──────小屋にあった僅かな荷物をまとめ、外で待ってくれていた宇翔の馬車に乗り込む。
まぁ、荷物と言っても一枚の着替えと勉強で使っている本、そして血縁者のあの二人がくれた簪だけだ。
最後のものは置いていこうと思ったが、洒落たもので、刃物のように鋭いため何かしらに役立つだろうと思い持ってきたのだ。
(外もなかなか豪華だったけれど、中も十分素晴らしいわよね)
馬車の中も金細工や銀細工が施されており、座る部分は何日座っていても尻が痛くならなさそうなくらいふかふかだ。
美玉の目の前には宇翔が座っており、これからのことを説明していた。
結局、美玉は彼の提案に乗ることにし、厳美玉から『葉美玉』という名前になった。
村にいても良いことは何も無いし、せっかくなら彼の役に立てるように生きていこうと考えたのだ。
そうやって宇翔と話しているうちに、いつのまにか王都に到着したようだ。
いや、厳密に言えば少し外れたところにある家に着いたようだが。
「儂の家に到着したぞ。降りよう」
「承知しました」
馬車から降りようとすると執事の人が手を差し伸べてくれたが、いつもの癖で遠慮してしまい、結局手を取らずじまいになってしまった。
それから降り、宇翔の屋敷を見ると、朱塗りされた瓦屋根の建物に、龍が象られた大きな門は美玉が三人いても足りないほど重厚なものだ。
先導についていき、家の中に入ると、意外と質素な感じの内装だった。
「あれ。屋敷の見た目の割には内装は豪華ではないのですね」
「・・・・・・そのことは、色々整い次第話そう」
なんとなくはぐらかされた気がするが、話してくれると言うので、それを待つとする。
(ちゃんと話さないといけない、と文字に浮かんでいるし、真剣そうな深い群青色なので大丈夫・・・・・・かな?)
考えながら歩いていたので周りを見渡すことは出来なかったが、なんとなく視線を感じる気がする。
その考えはあながち間違っていないようだ。
【あの小娘は何なの?小汚いわね】
【気持ち悪い瞳。まるで非人みたい】
予想はしていたが、村の者よりもひどい言い方だ。
なるべく周りを見ないように、下を向いて歩くようにする。
やっぱり自分は弱いのだ、と心のなかで呟く。
自分から行動を起こすことさえ出来ず、結局人に任せてしまうし、それによってまた不幸なことが起こる。そしてまたこうやって俯いて何もしない。
ずっとこうやって負が繰り返されるのだ。
それも全部美玉がしないからではあるが。
(今回はどのくらい良い状態でいられるかしら?)
沈思黙考していると、宇翔が声をかけてきた。
「美玉。ここがお前の部屋だ。だが、二日後にはすぐに出てもらうがな。それまでに王都でも常識を会得してもらおう」
「承知しました。ですが、何故二日後なのですか?」
「あぁ。言っていなかったか。お前は二日後、後宮入りしてもらう」
またもや宇翔の唐突な発言に戸惑うこととなった美玉だった。
◇◇
後宮入りした日は、雲一つない絵に描いたような晴れだった。
しかし、それとは反対に美玉は体や頭が重かった。それしか考えられないほどには。
美玉は生まれて初めて絹に触れたし、金や銀などの宝石を見た。それらを身に着けているだなんて信じられない。
彼女は絹をふんだんに使った漢服に腕を通し、金と青玉を加工し春竜胆を模した簪を身に着けている。
そういう事があり、精神的にも物理的にも重い。
あと、一応だが村から持ってきた簪も差してもらった。
輝く宝石たちに隠れてしまっているが、心構えが変わってくるのでつけるのとそうじゃないのとでは大きな違いがある。
(後宮って、こんなに規模が大きくて、目が眩むほどきらびやかな場所なのね)
美玉は第五位の位を賜り、晴れて楊国の皇帝の妃となった。
実を言うと、美玉一人ではない。
葉家の一人娘である『葉夏雲葉夏雲』と共に後宮入りしたのだ。
夏雲は美しい金の髪に黄玉のような煌めく瞳を持ち、美玉とは対称的な華やかな顔立ちをしている。
そう。後宮入りするのは美玉一人ではないのだ。
宇翔曰く、元々は夏雲一人の予定だったが、妃の一人が後宮から去ったので、その分を埋めるべく美玉を養女にしたのだという。
後宮での寵愛は、家の権力に比例する。
夏雲でも美玉でもどっちでもいい。どちらかが皇帝の寵愛を受ければ、葉家は発展する。 駒が増えればその分可能性は増える。だから美玉も後宮入りさせたのだろう。
宇翔にとっては、二人は所詮道具に過ぎないのだ。
そんなことは今はどうでもよく、現在美玉は夏雲から話しかけられていた。
「美玉、でしたっけ?私の義妹となったのですから、もっと胸を張ってよろしいのよ?まぁ、そんな貧相な胸は見苦しいので、それでもよろしいですけれど」
「ご心配ありがとうございます。夏雲義姉様」
「あら。私はあなたに義姉と呼ばれたくないわ」
「・・・・・・申し訳ありません」
普通の調子で言っているように見えて、よく考えてみるととても刺々しい。
それはそうだろう。大好きな父が認めたのも苛つくだろうし、元農民の呪い子が自分と同じ土俵に立っているのは許せないだろう。
(私より見た目が美しい人など、いくらでもいるだろうし。劣っている人と自分を、同じにされたくないよね)
表にもその気持ちは出ているが、頭に浮かんでいるその文字はもっと酷い。
【醜い顔ね】
【視界に入れたくない】
【こんな呪い子、早く殺されればいいのに】
美玉に対して完全に悪意を持っている。
これからの後宮での生活が不安だが、義姉妹という立場上、関わらなければいけない場面が多いだろう。
ため息をつきたくなるが、今の状況じゃ絶対に駄目だ。
二人の周りにはたくさんの侍女や宦官たちがいる。初っ端から威厳を損ねるわけにはいかない。
ちなみに、宦官とは男性の大切なものを失い、後宮の安寧に身を捧げた者たちだ。だからといって女性になるわけではないのだが。
話は戻るが、現在後宮で生活をするうえでの注意点を応接間で聞いている。
美玉はよく聞いているが、夏雲はあまり聞いていないようだ。部屋の内装を観察している。
(話をちゃんと聞かないと、困るのでは?)
