ほんのジョークです。

 草薙は激しい睡魔に襲われ、夢と現の狭間で境界線が曖昧になっていた。そのため、バーチャルとリアルが混同していても何の違和感も無く受け入れてしまう。常態では苦笑いする事も、常識という壁が崩壊している草薙には現実にしか思えなかった。

 草薙は、問いただすかのようにパソコン画面に語り掛ける。
「いつもはカタカナ表記だったから気付かなかったが・・・いや、神鳥にヒントを与えられなければ、一生想像すらしなかっただろうな。そして、簡単だからこそ誰も考えなかった。eliってlieのアナグラムだ。そうなんだろ、エリー?」
 当然のように沈黙するエリー。10秒余り反応を待った後で、草薙は嗤った。


 翌日、草薙は今井に直行する旨の連絡をして帝都大学に向かった。
 帝都大学は国内でトップクラスの国立大学だ。その中でも電子工学部は世界的にも有数の研究機関を有している。そこで研究員として従事しているともなれば、神鳥は先端技術を修得しているという事になる。帝都大学の正門前に到着した草薙は、その奥に広がるキャンパスを目にして足が止まる。学歴社会が崩壊しつつあるとはいえ、受験しようとすら思わなかった高みを前にして草薙はすっかり気後れしてしまったのだ。

 そんな草薙のポケットの中で、スマートフォンが電話の着信を知らせた。ポケットからスマートフォンを取り出すと、草薙は相手先wお確認する、表示されていたのは国立中央病院の楠野川だった。
「もしもし、楠野川です。草薙さんで間違いないですか?」
「はい、草薙です。何事があったんですか?」
 昨日会って話しをしたばかりであったため、草薙は楠野川からの連絡に少しだけ驚いた。もしかすると忘れ物でもしたのかも知れないと、今日も持ち歩いているカバンの中身を確認する。
「いえ、少しでも早くお伝えした方が良いかと思いまして」
 どうやら、楠野川は忘れ物の連絡ではなく、伝えたい事があるようだ。
「何か特別な事でもありましたか?」
 基本的に楠野川に関係する精神科、脳神経内科関連の事柄は、石原が担当したオーバードーズに関係する情報だ。本来であれば草薙に連絡してくる必要はない。

「昨日、草薙さんが質問された件です。『全ての人間は慢性的なオーバードーズ、もしくはそれに近い状態ではないのか』についてですが、何と、それについて研究論文が発表されていました。ほんの半年ほど前に発表されていたので知りませんでしたが、その論文は正に草薙さんの疑問そのものに答えているかのような内容です。私も昨日見付けて、ずっと読み(フケ)ってしまいましたよ。
 結論から言うと、草薙さんが思っている通りです。薬にについても花粉やその他のアレルギーと同様に、容量以上を摂取すると慢性的なアレルギー、オーバードーズ状態になります。その薬の中には病院等で処方される薬はもちろん、市販されている薬、点滴、注射、劣化ウイルス等を使用するワクチン等の予防接種も含まれます。ですから、アフリカ等の一部を除き、全人類は慢性的なオーバードーズ状態、もしくは予備軍という事になりますね」

 医師兼研究者の性なのかも知れないが、興奮気味に説明する楠野川に押されながらも草薙は当然の質問をぶつける。
「それだと、かなり危険な状況だと思うのですが。一般的なアレルギーであれば異物を排除するために過剰な免疫反応を起こすだけですが、オーバードーズの場合は前頭眼何とかを損傷させてしまう。それだと―――――」
「ですね。まあ、私も少し興奮して断定的に話してしまいましたが、これはまだ確定ではありません。研究途中です。それに、これが本当ならば、もう今の時点で慢性的なオーバードーズにより人格が破壊された人がいるはずですしね」
「・・・まあ、確かにそうですけど」

 草薙は何となく納得できないまま、相槌を打つ。すると、ここで楠野川は思い出したように付け足した。
「そういえば、あの(・・)犬飼さんですが、あの時の状態がまるで嘘のようにすっかり落ち着きました。普通に会話できる状態でしたから、今朝少し話しをしてきました。事件にはしませんでしたけど襲われた相手ですし、当然、凶器になる物が無い場所で面談しましたが」
 花瓶で殴られた相手に会うとか、自分にはできそうにないと思いながら話しを聞く。
「なぜ私を襲ったのか、その動機について質問したんです。そんなに面識もありませんし、私を選んだ理由が全く分からなかったので」
「それで、何と?」
 草薙の質問に、楠野川は「彼女は正常ですよ」と前置きをして答えた。
「ほんのジョークですよ、と、満面の笑みで教えてくれました」

 通話を終えると、草薙は一目散に電子工学部を目指した。
 もう、劣等感等という些細なものは頭になかった。一刻も早く、神鳥に話しを聞かなければならないと思ったのだ。