校舎の外階段でギターを鳴らそうとしたときだ。授業をサボるとっておきの場所に、人がふらりと入り込む。一躍、時の人となっている横顔だ。踊り場の手すりを登ろうとしたであろう背中に、なにしてんのって思わず声をかけた。
蓮見傑の母親が若くして亡くなった、といった田舎の噂は本当のようで、彼の制服に染みついた線香の匂いが漂ってくる。
高校二年の残暑が続く秋、十七歳の始め。俺が蓮見より先輩だからじゃない。傲慢という言葉さえ知らなかったから言えたんだ。
――飛び降りて死ぬぐらいなら、俺を推すために生きるのはどう? バンドで有名になる予定だし。
蓮見は微動だにしない。俺の衝動的な威勢はすぐにしぼみ、世迷言の他でもないと下唇を噛む。立ち上がるときにギターのネックが手すりに当たって嫌な音を立てた。ひや汗で張り付いたシャツの不快さが増していく。
蓮見に飛びかかろうと、階段を降りようとしたときだ。
振り返る蓮見の視線を浴びる。俺を見上げるあいつは異常だった。
正に、崇拝。
世界で俺だけを見る人がいる。体がしびれ、どぼんと何かに落ちていったのは俺の方だった。蓮見を中心にぱっと視界が開け、万雷の拍手が降るステージを見た。命を揺さぶる福音を聞いた。人生が始まるとき――導く音が聞こえるとはこれのことか。
常軌を逸した者が二人。蓮見は俺から目を逸らさない。俺は込み上げる涙を必死にこらえた。
――こんなふうに見られたい。
音楽を真剣に考え始めるきっかけには、十分すぎる激情。初めて生を実感した。
だから、何度も夢に見るのだろうか。
あの頃とは違い、俺は夢を諦め、音楽を辞めてしまったというのに。曲が書けないなんて、ステージを降りるなんて、想像すらしていなかった。俺は、なんのために生きているのか。
ぼんやりと秋の夜空を見上げていた。天を飾る微かな一等星よりも、東京タワーの赤が暗闇に映える。突然、俺の視界を遮るようにして現れた、五年前と同じ顔、白シャツにスラックス。ほんのりと、線香の香り――。
秋だからだろう、鮮明な夢だ。あの頃には戻れないのに、曲が書けなくなったこの一年は特に、あの日の蓮見を夢に見る。ストレスで乾いた咳が出た。最近は酒がないと眠れない。
深酔いの中ふわふわと、俺を覗き込む蓮見を見上げる。
「今日は懐かしい匂いがする」
「なにしてんですか」
幻聴だろうか。これが最後となけなしの貯金で良い酒をとことん飲んだ。今は地面のひんやりさが心地良い。
「俺は死んだの?」
「生きてますよ。バイト先が葬儀社なんで線香の匂いが俺からするだけです」
蓮見がしゃがみこんで、俺に肩を回す。ほぼ背負われるような状態で立ち上がった。
「なんでまた、難しそうな葬儀社を……」
「社会勉強にベストだったんで」
「あれ? いつもの制服じゃないな」
ぐわんぐわんと世界が回って少し可笑しい。あいつからいつも、線香の匂いがしていた。忘れては思い出す、蓮見は俺にとってそんな人間なのだろう。
「いつの話をしてるんですか。制服って……」
酒を飲みすぎた。喪服か、と声に出ていたかも怪しい。ふらふらと促されるまま一歩を踏み出し、それを繰り返す。
校則や未成年と守られていた不自由の方が、自由に泳げていたあの頃。俺たちは学校の非常階段で話してから、それなりに仲良くしていたと思う。季節が一周して、秋の文化祭が終わった翌日、蓮見は消えるように転校した。たった一年の月日だった。
秋は苦手だ。木枯らしみたいな奴だった。でも、こうして夢に出ては、俺の始まりを思い出させる。音楽を辞めた自分にはもう、必要もないのだが。
諦めた。張りぼてのライブをこなし、納得いかない曲を作り続けること。苦しくて耐えられなくて、全てが狂って音楽から逃げた。夢を、人生を諦めた。
逃げたくせに、一月前、最後のライブを終えたとき、ここで死にたいと思った。
これからどうやって、生きていけばいい。体が震え手足の感覚が遠くなっていく。視界が滲んで、前が見えない。瞬きをするたび、熱いものがこぼれた。
「ふいいー」
「独特な泣き方ですね」
なんだか記憶よりでかい蓮見を、うるせえ、と言って蹴った。その反動でよろめき、蓮見に支えられる。頬を伝う涙がやけに温かく、情けなくなった。
涙を流す悔しさが、矜持が、どんなに自分を押しつぶしても腹は減るし、生きようとする自分がひどく卑しかった。
「夢であってくれよ……」