疑問に思うが、彼女の専属である侍女にあとから聞くなりするだろう。心配することはない。
「最後に皇帝陛下からお二人に言伝を預かっております。『何か不安なことがあればすぐに伝えよ』とのことです」
その言葉を最後に長く続いた話がやっと終わり、これから自分の宮に行くという。
「それでは美玉様、夏雲様。ご案内申し上げます」
いつの間にか用意されていた輿に乗り込む。
垂れ絹で隙間を閉じようとしたその時、夏雲が美玉にしか聞こえないような小さい声でこう言ってきた。
「お前如きが調子乗るんじゃないわよ。才俊様の寵愛は私のものよ」
まだ言いたいことがあるのか、彼女の周りには真っ黒でどろどろした書体の文字があり、顔に覆いかぶさっているほどにはある。
たった二日間で完全に美玉のことを敵としてみなしたのだろう。
彼女の気に障るようなことをすれば何をされるかわからない。
それでも他の人に相談することは絶対に駄目だ。
(他人を信じてはいけないわ。何をされるかわからないから。どんなに親切にされたとしても、必ず)
このことを心に刻みながら、夏雲の機嫌を損ねないように怯えながら生活をすることになるだろう。
◇◇
面白い娘が来たと聞いた。
そう言ってきた奴は俺の一番信用できる臣下であり、幼馴染であり、近衛騎士だ。
名を『全静』という。
こいつは黒髪の冷静沈着なやつで、俺の本来の姿を晒しても落ち着いて対応できる貴重な人材だ。
静は普段女には興味ないやつなのだが、珍しく新たに来た妃に関心を寄せているようだ。
「新しい妃って、第三位と第五位だよな?確か義姉妹なんだって?」
「はい。その中の、義妹君の方でございます」
「どこに興味を引いた?」
「瞳です。左右非対称でありながら、美しいそうです。左は青玉、右は翡翠のような色と輝きを持っているようで」
楊国は様々な国の血が入っている人間が多いため色とりどりなのだが、左右で瞳の色が違うというのは初耳だ。
それは気になるだろうな。
美しいと思う一方、それ故に恐ろしさも感じる。
神から愛された故なのか、反対に神から罰を与えられた故なのか。
どちらにせよ、俺の大事な妃になったのだ。
気に入れば寵愛を与えてもいいだろう。
「会うのが楽しみだな」
俺の名は『莫才俊』。
楊国の皇帝だ。
◇◇
ようやく揺れが収まり、やっと恋しかった地面に触れることが出来た。
(ふぅ。少し輿が小さかったから腰が痛い・・・・・・)
移動しているときも夏雲が言ってきた言葉と、黒い悪意に塗りつぶされた顔を思い出し震えてしまった。
今まで様々な悪意にさらされてきたが、あそこまでの負の感情を見たのは初めてだ。
彼女はなぜ美玉のことを気に入らないのだろうか。自分が考えた理由だけではないのだろうか。
「でも今は考える必要はないもの・・・・・・。とりあえず、宮に入ってもよろしいですか?」
そう傍に控えていた宦官に伝え、目的の場所に向かって行った。
行く途中では宮の名前を象徴する月季が咲き誇っていた。
美玉がこれから過ごすこととなる宮は月季宮だ。
後苑を過ぎ、入り口からそこへ入ると、扉のそばで数人の侍女が控えており、美玉に向かって頭を下げていた。
「美玉様、本日よりお側で仕えさせていただきます。侍女頭の『胡萌萌』でございます」
「えっ。あのっ、頭を上げてください」
今までは美玉が頭を下げる立場だったので、下げられる方は初めての経験だ。
少し驚いてしまい、思い描いていた落ち着いた第一印象は与えられなかったかもしれない。
相手も驚いた様子で顔を上げると、すぐに皆の顔が明るく興奮した表情になり、上の方が寒色だった文字の塊たちが、一気に暖色に変わった。
「えっ!?美玉様は綺麗な瞳をお持ちなのですね」
「お顔も整っていらっしゃいますね。お化粧には自信がありますので、ぜひ私におまかせを!」
「よかったぁ。お優しそうなお方ですし、何より美しく可愛らしい!」
堅苦しい雰囲気だったが、急に暖かい空気に変わった。
夏雲があんなふうに言ってきたものだから、てっきり侍女たちも今までと同じようなことを言われ、思われると考えていた。
だが、実際は全く違ったようだ。
それぞれに浮かぶ文字は日だまりのような黄色や柔らかな桃色で、言葉も美玉に対して好意的に思っているものばかりだ。
【なんて儚げなお方なのでしょう!私が守って差し上げねば】
【今まで生きてきた中で最も綺麗な瞳ね。一目惚れしちゃった】
【後宮では私たちしか味方がいないのだから。更に精進していかなきゃ】
皆がこんな風に思ってくれているのが嬉しい。
でも、美玉にはそんなことを言われる筋合いはない。
(私はもう他人を信じないって決めてるもの・・・・・・。心に誓ったのに。いつかは絶対に裏切られるって知ってるもの・・・・・・)
決めてるはずなのに、侍女たちに絆されてしまいそうで怖い。
彼女らも本心で思っていると分かっているのだが、それでもいつか変わってしまうだろう。
人の本音ほど、美玉にとって怖いものはない。
人は信用してはいけない生き物だと、この十七年間で学んだだろうに。
────一番知っているのは美玉自身なのに。
「美玉様。道中大変でいらしたでしょう?少し簡素な服にお着替えなさってお休みください。私たちがずっとお側に付き添っておりますから」
「っ・・・・・・」
なんで、優しくしてくるのだろう。
こんな人間放っておけばいいのに。仕事だから、仕方なくやっているのだろう。
受け入れたいのに、美玉の決意が邪魔をする。
そんな様子を察したのか、萌萌が話しかける。
「後宮は女たちの闇が全てさらけ出されたところですからね。侍女だとしても信じられないのはよく理解できます。ですが、ほんの少しでもよろしいのです。私たちを、受け入れてはくれませんか?」
「・・・・・・でも。人は裏切るでしょう?私をのけ者にする。あなたたちも、仕事だから寄り添っているだけなのでしょう?」
こんなに優しく話しかけてくれる萌萌にすら突き放してしまう。
(あぁ。醜い自分が嫌になる。・・・・・・本当は、信じてみたい。彼女たちを、信用したい)
自分の本心に気づいてしまったが最後。
目からどんどん水が溢れ出てくる。止めようとしても止まらない。
「うっ。ふぐぅっ・・・・・・」
「美玉様。今日までお一人でどれほどその苦しみに耐えてきたのでしょう。よく頑張られましたね。これからは、私共が命に代えても貴方様をお守りいたしますから」
萌萌がその温かな体で美玉の小さな背中を抱きしめた。
初めて自分の想いに気づいた。
それは、美玉を受け入れてくれた彼女たちのおかげだ。
感謝してもしきれない。
ならば、どうやって返していこうか。
その答えは、もう決まっている。
「萌萌。私はあなたたちを信じても良いのですか?」
周りにいた侍女は驚き、顔を合わせる。
だがすぐに返事は返ってくることとなる。
それは、彼女らの上に浮かぶ優しい色で答えは出ているようなものだろう。
◇◇
その後簪を外したり、服を着替えたりした。
簡素なものとはいえ、後宮の中では上位の位を持つ美玉だ。それなりに豪華である。
今まで布とも言えないような軽い麻の服を着ていた彼女にとっては重く、動きづらい。
だが、これからはずっとこのようなものを着ていかなければならないので、慣れていかなければならない。
ひと段落つき、広間で間食を出してもらう。
広間の中も妃になったのだと実感せざるを得ないようなものだ。
見事な彫刻が施された円卓が置かれていた。侍女の一人が手際よく香炉に火を灯すと、上品な沈香の香りが部屋の中に広がる。
長椅子に座っていると、円卓の上にはいつの間にか胡麻団子が置いてあった。
「美味しそう・・・・・・」
「そうでしょう。ですが、毒見が終わるまで少々お待ちくださいね」
「毒見?」
後宮は妃たちの蹴落とし合いだ。時には食事の中に毒が入ってることがあるという。
そのために侍女の一人が妃が手を付ける前に食べ、それを体を張って確かめるという。
(毒が入っているとか、信じられないわ)
絶対に入ってないように、と手を合わせ願う。まぁ、そんなことをしても意味はないのだが。
そうすると、いつの間にか部屋の中が主張が強めな桃色で埋め尽くされる。
