ほんのジョークです。

 翌日の14時、締切りが目前に迫っているにも関わらず、草薙は国立中央病院に来ていた。石原が完全に手を放した現在、楠野川と面談する者は草薙以外に存在しない。そもそも、楠野川が連絡した相手は草薙なのであるが。

 前回同様、診察室に通された草薙は頭に包帯を巻いた楠野川と相対した。その様子を目にした草薙は思わずギョッとして身を引いた。
「数針ですけど縫ったので包帯をしているだけです。怪我自体は大した事はないんですけど」
 苦笑いする楠野川を前にして、草薙は愛想笑いを返した。
「でも、やはり結構な怪我だと思うんですけど、何か本とかの角で殴られたとかですか?」
「ああ、いえ、これ位の花瓶です」
 楠野川が手で示した大きさは50センチ程だった。普通に打ち所が悪かったら危なかったのではないかと思ったが、本人が大丈夫そうなので草薙は口にする事を止めた。

「それで、どうしてそんな事態になったんですか?先日会った時、犬飼さんは十分に落ち着いている様子でしたし、自分の行為についても反省しているように見えましたけど」
「それなんですが・・・」
 楠野川は机上に置いていた紙の資料を手にすると、経緯について話しを始めた。
「今、草薙さんが言われたように、犬飼さんは正常だと言っても良い状態でした。それこそ、2、3日中には退院する予定でした。
 それが、今日のお昼前の事です。今日は外来の担当ではなかったため、病棟を回診していたんです。一通り病室を回り、ナースステーション戻る直前でした。突然、後頭部に衝撃を受けて、私は前のめりに倒れ込んでしまいました。自分に一体何が起きたのか全く分かりませんでした。しかし、周囲にいた看護士の叫び声で徐々に冷静になり、状況が分かってきたのです。床に滴る鮮血、徐々に感じ始めた痛み。自分に対し何かが倒れてきた、もしくは落ちてきた。最悪の場合、何者かに襲われたのだと理解しました」
「それが、最悪のパターンであったという事ですか」
 楠野川は草薙の言葉に対し、静かに頷いた。
「その通りです。痛みを堪えてどうにか身体を起こすと、目の前に床に押し付けられている犬飼さんの姿がありました。どこから持ち込んだのか陶器の花瓶が転がっていたため、何で殴られたのかも理解しました。よく、これだけの怪我で済んだなと」
 苦笑いする楠野川とは対象的に、草薙の表情は引き攣っていた。

「まあ、事件の経緯は分かりましたけど、なぜ、楠野川先生は犬飼さんに襲われたんですか?何か恨みを買うような事をしていたとか。診察時に暴言を吐いたとか、侮辱するような言葉を言い放ったとか」
「私も精神科の医者なので、その辺りは十分に気を付けていますよ。そもそも、彼女の主治医は私ではありませんしね」
 草薙は小首を傾げる。
「そうなると、楠野川先生は偶然居合わせて、偶々襲われたという事ですか」
「そこが、よく分からないんですよね。他にも医者はいましたし、先程申し上げた通り、私は余り接点が無いんですよ。でも、状況的に考えると、私を狙ったような気もしてくるんですよね」
 話しを聞いていた草薙の眉間にシワが寄る。
「そもそも、どうして彼女は、他人を花瓶で殴り掛かるなんて事をしたんですか?もう退院間近だったはずではないですか」
 すると、楠野川が身を乗り出して声のトーンを落とした。
「監視カメラの映像を調べて分かったのですが・・・下の階、内科の病棟に移動し、看護士が見ていない隙を狙って患者の薬を盗んでいたんです。そして、トイレの中で大量の薬を飲んでいました」
「・・・は?」
「病院内で多病等の入院患者の薬を盗み、オーバードーズをしていたんです。それによって意識が朦朧となり、もしくはハイテンションになり、私を襲ったという事です。オーバードーズについては完全に計画的な犯行です。しかし、その状態で私を襲った事は偶然なのか、それとも計画的なのかは分かりません」

