ほんのジョークです。

 その後、草薙を取り巻く環境は平穏と取り戻した。日々忍び寄る、記事の締め切り以外は。
 生田の事件以降、草薙は何度となくnon-noteに関する記事を書き直している。それが未だに原稿を提出できていない理由なのであるが、色々と納得ができていないのだ。今日も昨日と同様、編集室のデスクでパソコンの画面に向かったまま手が動いていない。

 そんな草薙の隣では、既に原稿を受理された石原が余裕綽々でマニュキュアを補修している。
「それ、シンナー臭いから他所でやれよ」
 鼻を突く臭いと石原の態度にイラついた草薙が、強い口調で注意する。実際、思考がまとまらないのは、シンナーのせいでもあった。
「ええっ、別に良いじゃないですか。少々臭いくらいは我慢して下さいよ。というか、先輩なら本気でやれば、すぐに記事の1つや2つは終わるでしょ。先輩は読者のために良い記事を書こうとし過ぎなんですよ。私みたいに適当に書いてしまえば良いのに」
「え、ああ、うん」
 いつもとは違う対応に対応できず、草薙はそれ以上何も言えなくなったしまった。しかし、一応は先輩である草薙の注意を聞き入れたのか、石原がマニュキュアのセットを片付け始めた。ようやくシンナー地獄から解放された草薙であったが、何も進んでいないという事実に変化はない。

「ん?後輩よ、薬って4種瑠じゃなかったか?」
 机上に並べた石原の内服薬を目にし、草薙が疑問を口にした。
「これですか?細分化されて6種瑠になったんですよ。私が影響を受けている花粉を特定し、それぞれに最適な薬を処方してもらってるんんです。お陰で良く効くようになりました」
「6種類・・・考えただけでも面倒臭い。面倒臭くなって、途中で止める自信があるわ」
 仰け反る草薙を見て、石原が綺麗な所作で受け答えをする。
「すぐに慣れるので、特に問題ありませんけどね」
「ふうん・・・それにしても、石原の担当医って優秀なんだな。症状や検査結果、経過を見て細かい処方しているんだろ?俺も耳鼻科関係で何かあった時にはそこに行くよ」
 それを聞いた石原が、いつかと同じように人差し指を立てて左右に振る。
「チッチッチ、これはAI処方ですよ。AIに患者のデータを伝え、最適な処方箋を作成。それを担当医が確認し、改めて自分の名前で処方箋を発行す感じです。現在の法律ではAIによる処方箋の作成は認められていないんすよ。だから、担当医が発行した事になっている訳です。正直なところ、人間の医者が決めた処方よりもより、AIの方が信用できますし。ああ、そうそう。編集長も最初は4種類でしたけど、今は6種瑠になっていますよ」
「マジか・・・時代はそこまで進んでるんだなあ」
 草薙は技術の進歩に驚きつつ、自分の仕事に戻る。呑気に石原と話しをしている場合ではない事に気付いた。。石原は草薙とは違い、既に業務を全うしている人なのだ。

 現実を思い知らされた草薙は、目の前に迫る締切日を睨みつつ再び思考の渦に沈んでいった。


 再び事件が発生したのは、その日の昼過ぎだった。
 草薙のメールボックスに1通のメールが届いた。そのメールボックスは仕事用のものであり、名刺に記載されているアドレスになっている。見慣れない送信元を確認した草薙はいつも通り迷惑メールとして処分しようとしたものの、件名に「草薙」という自分の名前が表示されていたため思い留まった。

>先見のMAY 草薙様
 という件名のメールは、草薙にとってかなり衝撃的な内容だった。
>先日お会いした楠野川と申します。
 本件は外部に情報を漏らしていませんし病院内で極秘に処理しましたので、今後も公表される事はないと思います。何より、当事者である私がそれを望んでいないので、このまま無かった事(・・・・・)になります。それでは、ここからが本題です。草薙さんと石原さんが救急車を手配した女子高生。その犬飼さんに、1時間ほど前に襲撃されました。

「―――――は?」
 草薙は思わず疑問の声を上げてしまう。
 それは仕方ない事だと思う。病室で冷静に話しをしていた彼女が、何をどう間違えれば医者を襲うという暴挙に出るのだろうか。その光景も、理由も草薙には全く想像ができなかった。

>詳細をお話しをしたいと思いますので、近日中に病院の方に来て頂けませんか?

 草薙は楠野川のメールを読んで、隣の石原に声を掛ける。元々は石原の取材対象なのだ。正直なところ、草薙にとっては全く関係の無い話題なのである。
「石原、国立中央病院の楠野川先生から連絡があったんだけど、ちょっと話があるから来てくれないかってさ。当然、行くよな?何でも、あの搬送された女子高生、犬飼さんが楠野川先生に危害を加えたみたいなんだよ」
 すると、石原は気怠そうに、ゆっくりと顔を向けて答えた。
「もう記事は書いてしまいましたし、会う理由がないので行きませんよ。非効率ですから」
「マジで?っていうか、非効率?熱でもあるのか?」
 絶対に面白がって乗ってくると思っていた草薙は、石原の素っ気ない態度に少なからず驚いた。
「平熱ですよ、平熱。先輩のおでこで私の熱を測ってみますか?」
 髪を掻き上げておでこを出す石原に動揺し、草薙は自分のパソコンに向き直った。

>楠野川先生
 明日の午後お伺いしたいと思うのですが、お時間は大丈夫でしょうか?

 結局、草薙はなぜか1人で国立中央病院に行く事になった。全く関係無いはずであるにも関わらず、石原が興味を無くしている現状ではそうする以外に方法が無かった。