よく文字を見てみると、皆が美玉を褒めるような言葉を連ねている。
【何あの動作!?ものすごく愛らしい!】
【美玉様の行動一つ一つに目が離せませんね】
なぜそう思っているのかはわからないが、楽しそうなら何よりだ。
そう考えていると、目の前に胡麻団子が置かれ、それと同時に一列に侍女や宦官たちが並ぶ。
何事だろうと思っていると、萌萌が口を開いた。
「美玉様。お差し支えがなければ、我々の名前を覚えていただけませんか?」
「も、もちろんです。むしろ、よろしくお願いします」
そう言うと皆の顔は安心したように、笑顔になった。
覚えると言ってもたった七人だ。すぐに覚えられるだろう。
一人ずつ名前を教えてくれたが、特に印象に残っているのは三人だ。
「侍女頭の胡萌萌です。何かあれば私にご相談ください」
最初から美玉に寄り添ってくれ、まるで母のような安心感があった。一番信頼できそうだ。
「『屈陽紗』です!美玉様とお話するのが楽しみです!」
一番元気で最年少の陽紗は美玉と同い年で、友達のような親近感が湧いた。頭に浮かぶ文字も一番光っており、興奮した様子だった。
「『黃智愛』です。毒見係でもありますね。美玉様をお支え出来るよう精進してまいります」
侍女たちの中で一番落ち着いており、大人らしい彼女は美玉も気分が落ち着くような雰囲気の持ち主だ。
頭の上を見なければ、の話だが。
【どうか私の名前を呼んでいただけますように!全力で幸せにしますから!】
【こんなに小さなお手でずっと独りで戦ってきたのでしょう。今度が私が守ります!】
一番落ち着いていて、一番騒がしい人だ。
そんなこんなで侍女たちのことを知った美玉だったが、やっぱり彼女らは自分の味方だと信じて良いのだと再認識させられる。
(一回も暗い色になっていないし、悪く思っているような感じもしない。基本皆顔に出ているし。大丈夫かな)
心の底から、とはそう簡単にいかないが、いつかは彼女たちを信じられるようになりたいと願った。
◇◇
「美玉様!今夜は皇帝陛下がこの月季宮にお越しになりますよ!」
「・・・・・・え?」
いつも通り興奮した様子で陽紗がこちらに走ってきて、大事件が起きたとでも言いたげな様子で言ってきたのだから、思わず美玉は首を傾げてしまった。
でも周りの侍女たちは騒いでいる。
なぜだ、と疑問に思い、近くにいた智愛に聞いてみる。
「皇帝陛下が宮にお越しになるくらいで、なぜそんなに皆騒ぐのですか?」
「美玉様はこの意味をお知りではないのですか?」
「確か、お渡りとか夜伽とか、そんな意味だったはずです」
そう。宇翔の屋敷で後宮で過ごすうえで大切な言葉などはもう学んである。
意味は知っているのだが、そこまで大事にする必要はあるのか、と不思議に思ったのだ。
「美玉様。お渡りの回数は、妃の寵愛を争う大事なことなのです。後宮入りしたからと言って必ずお越しになられるとは限らないのですよ」
「・・・・・・つまり、私の宮へお越しになるのはすごいことということですか?」
「そういうことでございます」
なるほど、と納得した。
美玉にとって寵妃になることは、正直に言うとどうでもいい。
なんなら、夏雲に苛められる可能性があるため、避けたいことだ。
だが、やるしかないだろう。寵妃になることが、美玉の恩返しなのだ。
(今夜皇帝陛下が、莫才俊様が私のもとに訪れられるのだ。折角の機会だけれど、やっぱり私の瞳のことが心配ね・・・・・・)
侍女たちは受け入れてくれたが、夏雲のように快く思わないものもいるだろう。というか、それが普通なのだが。
皇帝までもがそうだとしたら、美玉の居場所は後宮になくなる。
「美玉様。ご心配なさらずとも、私共が美玉様のことを美しく磨き上げます故。ご安心くださいませ」
「そうですよ、美玉様。最高級の美しい寝間着、化粧品を用意しております。それを身に着けられれば、きっと皇帝陛下もあっと驚くほど、見惚れますよ!」
「陽紗の言う通りです。私の化粧の技術は皇太后様も認められたほどなのですよ。私にお任せください」
美玉の不安げな様子に、侍女たちが励ますように話しかけてくれる。
皆自信満々な顔で、文字も元気な、しかし落ち着くような不思議な形をしている。色もいつもより大人しい感じの色だ。一人を除いて。
(皆、私を心配してくれているんだ。・・・・・・私も、期待を裏切らないようにしなきゃ)
黙ってしまったものの、優しい顔でずっと待っててくれている。
そんな萌萌たちをがっかりさせたくない。
「皆ありがとう。頑張ってみるから、手を貸してくれるかしら?」
「美玉様・・・・・・!」
うっかり馴れ馴れしい口調で話してしまったが、逆に彼女たちは嬉しそうにしている。
【美玉様が敬語ではない口調でお話なさった!嬉しすぎる!】
【我が一生に悔いなし・・・・・・】
なんだかいつもよりも明度の高い色が頭上に浮かんでいる。
喜ばしいことなので、これからはなるべくこの口調で話すようにしようと美玉は心に決めた。
「さぁ美玉様。全身の隅々まで磨き上げますよ」
目を輝かせた萌萌たちに圧倒され、今日はもう何も出来ないなと悟った。
◇◇
つむじから足の先まで見事に磨きかけられた美玉は、こころなしか周りが輝いているように見えた。
深緑の長い髪は椿の髪油を使って丁寧に撫でられ、全身は保湿効果のある石鹸の良い香りのする香油を塗られた。
いつもより前髪が横に分けられているので、瞳が一層引き立てられている。
(なんだか慣れないからかしら。そわそわして落ち着かない)
寝台の上に座って皇帝を待つが、なかなか来ない。
もしかしたら、今日は来ないのかもしれない。
そう考えていると、機を同じくして扉が開いた。
そこには深紅の髪を頭上に束ね、それとは対称的な黒曜石のような漆黒の瞳を持った貴人が立っていた。
おそらく、彼が皇帝である才俊なのだろう。
立ち上がり、いつしか宇翔にした敬礼よりももっと位の高い挨拶をする。
「第五位の妃である葉美玉にございます。・・・・・・早々無礼かと存じますが、私の瞳をご覧にならないようにしてくださいませ。陛下のその綺麗な瞳が汚れてしまいます故」
本当はこんな事を言うつもりではなかったが、才俊の自分とは違う美しい瞳を見ると、そんなふうに言ってしまいたくなった。
自信を持っていいと、侍女の皆は言っていたが、やっぱり心の底では信じられていないのだ。
自分自身が嫌っているから、信じられないのだ。
最初から失礼なことを言ってしまったと、自分の失態に気づく頃には、部屋の温度が下がっていた。
「あ・・・・・・」
才俊の頭上に浮かぶ文字は、灼熱の赤を纏っていた。
(どうしよう。怒らせてしまった。こんなに深い赤を見たことはないわ)
内容を見るのが怖くて俯き、才俊の豪華な刺繍が施された靴を見る。
恐怖に体を震わせていると、上の方から声が降ってきた。
「美玉・・・・・・と言っていたな。私は怒ってなどいないから、顔を上げなさい」
「承知いたしました・・・・・・」
皇帝が言うのならば、従わなければならない。
恐る恐る目線を上げていくと、そこには慈愛に満ちた美しい顔があった。
「怖がらせてしまい申し訳なかった。私は皇帝である莫才俊だ。今夜はよろしく頼む」
「はい。今夜は我が月季宮にお越し下さり──」
「堅苦しい事は言わなくて良い。私は君のことが知りたい。そういうことはしないから、安心してくれ」
自分が思っていたよりも優しい事を言ってくれているので、さっきの頭上に浮かんでいた文字は見間違えだと思い、もう一度見てみるが、やはり見間違えではなかった。
だが、内容は思っていたものとは違った。
【あぁ。なんて美しい娘なのだ。ここだけ暖かく感じるのは気のせいか?】
【見るなと言われてしまったが、なぜだろう?あんなにも素晴らしい宝石のような瞳だというのに】
【可愛らしいな。食べてしまいたい】
【俺だけの、美玉にしたい。甘いその顔も、崩してみるのは楽しそうだな】
やっぱり見間違えではないか?と読み終わった時、美玉は思ってしまった。
なぜなら、そんな事を考えている顔に見えないし、ずっと表情は動いていないからだ。
多少なりとも変化があるはずなのに、まったくない。
(ていうか、部屋の温度は低い方だと思うけれど、なぜ暖かいと思っているのかな?)