酒を浴びるように飲んだはずなのに、記憶が飛んでいない。二日酔いで痛む頭に手を当て、蓮見のベッドで目を覚ました事実を理解する。『恥』の一文字が浮かび思考が停止した。今年の漢字が滑り込みでごぼう抜きだ。
躊躇いがちに部屋の方へ顔を向けると、ベッドの傍に座卓が置かれ、その上に品々が几帳面に並べられている。即席の味噌汁、ペットボトルの水、着替え。添えられていたメモにだけ手を伸ばし、寝転んだ態勢のまま読む。記憶にある蓮見の淡々とした筆跡だ。クローゼット以外は開けていい、食べるなり、寝るなり、風呂なり部屋で好きに休んでくれとのこと。
スペアキーまで置いてあった。情けないことに、ここから逃げる選択肢まで用意されている始末だ。この際、昨夜の醜態は覚えていないで突き通そう。それに最後の砦として、全てが俺の夢という場合もある。むしろ夢である方が信じられる気がした。
ゆっくりと体を起こし、軽く部屋を見渡す。十畳ほどのワンルームだ。薄いカーテンの隙間から、西日が差し込んでいた。壁際にあるキャビネットの上に、数字だけが浮かぶデジタル時計が光っていて十七時を指す。今日から十一月のようで、カレンダーが律儀にめくられている部屋に、どろどろの俺だけが浮いていた。
清潔な寝具の上が忍びなくなって衝動的に降りると、ポケットからスマホと財布が落ちて音を立てる。床で体を小さく丸めた。カーペットが優しく頬に触れる。コホンと繰り返し出る自分の咳以外、世界の音が遠い。
風呂で身を清めるべきか、味噌汁で二日酔いを治めるべきか、このまま出て行くべきか。止まらない咳が鬱陶しい。ゆっくりと息を整え、五年前と昨夜と今をすり合わせる。
ふと、変に笑いが漏れた。こんなことってあるんだ。我ながら情緒が安定しない面倒な野郎だと思う。ピザでも頼んでおこうか。不思議と食欲はある。いつ帰ってくるんだろう。蓮見の連絡先も分からない。鍵は置いてあるのに、メモに連絡先は書いてない。
本当に今、蓮見の家に居るんだ。部屋の隅に移動して、小さくなったまま部屋を見渡す。
蓮見は葬儀社でバイトをしていて、几帳面な部屋に住んでいて――視界に入る観葉植物、小説、絵、写真。知らない蓮見の中身を覗き見するようで、ぐっと力を入れて目を閉じると、盛大に腹が鳴った。
「坂下先輩」
蓮見の声がしたかと思うと、次いでピザの香りが漂う。ああ、また寝ていたのかと目を開けると、明かりの点けられた部屋が眩しく、蓮見の顔が霞んだ。
「よかった。水飲めますか?」
「ありがとう……」
蓋の開いたペットボトルを受け取る。蓮見は、ほっとしたような顔で立ち上がり、部屋のカーテンを閉めた。もうすっかり日も落ちている。
「温かいうちに、食べましょう」
座卓に大きなピザが置かれているのを見て、気管に水が入り咳き込んだ。ゴホンと繰り返しながら、慌てる蓮見を左手で制する。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫。いやその、俺も、ピザ頼もうかと、思ってた」
「二日酔いには、この店のピザが効くってゼミで有名なんです」
「そんなことある? 大学の?」
息を深く吐いて、ゆっくりと話す。
「はい。だまされたと思って食べてみてください」
蓮見はピザの他にもポテトやジュースも注文していて、淡々と取り出し蓋を開けていく。床で寝落ちたせいで固まった体を手持ち無沙汰に伸ばし、促されるまま座卓を囲んだ。
いただきます、と言い合って、ピザを一切れ口に運ぶ。
確かに美味しい。おしゃれな店名が書かれたステッカーが箱に貼ってあったので、個人店なのだろうか。食べることは生きることなのだと、改めて思うほどに味がした。
「照り焼き味おすすめです。取れますか?」
「ありがとう」
俺が取りやすいように、蓮見は箱をくるりと回してくれる。ピザの味が四種類で、ポテトも二種類ある。お互いに、つい最近までも会っていたような調子で味の感想を述べ合うが、事実五年ぶりの再会だ。再会までの長い時間と、会話の距離が噛み合っておらず、そこに少し照れが滲む。
「本当に二日酔いに効くっぽいな。すごくすっきり」
「俺も最初は疑いましたよ」
蓮見も少し笑う。ぱちん、ぱちんと、ピースがはまる様に談笑は続き、ピザは残り二切れになっていた。
「実は、和泉に家を追い出されまして……あ、和泉紗夏って覚えてる?」