 事件の全容を聞いた草薙は理解するまでに時間を要した。
 草薙は思い返す。犬飼は確かにオーバードーズについて反省していた。もう二度としないと約束もした。しかし、現実的には再び手を出している。そういうものなのだろうか。薬物中毒というものは、自分に課した禁忌を何度も破らせるものなのだろうか。
 納得できない草薙は、何度も自問自答を繰り返し自分に都合が良い最適解を得ようする。しかし、そんな事実は存在しない。実際に楠野川が襲撃され、二度目のオーバードーズに手を染めた犬飼が確かに存在しているのだから。

 頭を抱える草薙に対し、楠野川が更に情報を提供する。
「今日おいで頂いたのは、この事件の全容をお聞かせするためではありません」
 顔を上げた草薙の視線が、正面に座る楠野川の視線とぶつかった。
「全員ではありませんが、オーバードーズで搬送された人にはある共通の特徴があるんです。その特徴が、犬飼さんにもあります」
「それは、一体何ですか?」
 楠野川は手元の資料を開くと、そこに表示されている画像を指差した。
前頭眼窩野(ぜんとうがんかや)に損傷が見られる事です」
「前頭眼窩野、って何ですか?」
 全くの素人である草薙に専門的な単語が理解できるはずもなく、当然のように質問する。その事を分かっていた楠野川は用意していた資料を机の上に広げていく。

「この図を見て頂ければ分かると思いますが、前頭葉のこの部分に当たります。この部分が―――」
 と説明を始めようとした瞬間、楠野川は我に返って咳払いをした。これは脳の構造についての講義ではない事に気付いたのだ。
「この前頭前野という部分は、思考・判断・記憶・感情のコントロール・計画性・創造性など、人間らしさや社会性を司る部位です。その中で、この下の部分が前頭眼窩野になります。この部分は人格形成や感情の制御、社会的な行動選択に深く関わる領域です。オーバードーズをした人は、部位に損傷が見られる事があります」
 正直なところ、こんな説明をされても草薙には全く理解できなかった。そのため、端的な説明を求めた。
「それで、この前頭眼何とかを損傷すると一体どうなるんですか?」
「衝動性の増加、共感性の欠如、無関心、反社会性パーソナリティ障害、所謂(イワユル)サイコパス等の人格の障害を引き起こします。つまり、自我の崩壊や喪失といった深刻な事態に陥る可能性があるという事です」

 草薙は「ふむ」と考え込んだ後、結局、楠野川の意図が分からず問い返した。
「それで、結局、楠野川先生は私に何を伝えようとしているんですか?」
 今の説明を聞いたからといって、草薙的には「へえ」というレベルである。そもそも、草薙の取材対象はあくまでもnon-noteであってオーバードーズではないのだ。
「それが、自分でもよく分からないんです。ただ、草薙さんに伝えなければいけないような気がして・・・」
 呼び出した本人が分からない事が、草薙に分かるはずがない。

 草薙は意味が分からないまま、説明された内容を取材ノートに書き込む。
 オーバードーズが人格に与える影響について書き込んでいる時、ふと最近疑問に思っていた事が脳裏に浮かんだ。折角の機会であるため、草薙はその疑問を楠野川に訊ねた。
「ずっと疑問に感じていた事があるんですけど、質問しても大丈夫ですか?」
「はい、私に分かる事であれば構いませんよ」
 楠野川は笑顔で首肯した。

「花粉症というのは花粉の許容量を超えてしまったために、身体が過剰反応を起こしている状態だと思うんです。オーバードーズも、本来症状を抑えるための物質が大量摂取される事によって、身体が過剰反応を起こしている状態ではないかと思う訳です。中毒性云々は、前頭葉の損傷等が影響しているのでしょう」
「私も同じように考えます」
 草薙の言葉を要約したであろう楠野川が頷く。

「そうだとすると、ほぼ全ての人間は慢性的なオーバードーズ、もしくはそれに近い状態という事ではないのでしょうか?」