疑問に思うことが多すぎて、うっかり才俊の顔をずっと見つめてしまっていた。
すると、急に口角を上げて、少し苦しい顔が柔らかくなった。
字体も少し崩れたものに変わり、灼熱の赤は髪の色よりも深い深紅に変わった。
【美しい瞳も、俺の理性を壊す材料の一つになってしまうとは】
【そんなうっとりとした表情で見ないでくれ。壊してしまいたくなる】
さっきよりも更に加虐的な内容になってしまい、美玉は怯えてしまう。
「ひゃっ!」
体が無意識に震えてしまうが、目線だけは才俊から何故か離せない。
そうしていると、彼の顔が美玉の耳元に近づき、甘い声で囁いた。
「小動物のようで、愛らしい。・・・・・・そんなに見つめられては、余計に慈しみ、追い詰めたくなるではないか」
そう言って彼は舌舐めずりをした。
最初に見た慈悲に満ち溢れた顔とは打って変わって、色気に溢れた男の顔をしていた。
きっと、本当の顔は後者の方なのだろう。
もしこの顔を美玉一人しか見ていないとしたら?
(それは、嬉しい)
考えると胸がときめいてしまう。
ただ優しいだけではなく、少し加虐的なところがある人を美玉はかっこいいと思う。
二面性のある人物は面白く、魅了される。
「出会ったばかりなのに、もう好きになってしまいました」
「・・・・・・!」
思わず口に出してしまったが、才俊は顔を赤くし、こちらにもっと近寄ってきた。
お互いの息が感じられるほど、至近距離にいる。
「今夜は初めてだから、やめようかと思っていたのだが。やはり、美玉の顔を見ると抑えられなくなってきたな。どうしようか」
今日は夜伽を免除されたことに安心したのも束の間。
正直今夜はもう眠いため、遠回しにやりたくないと言ってみる。
「そ、それは困ります!務めだと分かってはおりますが、まだよろしいのではないでしょうか?ほら、皇帝陛下も明日は御公務がありますでしょうし──」
「皇帝陛下、と呼ぶな。才俊と呼べ」
話が逸らされてしまったが、今夜はやめるという意味なのだろう。
頭上に浮かぶ文字も、なんとなく残念がっているように見える。
「・・・・・・それでは、才俊様と」
「よろしい。さぁ、もう遅い。早く寝台に入ろうか」
そう言って美玉を持ち上げ、優しくそこに降ろした。
先程の表情ではなくなっており、少しばかり悲しくなってしまったが、首を振って否定する。
(我儘になってはいけないわ。才俊様にご迷惑をおかけするわけにはいかないもの)
いつの間にか眉間に皺を寄せてしまっていたのか、才俊がそれをほぐすように手で揉む。
「そんな顔をするな。私がいる。何も悩むことはない」
「承知致しました。それでは、おやすみなさいませ」
「・・・・・・あぁ。おやすみ、美玉」
二人で身を寄せ合い、その夜は眠った。
外で輝く月の周りには怪しげな雲が浮かんでいた。
◇◇
今夜は才俊が来ていない。
少し寂しいと思うが、彼は皇帝なので忙しいのは当たり前だ。
(もうこんな時間!?萌萌を呼ばなきゃ)
後宮入りしてからいつの間にか一週間経っていた。
村で過ごしていたときはやることもないし、頻繁に来る村人からの罵倒が毎日の予定のようなものだった。
それに比べて、今の生活はとても充実したものだ。
朝起きたら豪華な朝餉を用意してくれ、毎日綺麗な服に袖を通せるし、教本や書庫にある本は読み放題。気晴らしに外に出ることもできる。
夜は二日に一回才俊が訪れて、二人で雑談をしている。その時間だけは、夏雲のあのおぞましさを忘れることができる。
だが最近は会えていない。少し寂しいが、彼は多忙なのだ。仕方ないだろう。
「はぁ・・・・・・」
もちろんこの生活に罪悪感はあるし、未だに自分のような人間がこのような生活をして良いのかと思う。
もしこの様子があの血縁者二人に知られたのなら、どんなことを言われてしまうのだろうか。
ずっと忘れることはないだろうが、侍女の皆のおかげでそれが薄れることはある。
自分から意見を言うことにまだ慣れず、戸惑ってしまう美玉を優しい顔で待ってくれるため、落ち着いて言うことができる。
隣にいるだけで安心感があるのだ。
(やっぱり信用しても良いのかな?でも、全部を任せることは出来ないし・・・・・・)
今の状態が、彼女たちの望む『受け入れること』なのか。
それはやっぱり気になる。
くよくよしても仕方がない。前に進むことがいちばん大切なのだ。
「美玉様。明日のご予定を申してもよろしいでしょうか?・・・・・・美玉様?」
「あ。ごめんなさい。聞いてもいいかな?」
「はい。もちろんでございます」
外の様子を眺めていたが、萌萌が話しかけてくれたおかげで視線を戻すことが出来た。
「ご予定は特にないのですが、夏雲第三妃様が親睦を深めるためにお茶会を望んでおります。どうなさいますか?」
「夏雲義姉様が?」
あの日以来ずっと接触をしてこなかったため、何の意図があるのかわからない。
でも、あの悪意の量からして何かしら美玉に手を出してくるだろう。
本当は会いたくないし、見たくもないのだが呼び出しに応じなければならないだろう。
「分かりました。伺うと言伝をお願いできる?」
「承知致しました」
そう言い残して、萌萌は近くにいた宦官に言伝をした。
彼の名前は『原龍城』。寡黙な彼だが、美玉は考えていることがわかるので、意外と相性がいい。
(それに、雰囲気が静かだから近くにいると落ち着くのよね)
彼が部屋から出ていくのを見届けてから、萌萌に話しかける。
「萌萌。茶会はいつからなの?」
「太陽が真上に届いたときに開始するとのことです」
「分かりました。それまでは勉強をしてもいいかな?」
「もちろんでございます。私はお側に控えておりますので、何かございましたら遠慮なく申し上げてくださいませ」
そう言って萌萌は宮の書庫へ案内してくれる。
まだ宮の部屋の位置を覚えていない美玉は毎回教えてもらったり、案内してもらっている。
少し申し訳ないと思う一方で、いつも浮かんでいる橙色や黄色の文字を見るたびに別にいいかと思ってしまう。
(甘えてはだめ。しっかりしなければ、この宮をまとめている妃として面目が立たない。私はこれでも第五位の妃なのだから)
足音を背景音楽にしながら、萌萌は前を向いたまま美玉に話しかける。
「・・・・・・私の本心を申しますと、嫌な予感がいたしますね。夏雲様は何か企んでいられるかと」
萌萌の文字は、今まで見たことがないほど不安そうな灰色だ。
今まで彼女には不安を取り除いてもらったのだ。その分これから少しずつ返していかなければいけない。
「分かってるわ。でもこれは試練なの。乗り越えなければ、きっと私は本当の意味で才俊様の妃となれないわ」
自信を持って才俊の隣に立てる女になりたい。
そのためには強くならなければならない。
服の袖を強く握りしめながら、太陽の光が差す長廊を少しずつ歩き出した。
まぁ、荷物と言っても一枚の着替えと勉強で使っている本、そして血縁者のあの二人がくれた簪だけだ。
最後のものは置いていこうと思ったが、洒落たもので、刃物のように鋭いため何かしらに役立つだろうと思い持ってきたのだ。
(外もなかなか豪華だったけれど、中も十分素晴らしいわよね)
馬車の中も金細工や銀細工が施されており、座る部分は何日座っていても尻が痛くならなさそうなくらいふかふかだ。
美玉の目の前には宇翔が座っており、これからのことを説明していた。
結局、美玉は彼の提案に乗ることにし、厳美玉から『葉美玉』という名前になった。
村にいても良いことは何も無いし、せっかくなら彼の役に立てるように生きていこうと考えたのだ。
そうやって宇翔と話しているうちに、いつのまにか王都に到着したようだ。
いや、厳密に言えば少し外れたところにある家に着いたようだが。
「儂の家に到着したぞ。降りよう」
「承知しました」
馬車から降りようとすると執事の人が手を差し伸べてくれたが、いつもの癖で遠慮してしまい、結局手を取らずじまいになってしまった。
それから降り、宇翔の屋敷を見ると、朱塗りされた瓦屋根の建物に、龍が象られた大きな門は美玉が三人いても足りないほど重厚なものだ。
先導についていき、家の中に入ると、意外と質素な感じの内装だった。
「あれ。屋敷の見た目の割には内装は豪華ではないのですね」
「・・・・・・そのことは、色々整い次第話そう」
なんとなくはぐらかされた気がするが、話してくれると言うので、それを待つとする。
(ちゃんと話さないといけない、と文字に浮かんでいるし、真剣そうな深い群青色なので大丈夫・・・・・・かな?)