腹も満たされてくると、話題も変わるということで、ふいに自分の口をついて出たのは自虐だった。続けて、実は俺、音楽辞めちゃったんだよね、と乾いた笑いをするつもりだったのに、この期に及んで言い淀んでしまう。
音楽を辞めたことを蓮見に隠しているようで、後ろめたかったのだ。話題を変えようとしたが、なにを話していいかも分からず、迷うように唇だけが動く。
「先輩の彼女ですよね。軽音部のマネージャーだった」
「元彼女が正解です……。今はただの同居人」
そして、高校を卒業してからは、サカシタキョウのマネージャー。いや、元マネージャーが正しい。
「喧嘩でもしたんですか?」
「結構大きめなのを……」
昨夜、事務所からサカシタキョウの音楽活動終了のお知らせがあったはずだ。デビューからわずか三年。音楽を辞めたいと考え出した今年の夏ごろから、和泉とは冷戦状態だったが、昨日は等々荒れに荒れた喧嘩をした。きっかけは、俺が楽器や機材をすべて捨てたから。もっと遠くのゴミ捨て場に持って行くべきだった。
「それで、別れて同居人に?」
「いや、もう別れて四年経ってる」
「……想像できない」
「まあ、昨日の朝まで一緒に居たけどな」
和泉とは特に理由もなく自然と別れていたが、同居を解消する理由がなかった。今思えば、彼氏彼女らしいことなんてほとんどなく、男女の壁を越えた和泉の献身的なサポートを、あの頃は恋愛としてか解釈できなかったのかもしれない。
和泉は大学には進学せず俺と一緒に上京した。ライブハウスや音楽事務所のバイトを始め、俺より精力的に音楽を愛しているのを、そのときになって初めて知った。
今年の春に、和泉は大手の音楽事務所に就職したが、俺を含めインディーズバンドのマネジメントも別で続けている。本当に出来た人間だと思う。根っからの音楽バカとも言えるが。
一方で、俺は軽音サークルが強いW大に進学したが、単位が足りず、半年遅れでこの九月に卒業したばかりだ。約四年半の学生生活で学んだことは、これといって何もない。
和泉のように広すぎる社会の自由に、丸腰で飛び込む勇気が無かったのだ。危惧したように俺は音楽に挫折し、無職になって二か月が経つ。
「和泉さんには、連絡しました?」
「まだです……」
「追い出したとはいえ、心配してると思いますよ」
「うむ」
なんとなく姿勢を正しながら、前髪を触る。手がべたついて、風呂に入っていない身なりであることに気づいた。ますます居たたまれず、下唇を噛んで天を仰ぐ。蓮見の親切に甘えすぎて、口を滑らせてしまったのが恥ずかしい。久しぶりに蓮見に会えて、浮かれすぎてもいたのだ。
「連絡するなら、好きなだけ居てくれていいですよ」
「いやでも!」
「ほかに当てがありますか?」
「その、ええっと……」
確かに行く当てはない。和泉以外の相手に、迷惑の一線を越えるような関係を築いてこなかったのを痛感する。売り言葉に買い言葉で、家を飛び出して来たのだ。
深く息を吸って、蓮見に向き直る。
高校生のときは、身長こそ変わらなかったが、蓮見はもっとあどけなく、頼りなく、少年のようなか細さがあった。今、ピザを食べながら見返してくる蓮見は、成人男性の筋肉があり、落ち着きがあり、そこはかとなく明るくなった気がする。
「五年で育ったな」
「そうですか?」
「これは夢なのかな」
「いいえ」
「ですよね」
「夢なわけがありますか?」
「すみません……」
情けない俺に、蓮見は柔らかい声で続ける。
「まあ、明日のことは明日考えましょう。風呂を入れるので先にどうぞ。俺は布団を買ってきます」
「甘えます……。蓮見のほしいものも買っておいで……」
床を見渡し、落ちたままだった自分の財布を拾って差し出す。蓮見はこんな俺さえも立ててくれるらしく、素直に感謝を述べて受け取ってくれた。ドアまで見送り鍵が閉まると、風呂に湯が溜まる音だけがワンルームに響く。蓮見が言うように、俺は判断を先送りにした。
二十二時を過ぎても、問題なく布団を買えるのが東京だ。風呂から上がってすぐに、ドアが開く音がした。
蓮見が足でドアを支えるのを見て、俺も慌てて駆け寄りドアを押さえる。雨が降り始めていたらしく、冷たい夜風が入り込んだ。
「戻りました」
「うわあ、ありがとな。お帰り」
蓮見は片手に布団、片手に食材が覗く買い物袋を下げており、少し雨で濡れていた。
「料理すんの? その前に早く風呂入りな。風呂お先でした」
