思わず口を挟む。
「将来の不安かあ、分かる、分かる。俺も来月どうなってるか分からないし」
「先輩は、まず来週の締め切りの心配をして下さい!!」
 2人のやりとりを聞き、犬飼の表情が少しだけ柔らかくなる。

「ごめんね、このオジサンが話しを折ってしまって」
「いえ、大丈夫です。それで、毎日不安で、それを解消するための方法をネットで探したんです。違法薬物だとか危険なものは最初から考えていませんでした。だから、何か気が紛れるものとかあれば良いなって、そんな感じだったんです。でも、そんなものが簡単に見付かるはずもなく、ダウンロードしていたAIアプリに質問したんです」
「何て?」
 non-noteの取材を通じてAIに興味を持ち始めた草薙が問う。
「不安を解消する方法はないですか?って。そうしたら、将来の人生設計を具体的に考えるとか、目標を実現する方法とか、オススメの本とかが表示されました。でも、一番最後に、現実逃避する事も解決手段の1つだと記載されていたんです。違法薬物の使用は犯罪行為になる可能性が高いが、安価で、しかもより安全に、違法にならない方法としてオーバードーズというものがある、と」
「・・・AI?」
 草薙はどうにか言葉にしたが、石原は絶句したまま言葉に詰まっている。
「実際、かぜ薬を3箱買っても5千円程度でしたし、確かにその時だけは何もかも忘れる事ができました・・・でも、もう二度としようとは思いません。あの、頭の中が真っ白になって、自分が自分でなくなってしまう感覚は、思い出しても恐くて仕方がありません。それに、家族にも迷惑がかかりますから」
 犬飼はそこまで一気に話すと、俯いたまま黙り込んだ。

 その後、オーバードーズには全く関係がない会話を暫く続け、2人は病室を後にした。
 病棟の廊下を歩きながら難しい表情をする草薙に石原が声を掛ける。
「なぜ先輩が考え込んでいるんですか?これは私の取材なんですけど」
「いや、まあ、そうなんだけどな」
「そんな事より、このまま、精神科の楠野川先生に会いに行きますよ。取材の申し入れをしていた先生です。承諾は得てますから、昼休みに会える事になっているので」
 草薙の前をスタスタと石原が歩き始める。
「いや、ランチは?ランチを奢ってくれるはずだったよなあ」
「この後です」

 言い切る石原の後に、草薙の悲鳴が響き渡った。