考えながら歩いていたので周りを見渡すことは出来なかったが、なんとなく視線を感じる気がする。
その考えはあながち間違っていないようだ。
【あの小娘は何なの?小汚いわね】
【気持ち悪い瞳。まるで非人みたい】
予想はしていたが、村の者よりもひどい言い方だ。
なるべく周りを見ないように、下を向いて歩くようにする。
やっぱり自分は弱いのだ、と心のなかで呟く。
自分から行動を起こすことさえ出来ず、結局人に任せてしまうし、それによってまた不幸なことが起こる。そしてまたこうやって俯いて何もしない。
ずっとこうやって負が繰り返されるのだ。
それも全部美玉がしないからではあるが。
(今回はどのくらい良い状態でいられるかしら?)
沈思黙考していると、宇翔が声をかけてきた。
「美玉。ここがお前の部屋だ。だが、二日後にはすぐに出てもらうがな。それまでに王都でも常識を会得してもらおう」
「承知しました。ですが、何故二日後なのですか?」
「あぁ。言っていなかったか。お前は二日後、後宮入りしてもらう」
またもや宇翔の唐突な発言に戸惑うこととなった美玉だった。
◇◇
後宮入りした日は、雲一つない絵に描いたような晴れだった。
しかし、それとは反対に美玉は体や頭が重かった。それしか考えられないほどには。
美玉は生まれて初めて絹に触れたし、金や銀などの宝石を見た。それらを身に着けているだなんて信じられない。
彼女は絹をふんだんに使った漢服に腕を通し、金と青玉を加工し春竜胆を模した簪を身に着けている。
そういう事があり、精神的にも物理的にも重い。
あと、一応だが村から持ってきた簪も差してもらった。
輝く宝石たちに隠れてしまっているが、心構えが変わってくるのでつけるのとそうじゃないのとでは大きな違いがある。
(後宮って、こんなに規模が大きくて、目が眩むほどきらびやかな場所なのね)
美玉は第五位の位を賜り、晴れて楊国の皇帝の妃となった。
実を言うと、美玉一人ではない。
葉家の一人娘である『葉夏雲葉夏雲』と共に後宮入りしたのだ。
夏雲は美しい金の髪に黄玉のような煌めく瞳を持ち、美玉とは対称的な華やかな顔立ちをしている。
そう。後宮入りするのは美玉一人ではないのだ。
宇翔曰く、元々は夏雲一人の予定だったが、妃の一人が後宮から去ったので、その分を埋めるべく美玉を養女にしたのだという。
後宮での寵愛は、家の権力に比例する。
夏雲でも美玉でもどっちでもいい。どちらかが皇帝の寵愛を受ければ、葉家は発展する。 駒が増えればその分可能性は増える。だから美玉も後宮入りさせたのだろう。
宇翔にとっては、二人は所詮道具に過ぎないのだ。
そんなことは今はどうでもよく、現在美玉は夏雲から話しかけられていた。
「美玉、でしたっけ?私の義妹となったのですから、もっと胸を張ってよろしいのよ?まぁ、そんな貧相な胸は見苦しいので、それでもよろしいですけれど」
「ご心配ありがとうございます。夏雲義姉様」
「あら。私はあなたに義姉と呼ばれたくないわ」
「・・・・・・申し訳ありません」
普通の調子で言っているように見えて、よく考えてみるととても刺々しい。
それはそうだろう。大好きな父が認めたのも苛つくだろうし、元農民の呪い子が自分と同じ土俵に立っているのは許せないだろう。
(私より見た目が美しい人など、いくらでもいるだろうし。劣っている人と自分を、同じにされたくないよね)
表にもその気持ちは出ているが、頭に浮かんでいるその文字はもっと酷い。
【醜い顔ね】
【視界に入れたくない】
【こんな呪い子、早く殺されればいいのに】
美玉に対して完全に悪意を持っている。
これからの後宮での生活が不安だが、義姉妹という立場上、関わらなければいけない場面が多いだろう。
ため息をつきたくなるが、今の状況じゃ絶対に駄目だ。
二人の周りにはたくさんの侍女や宦官たちがいる。初っ端から威厳を損ねるわけにはいかない。
ちなみに、宦官とは男性の大切なものを失い、後宮の安寧に身を捧げた者たちだ。だからといって女性になるわけではないのだが。
話は戻るが、現在後宮で生活をするうえでの注意点を応接間で聞いている。
美玉はよく聞いているが、夏雲はあまり聞いていないようだ。部屋の内装を観察している。
(話をちゃんと聞かないと、困るのでは?)
