ほんのジョークです。

 草薙は石原に先導される形で、精神科の楠野川という先生に会いに行った。既に診察時間が終了しているため、診察室での面談だ。
「先見のMAY担当記者の石原と申します」
「草薙です」
 石原に続き、草薙も自らの名刺を差し出す。白衣を纏った40歳前後に見える精神科の医師は2人の名刺を受け取ると、診察室の椅子に座るように促した。
「精神科医の楠野川(くすのがわ)です。どうぞお掛けください」
 2人が腰を下ろす様子を確認した楠野川が先に口を開いた。
「それで、お2人はオーバードーズについて調べていらっしゃる、という事でよろしいですか?」
「はい、その通りです」
 石原が身を乗り出して素早く首肯する。草薙は無関係なのだが、この場でわざわざ否定す意味が無い。

「草薙さんは、オーバードーズがどういうものかご存知ですか?」
 犬飼の件があり、草薙も多少は調べたため最低限の知識はある。全てエリー(・・・)の回答ではあるが。
「薬物の過剰摂取による人体の過剰反応といった感じでしょうか。その過剰反応が、違法薬物を摂取した時と同様の効果があるため、若年層を中心に広がっていると聞いています。現状、違法行為ではないため取締り自体が困難であるとも」
 楠野川は回答の内容を確認しながら何度も頷く。
「そうですね、だいたいそんな感じです。特に市販の薬の中でも鎮痛剤は脳の中枢に作用し、痛みや炎症をを和らげる効果があります。つまり、脳に直接影響を与えるため、一度に用量を大幅に超える薬を服用すると、人体に様々な悪影響が出るのです。が、それが気分を高揚させたり、酩酊状態にさせる事があるため、意図的にオーバードーズを実行する人達がいる訳です」
 その説明に対し純粋な疑問が湧いた草薙が、楠野川に訊ねた。
「気分の高揚や酩酊状態以外にも副作用があるという事ですか?」
 楠野川はその事について説明しようと思っていたのか笑みを浮かべる。
「そこが重要なところです。実際には、あくまでも副作用による一時的な効果です。気分の高揚も酩酊状態も、それが終わると次の段階に進みます。違法薬物についても同じですが、その後は逆に一気に気分が落ち込んだり、頭痛、吐き気、酷い時には呼吸困難や意識混濁に陥る事さえあります。そして、そこから逃れようとしてオーバードーズを繰り返す。その先は薬物中毒ですね」
「脳の中枢に悪影響を与えるという事は、自分の脳を壊すのと同じですね」

『頭の中が真っ白になって、自分が自分でなくなってしまう感覚は、思い出しても恐くて仕方がありません。』
 という犬飼の言葉を思い出し、草薙は身震いをした。好奇心から訊ねただけであったが、思った以上に内容が重いものだった。

 取材しているのは自分ではないと分かってはいるが、視界の端に写る石原が必死でメモ書きをしているため、仕方なく草薙が思い付く限りの質問をする。
「結局のところ、脳が過剰反応をするという事は、花粉症と似た仕組みなのでしょうか?花粉症は許容量を超えた花粉を摂取するために起きる、免疫機能の異常だと聞いた事があります。身体の過剰反応により、鼻水やくしゃみが出るとか。オーバードーズも薬の許容量を超えたために脳が過剰に反応している状態に思えます。それが、幻覚や気分の高揚というだけで―――あ、慢性的な花粉症と、一時的なオーバードーズという違いもありますね。勘違いですね、すいません」
 自分で質問をしておいて、自己解決して反省するという行為をしてしまったため、申し訳なくなり苦笑いする草薙。しかし、草薙の話しを聞いた楠野川は思案顔になった。

 羞恥を覚えた草薙は、思考巡らせ必死で話題を変える。
「それはそうと、オーバードーズというのは、いつ頃がら増えてきたのでしょうか?このような単語を耳にした記憶が無いのですが」
 その問いに、我に返った様子の楠野川が淡々と答えた。
「2010年代半ばですね。それまでは違法薬物や脱法ドラッグ等が主流でした。やはり金額的な負担が関係していると思われます。より安く、よりお手頃に、といった感じでしょうね」
「なるほど、失われた時代、デフレの真っ只中という事も影響しているのでしょうか」
「ええ、そうかも知れませんね」
 と、キリが良いところで草薙の隣からノートを閉じる音が聞こえてきた。
 草薙がそちらに視線を送ると、石原が手にしていたペンを胸元のポケットに挿し込むところだった。そして、ペンを片付けた石原は唐突に笑顔を作り、ほぼ何もしていないにも関わらず堂々と挨拶を始めた。
「楠野川先生、今日はお時間を頂きありがとうございました。大変勉強になりました」
 立ち上がる石原につられるように、草薙も立ち上がる。そして、頭を下げて退室しようとする石原の後を追う。
 その時だった。楠野川が草薙を呼び止めた。
「これ、私の名刺です。もし、何かあれば相談に乗りますのでご連絡下さい」
 自分の取材対象とは違うため迷ったものの、いつか役に立つかも知れないと思い名刺を受け取った。

 廊下に出ると、なぜか激おこ状態の石原に草薙は睨み付けられる。草薙が楠野川から名刺を渡された場面を目撃したからだった。
「私が貰ってないのに、何で先輩がだけが渡されるんですか。もう、昼ごはん抜きです!!」
「え、ええ・・・」

 何のために一緒に来たのか分からなくなるため、この後、草薙は必死に石原を宥めるはめになった。