疑問に思うが、彼女の専属である侍女にあとから聞くなりするだろう。心配することはない。
「最後に皇帝陛下からお二人に言伝を預かっております。『何か不安なことがあればすぐに伝えよ』とのことです」
その言葉を最後に長く続いた話がやっと終わり、これから自分の宮に行くという。
「それでは美玉様、夏雲様。ご案内申し上げます」
いつの間にか用意されていた輿に乗り込む。
垂れ絹で隙間を閉じようとしたその時、夏雲が美玉にしか聞こえないような小さい声でこう言ってきた。
「お前如きが調子乗るんじゃないわよ。才俊様の寵愛は私のものよ」
まだ言いたいことがあるのか、彼女の周りには真っ黒でどろどろした書体の文字があり、顔に覆いかぶさっているほどにはある。
たった二日間で完全に美玉のことを敵としてみなしたのだろう。
彼女の気に障るようなことをすれば何をされるかわからない。
それでも他の人に相談することは絶対に駄目だ。
(他人を信じてはいけないわ。何をされるかわからないから。どんなに親切にされたとしても、必ず)
このことを心に刻みながら、夏雲の機嫌を損ねないように怯えながら生活をすることになるだろう。
◇◇
面白い娘が来たと聞いた。
そう言ってきた奴は俺の一番信用できる臣下であり、幼馴染であり、近衛騎士だ。
名を『全静』という。
こいつは黒髪の冷静沈着なやつで、俺の本来の姿を晒しても落ち着いて対応できる貴重な人材だ。
静は普段女には興味ないやつなのだが、珍しく新たに来た妃に関心を寄せているようだ。
「新しい妃って、第三位と第五位だよな?確か義姉妹なんだって?」
「はい。その中の、義妹君の方でございます」
「どこに興味を引いた?」
「瞳です。左右非対称でありながら、美しいそうです。左は青玉、右は翡翠のような色と輝きを持っているようで」
楊国は様々な国の血が入っている人間が多いため色とりどりなのだが、左右で瞳の色が違うというのは初耳だ。
それは気になるだろうな。
美しいと思う一方、それ故に恐ろしさも感じる。
神から愛された故なのか、反対に神から罰を与えられた故なのか。
どちらにせよ、俺の大事な妃になったのだ。
気に入れば寵愛を与えてもいいだろう。
「会うのが楽しみだな」
俺の名は『莫才俊』。
楊国の皇帝だ。
◇◇
ようやく揺れが収まり、やっと恋しかった地面に触れることが出来た。
(ふぅ。少し輿が小さかったから腰が痛い・・・・・・)
移動しているときも夏雲が言ってきた言葉と、黒い悪意に塗りつぶされた顔を思い出し震えてしまった。
今まで様々な悪意にさらされてきたが、あそこまでの負の感情を見たのは初めてだ。
彼女はなぜ美玉のことを気に入らないのだろうか。自分が考えた理由だけではないのだろうか。
「でも今は考える必要はないもの・・・・・・。とりあえず、宮に入ってもよろしいですか?」
そう傍に控えていた宦官に伝え、目的の場所に向かって行った。
行く途中では宮の名前を象徴する月季が咲き誇っていた。
美玉がこれから過ごすこととなる宮は月季宮だ。
後苑を過ぎ、入り口からそこへ入ると、扉のそばで数人の侍女が控えており、美玉に向かって頭を下げていた。
「美玉様、本日よりお側で仕えさせていただきます。侍女頭の『胡萌萌』でございます」
「えっ。あのっ、頭を上げてください」
今までは美玉が頭を下げる立場だったので、下げられる方は初めての経験だ。
少し驚いてしまい、思い描いていた落ち着いた第一印象は与えられなかったかもしれない。
相手も驚いた様子で顔を上げると、すぐに皆の顔が明るく興奮した表情になり、上の方が寒色だった文字の塊たちが、一気に暖色に変わった。
「えっ!?美玉様は綺麗な瞳をお持ちなのですね」
「お顔も整っていらっしゃいますね。お化粧には自信がありますので、ぜひ私におまかせを!」
「よかったぁ。お優しそうなお方ですし、何より美しく可愛らしい!」
堅苦しい雰囲気だったが、急に暖かい空気に変わった。
夏雲があんなふうに言ってきたものだから、てっきり侍女たちも今までと同じようなことを言われ、思われると考えていた。
だが、実際は全く違ったようだ。
それぞれに浮かぶ文字は日だまりのような黄色や柔らかな桃色で、言葉も美玉に対して好意的に思っているものばかりだ。
【なんて儚げなお方なのでしょう!私が守って差し上げねば】
【今まで生きてきた中で最も綺麗な瞳ね。一目惚れしちゃった】
【後宮では私たちしか味方がいないのだから。更に精進していかなきゃ】
皆がこんな風に思ってくれているのが嬉しい。
でも、美玉にはそんなことを言われる筋合いはない。
(私はもう他人を信じないって決めてるもの・・・・・・。心に誓ったのに。いつかは絶対に裏切られるって知ってるもの・・・・・・)
決めてるはずなのに、侍女たちに絆されてしまいそうで怖い。
彼女らも本心で思っていると分かっているのだが、それでもいつか変わってしまうだろう。
人の本音ほど、美玉にとって怖いものはない。
人は信用してはいけない生き物だと、この十七年間で学んだだろうに。
────一番知っているのは美玉自身なのに。
「美玉様。道中大変でいらしたでしょう?少し簡素な服にお着替えなさってお休みください。私たちがずっとお側に付き添っておりますから」
「っ・・・・・・」
なんで、優しくしてくるのだろう。
こんな人間放っておけばいいのに。仕事だから、仕方なくやっているのだろう。
受け入れたいのに、美玉の決意が邪魔をする。
そんな様子を察したのか、萌萌が話しかける。
「後宮は女たちの闇が全てさらけ出されたところですからね。侍女だとしても信じられないのはよく理解できます。ですが、ほんの少しでもよろしいのです。私たちを、受け入れてはくれませんか?」
「・・・・・・でも。人は裏切るでしょう?私をのけ者にする。あなたたちも、仕事だから寄り添っているだけなのでしょう?」
こんなに優しく話しかけてくれる萌萌にすら突き放してしまう。
(あぁ。醜い自分が嫌になる。・・・・・・本当は、信じてみたい。彼女たちを、信用したい)
自分の本心に気づいてしまったが最後。
目からどんどん水が溢れ出てくる。止めようとしても止まらない。
「うっ。ふぐぅっ・・・・・・」
「美玉様。今日までお一人でどれほどその苦しみに耐えてきたのでしょう。よく頑張られましたね。これからは、私共が命に代えても貴方様をお守りいたしますから」
萌萌がその温かな体で美玉の小さな背中を抱きしめた。
初めて自分の想いに気づいた。
それは、美玉を受け入れてくれた彼女たちのおかげだ。
感謝してもしきれない。
ならば、どうやって返していこうか。
その答えは、もう決まっている。
「萌萌。私はあなたたちを信じても良いのですか?」
周りにいた侍女は驚き、顔を合わせる。
だがすぐに返事は返ってくることとなる。
それは、彼女らの上に浮かぶ優しい色で答えは出ているようなものだろう。
◇◇
その後簪を外したり、服を着替えたりした。
簡素なものとはいえ、後宮の中では上位の位を持つ美玉だ。それなりに豪華である。
今まで布とも言えないような軽い麻の服を着ていた彼女にとっては重く、動きづらい。
だが、これからはずっとこのようなものを着ていかなければならないので、慣れていかなければならない。
ひと段落つき、広間で間食を出してもらう。
広間の中も妃になったのだと実感せざるを得ないようなものだ。
見事な彫刻が施された円卓が置かれていた。侍女の一人が手際よく香炉に火を灯すと、上品な沈香の香りが部屋の中に広がる。
長椅子に座っていると、円卓の上にはいつの間にか胡麻団子が置いてあった。
「美味しそう・・・・・・」
「そうでしょう。ですが、毒見が終わるまで少々お待ちくださいね」
「毒見?」
後宮は妃たちの蹴落とし合いだ。時には食事の中に毒が入ってることがあるという。
そのために侍女の一人が妃が手を付ける前に食べ、それを体を張って確かめるという。
(毒が入っているとか、信じられないわ)
絶対に入ってないように、と手を合わせ願う。まぁ、そんなことをしても意味はないのだが。
そうすると、いつの間にか部屋の中が主張が強めな桃色で埋め尽くされる。
よく文字を見てみると、皆が美玉を褒めるような言葉を連ねている。
【何あの動作!?ものすごく愛らしい!】
【美玉様の行動一つ一つに目が離せませんね】
なぜそう思っているのかはわからないが、楽しそうなら何よりだ。
そう考えていると、目の前に胡麻団子が置かれ、それと同時に一列に侍女や宦官たちが並ぶ。
何事だろうと思っていると、萌萌が口を開いた。
「美玉様。お差し支えがなければ、我々の名前を覚えていただけませんか?」
「も、もちろんです。むしろ、よろしくお願いします」
そう言うと皆の顔は安心したように、笑顔になった。
覚えると言ってもたった七人だ。すぐに覚えられるだろう。
一人ずつ名前を教えてくれたが、特に印象に残っているのは三人だ。
「侍女頭の胡萌萌です。何かあれば私にご相談ください」
最初から美玉に寄り添ってくれ、まるで母のような安心感があった。一番信頼できそうだ。
「『屈陽紗』です!美玉様とお話するのが楽しみです!」
一番元気で最年少の陽紗は美玉と同い年で、友達のような親近感が湧いた。頭に浮かぶ文字も一番光っており、興奮した様子だった。
「『黃智愛』です。毒見係でもありますね。美玉様をお支え出来るよう精進してまいります」
侍女たちの中で一番落ち着いており、大人らしい彼女は美玉も気分が落ち着くような雰囲気の持ち主だ。
頭の上を見なければ、の話だが。
【どうか私の名前を呼んでいただけますように!全力で幸せにしますから!】
【こんなに小さなお手でずっと独りで戦ってきたのでしょう。今度が私が守ります!】
一番落ち着いていて、一番騒がしい人だ。
そんなこんなで侍女たちのことを知った美玉だったが、やっぱり彼女らは自分の味方だと信じて良いのだと再認識させられる。
(一回も暗い色になっていないし、悪く思っているような感じもしない。基本皆顔に出ているし。大丈夫かな)
心の底から、とはそう簡単にいかないが、いつかは彼女たちを信じられるようになりたいと願った。
◇◇
「美玉様!今夜は皇帝陛下がこの月季宮にお越しになりますよ!」
「・・・・・・え?」
いつも通り興奮した様子で陽紗がこちらに走ってきて、大事件が起きたとでも言いたげな様子で言ってきたのだから、思わず美玉は首を傾げてしまった。
でも周りの侍女たちは騒いでいる。
なぜだ、と疑問に思い、近くにいた智愛に聞いてみる。
「皇帝陛下が宮にお越しになるくらいで、なぜそんなに皆騒ぐのですか?」
「美玉様はこの意味をお知りではないのですか?」
「確か、お渡りとか夜伽とか、そんな意味だったはずです」
そう。宇翔の屋敷で後宮で過ごすうえで大切な言葉などはもう学んである。
意味は知っているのだが、そこまで大事にする必要はあるのか、と不思議に思ったのだ。
「美玉様。お渡りの回数は、妃の寵愛を争う大事なことなのです。後宮入りしたからと言って必ずお越しになられるとは限らないのですよ」
「・・・・・・つまり、私の宮へお越しになるのはすごいことということですか?」
「そういうことでございます」
なるほど、と納得した。
美玉にとって寵妃になることは、正直に言うとどうでもいい。
なんなら、夏雲に苛められる可能性があるため、避けたいことだ。
だが、やるしかないだろう。寵妃になることが、美玉の恩返しなのだ。
(今夜皇帝陛下が、莫才俊様が私のもとに訪れられるのだ。折角の機会だけれど、やっぱり私の瞳のことが心配ね・・・・・・)
侍女たちは受け入れてくれたが、夏雲のように快く思わないものもいるだろう。というか、それが普通なのだが。
皇帝までもがそうだとしたら、美玉の居場所は後宮になくなる。
「美玉様。ご心配なさらずとも、私共が美玉様のことを美しく磨き上げます故。ご安心くださいませ」
「そうですよ、美玉様。最高級の美しい寝間着、化粧品を用意しております。それを身に着けられれば、きっと皇帝陛下もあっと驚くほど、見惚れますよ!」
「陽紗の言う通りです。私の化粧の技術は皇太后様も認められたほどなのですよ。私にお任せください」
美玉の不安げな様子に、侍女たちが励ますように話しかけてくれる。
皆自信満々な顔で、文字も元気な、しかし落ち着くような不思議な形をしている。色もいつもより大人しい感じの色だ。一人を除いて。
(皆、私を心配してくれているんだ。・・・・・・私も、期待を裏切らないようにしなきゃ)
黙ってしまったものの、優しい顔でずっと待っててくれている。
そんな萌萌たちをがっかりさせたくない。
「皆ありがとう。頑張ってみるから、手を貸してくれるかしら?」
「美玉様・・・・・・!」
うっかり馴れ馴れしい口調で話してしまったが、逆に彼女たちは嬉しそうにしている。
【美玉様が敬語ではない口調でお話なさった!嬉しすぎる!】
【我が一生に悔いなし・・・・・・】
なんだかいつもよりも明度の高い色が頭上に浮かんでいる。
喜ばしいことなので、これからはなるべくこの口調で話すようにしようと美玉は心に決めた。
「さぁ美玉様。全身の隅々まで磨き上げますよ」
目を輝かせた萌萌たちに圧倒され、今日はもう何も出来ないなと悟った。
◇◇
つむじから足の先まで見事に磨きかけられた美玉は、こころなしか周りが輝いているように見えた。
深緑の長い髪は椿の髪油を使って丁寧に撫でられ、全身は保湿効果のある石鹸の良い香りのする香油を塗られた。
いつもより前髪が横に分けられているので、瞳が一層引き立てられている。
(なんだか慣れないからかしら。そわそわして落ち着かない)
寝台の上に座って皇帝を待つが、なかなか来ない。
もしかしたら、今日は来ないのかもしれない。
そう考えていると、機を同じくして扉が開いた。
そこには深紅の髪を頭上に束ね、それとは対称的な黒曜石のような漆黒の瞳を持った貴人が立っていた。
おそらく、彼が皇帝である才俊なのだろう。
立ち上がり、いつしか宇翔にした敬礼よりももっと位の高い挨拶をする。
「第五位の妃である葉美玉にございます。・・・・・・早々無礼かと存じますが、私の瞳をご覧にならないようにしてくださいませ。陛下のその綺麗な瞳が汚れてしまいます故」
本当はこんな事を言うつもりではなかったが、才俊の自分とは違う美しい瞳を見ると、そんなふうに言ってしまいたくなった。
自信を持っていいと、侍女の皆は言っていたが、やっぱり心の底では信じられていないのだ。
自分自身が嫌っているから、信じられないのだ。
最初から失礼なことを言ってしまったと、自分の失態に気づく頃には、部屋の温度が下がっていた。
「あ・・・・・・」
才俊の頭上に浮かぶ文字は、灼熱の赤を纏っていた。
(どうしよう。怒らせてしまった。こんなに深い赤を見たことはないわ)
内容を見るのが怖くて俯き、才俊の豪華な刺繍が施された靴を見る。
恐怖に体を震わせていると、上の方から声が降ってきた。
「美玉・・・・・・と言っていたな。私は怒ってなどいないから、顔を上げなさい」
「承知いたしました・・・・・・」
皇帝が言うのならば、従わなければならない。
恐る恐る目線を上げていくと、そこには慈愛に満ちた美しい顔があった。
「怖がらせてしまい申し訳なかった。私は皇帝である莫才俊だ。今夜はよろしく頼む」
「はい。今夜は我が月季宮にお越し下さり──」
「堅苦しい事は言わなくて良い。私は君のことが知りたい。そういうことはしないから、安心してくれ」
自分が思っていたよりも優しい事を言ってくれているので、さっきの頭上に浮かんでいた文字は見間違えだと思い、もう一度見てみるが、やはり見間違えではなかった。
だが、内容は思っていたものとは違った。
【あぁ。なんて美しい娘なのだ。ここだけ暖かく感じるのは気のせいか?】
【見るなと言われてしまったが、なぜだろう?あんなにも素晴らしい宝石のような瞳だというのに】
【可愛らしいな。食べてしまいたい】
【俺だけの、美玉にしたい。甘いその顔も、崩してみるのは楽しそうだな】
やっぱり見間違えではないか?と読み終わった時、美玉は思ってしまった。
なぜなら、そんな事を考えている顔に見えないし、ずっと表情は動いていないからだ。
多少なりとも変化があるはずなのに、まったくない。
(ていうか、部屋の温度は低い方だと思うけれど、なぜ暖かいと思っているのかな?)
疑問に思うことが多すぎて、うっかり才俊の顔をずっと見つめてしまっていた。
すると、急に口角を上げて、少し苦しい顔が柔らかくなった。
字体も少し崩れたものに変わり、灼熱の赤は髪の色よりも深い深紅に変わった。
【美しい瞳も、俺の理性を壊す材料の一つになってしまうとは】
【そんなうっとりとした表情で見ないでくれ。壊してしまいたくなる】
さっきよりも更に加虐的な内容になってしまい、美玉は怯えてしまう。
「ひゃっ!」
体が無意識に震えてしまうが、目線だけは才俊から何故か離せない。
そうしていると、彼の顔が美玉の耳元に近づき、甘い声で囁いた。
「小動物のようで、愛らしい。・・・・・・そんなに見つめられては、余計に慈しみ、追い詰めたくなるではないか」
そう言って彼は舌舐めずりをした。
最初に見た慈悲に満ち溢れた顔とは打って変わって、色気に溢れた男の顔をしていた。
きっと、本当の顔は後者の方なのだろう。
もしこの顔を美玉一人しか見ていないとしたら?
(それは、嬉しい)
考えると胸がときめいてしまう。
ただ優しいだけではなく、少し加虐的なところがある人を美玉はかっこいいと思う。
二面性のある人物は面白く、魅了される。
「出会ったばかりなのに、もう好きになってしまいました」
「・・・・・・!」
思わず口に出してしまったが、才俊は顔を赤くし、こちらにもっと近寄ってきた。
お互いの息が感じられるほど、至近距離にいる。
「今夜は初めてだから、やめようかと思っていたのだが。やはり、美玉の顔を見ると抑えられなくなってきたな。どうしようか」
今日は夜伽を免除されたことに安心したのも束の間。
正直今夜はもう眠いため、遠回しにやりたくないと言ってみる。
「そ、それは困ります!務めだと分かってはおりますが、まだよろしいのではないでしょうか?ほら、皇帝陛下も明日は御公務がありますでしょうし──」
「皇帝陛下、と呼ぶな。才俊と呼べ」
話が逸らされてしまったが、今夜はやめるという意味なのだろう。
頭上に浮かぶ文字も、なんとなく残念がっているように見える。
「・・・・・・それでは、才俊様と」
「よろしい。さぁ、もう遅い。早く寝台に入ろうか」
そう言って美玉を持ち上げ、優しくそこに降ろした。
先程の表情ではなくなっており、少しばかり悲しくなってしまったが、首を振って否定する。
(我儘になってはいけないわ。才俊様にご迷惑をおかけするわけにはいかないもの)
いつの間にか眉間に皺を寄せてしまっていたのか、才俊がそれをほぐすように手で揉む。
「そんな顔をするな。私がいる。何も悩むことはない」
「承知致しました。それでは、おやすみなさいませ」
「・・・・・・あぁ。おやすみ、美玉」
二人で身を寄せ合い、その夜は眠った。
外で輝く月の周りには怪しげな雲が浮かんでいた。
◇◇
今夜は才俊が来ていない。
少し寂しいと思うが、彼は皇帝なので忙しいのは当たり前だ。
(もうこんな時間!?萌萌を呼ばなきゃ)
後宮入りしてからいつの間にか一週間経っていた。
村で過ごしていたときはやることもないし、頻繁に来る村人からの罵倒が毎日の予定のようなものだった。
それに比べて、今の生活はとても充実したものだ。
朝起きたら豪華な朝餉を用意してくれ、毎日綺麗な服に袖を通せるし、教本や書庫にある本は読み放題。気晴らしに外に出ることもできる。
夜は二日に一回才俊が訪れて、二人で雑談をしている。その時間だけは、夏雲のあのおぞましさを忘れることができる。
だが最近は会えていない。少し寂しいが、彼は多忙なのだ。仕方ないだろう。
「はぁ・・・・・・」
もちろんこの生活に罪悪感はあるし、未だに自分のような人間がこのような生活をして良いのかと思う。
もしこの様子があの血縁者二人に知られたのなら、どんなことを言われてしまうのだろうか。
ずっと忘れることはないだろうが、侍女の皆のおかげでそれが薄れることはある。
自分から意見を言うことにまだ慣れず、戸惑ってしまう美玉を優しい顔で待ってくれるため、落ち着いて言うことができる。
隣にいるだけで安心感があるのだ。
(やっぱり信用しても良いのかな?でも、全部を任せることは出来ないし・・・・・・)
今の状態が、彼女たちの望む『受け入れること』なのか。
それはやっぱり気になる。
くよくよしても仕方がない。前に進むことがいちばん大切なのだ。
「美玉様。明日のご予定を申してもよろしいでしょうか?・・・・・・美玉様?」
「あ。ごめんなさい。聞いてもいいかな?」
「はい。もちろんでございます」
外の様子を眺めていたが、萌萌が話しかけてくれたおかげで視線を戻すことが出来た。
「ご予定は特にないのですが、夏雲第三妃様が親睦を深めるためにお茶会を望んでおります。どうなさいますか?」
「夏雲義姉様が?」
あの日以来ずっと接触をしてこなかったため、何の意図があるのかわからない。
でも、あの悪意の量からして何かしら美玉に手を出してくるだろう。
本当は会いたくないし、見たくもないのだが呼び出しに応じなければならないだろう。
「分かりました。伺うと言伝をお願いできる?」
「承知致しました」
そう言い残して、萌萌は近くにいた宦官に言伝をした。
彼の名前は『原龍城』。寡黙な彼だが、美玉は考えていることがわかるので、意外と相性がいい。
(それに、雰囲気が静かだから近くにいると落ち着くのよね)
彼が部屋から出ていくのを見届けてから、萌萌に話しかける。
「萌萌。茶会はいつからなの?」
「太陽が真上に届いたときに開始するとのことです」
「分かりました。それまでは勉強をしてもいいかな?」
「もちろんでございます。私はお側に控えておりますので、何かございましたら遠慮なく申し上げてくださいませ」
そう言って萌萌は宮の書庫へ案内してくれる。
まだ宮の部屋の位置を覚えていない美玉は毎回教えてもらったり、案内してもらっている。
少し申し訳ないと思う一方で、いつも浮かんでいる橙色や黄色の文字を見るたびに別にいいかと思ってしまう。
(甘えてはだめ。しっかりしなければ、この宮をまとめている妃として面目が立たない。私はこれでも第五位の妃なのだから)
足音を背景音楽にしながら、萌萌は前を向いたまま美玉に話しかける。
「・・・・・・私の本心を申しますと、嫌な予感がいたしますね。夏雲様は何か企んでいられるかと」
萌萌の文字は、今まで見たことがないほど不安そうな灰色だ。
今まで彼女には不安を取り除いてもらったのだ。その分これから少しずつ返していかなければいけない。
「分かってるわ。でもこれは試練なの。乗り越えなければ、きっと私は本当の意味で才俊様の妃となれないわ」
自信を持って才俊の隣に立てる女になりたい。
そのためには強くならなければならない。
服の袖を強く握りしめながら、太陽の光が差す長廊を少しずつ歩き出した。