「はい。明日、オフなんで何か作ります」
荷物を受けとりながら、その言い方、かっこいいから真似するわ、と軽口を叩く。蓮見は俺を軽くあしらって、そのまま脱衣所に入った。
想像より大きい、と目を留めながら布団を広げると、箱にダブルと書いてある。嬉しいやら、申し訳ないやら考えつつ、蓮見のベッド横付近をほとんど占領することになった。我慢できずに布団へ潜り込む。暖房の効いた部屋では、ひんやりとしていて気持ちが良い。
「うああ!」
唐突に、思わず声を上げて飛び起きる。急いで蓮見から返された財布の中を確認した。思った通りだ。昨晩、現金はすべて使っていて、クレジットカードしか入ってない。蓮見がパスワードを知っている訳がなかった。
「どうしました?」
「ごめん。請求してくれ」
「なんだ、そんなことか……」
蓮見はバスタオルを巻いただけの格好で脱衣所から飛び出して来ており、床にぽたぽたと水滴が落ちる。
「そんなことお?」
「下唇を噛む癖、治ってないじゃないですか」
「うるせえ、記憶力が良すぎるだろ」
凄んで中指を立てると、蓮見はからっと笑って脱衣所に戻って行った。
俺は立ち上がってキャビネットの上にあるティッシュを数枚取り、床を拭く。何が蓮見のほしいものも買っておいで、だ。顔から火が出そうなのを誤魔化したくて、甲斐甲斐しく働く。
「全裸で出てくるとか中坊かよ」
つい笑ってしまい、ひとりごちる。
「聞こえてますよ」
「早くね?」
「どっちか飲みます?」
冷蔵庫を開けて、ジュースを持った蓮見が聞く。
「コーラでお願いします」
プシュッと爽快な音がして、グラスにとくとくと注がれていく。度数がやたら高くて価格の安い、飲みなれた缶チューハイではない。本当に今、蓮見と過ごしているのだと、少しの日常のズレで実感させられる。乾杯と言い合って、お互いにグラスを傾けた。
「歯ブラシは洗面台に置いてます」
「ありがとう」
「ラピュタつけますか」
「最高の夜になっちゃうな!」
ぼふっとそのまま、布団に倒れ込むと、蓮見も嬉しそうにして、微かに目を細める。
「お前さー、よく笑うようになったな。いいことだ」
「結構、笑う方だと思ってます。あの頃は反抗期だったんで」
DVDプレーヤーをいじりながら蓮見は答える。少し照れているのだろうと思って、何も言わず、俺も口元を綻ばせた。
「あの」
「んー?」
再生が始まったラピュタに視線を向けたまま答える。蓮見のかしこまった様子に、気づかないふりをした。俺たちはピザの感想を述べ合う前に、話すべきこと、確認すべきことが山ほどあるはずだ。
「別居していた父に半ば攫われて東京に越したんです。高校生のとき」
「ああ、だからか。今の俺みたいに攫われたら仕方ないわな」
「ごめんなさい」
少し茶化してみても、蓮見は申し訳なさそうな顔を崩さない。
俺たちはいつでも会えた。だから、お互いに連絡先を交換することもなかった。蓮見の家は共働きでほとんど蓮見一人だったから、俺も自分の家のように、自由に行き来していたのだ。蓮見が急に居なくなるとは、全く想像もしていなかった。
「連絡先交換しとこ。敗因はこれだ」
「そうですね」
よく見ると蓮見はだいぶ変わっていた。街ですれ違っても、気づける自信がない。
事実、何も言いださない蓮見に、少し腹が立っていた。俺ばっかりが青春に取り残されているみたいで、俺だけがあの日々を大切に思っているようで、呼吸が少し詰まるのを感じる。
青春に取り残されていたから、インディーズバンドの中で、そこそこ有名になったんだぞ。
「文化祭の曲の作詞、一緒にやったの覚えてる?」
「それ、俺じゃないですね」
「はあ?」
思い切り顔を歪めて声を出したが、蓮見は俺の顔を見ない。加えて、一切の表情筋を動かさずにラピュタを観ている。不自然も甚だしい。男児は皆、目を輝かせてラピュタを観るものだ。
「学校でピザをデリバリーして怒られたのは誰?」
「それは先輩です」
「蓮見がピザを食べないと歌詞が浮かばないって言ったから! じゃあ、文化祭でその曲を歌う俺のステージを観て号泣したのは?」
「和泉さん」
「お前もな! しっかり覚えてるだろ!」
蓮見はラピュタから目を離さず、座卓から出てベッドに潜り込む。特に何も詮索してこないのは、何も話したくなかったからか。
俺が今、音楽をしていようがしていまいが、蓮見にとってはどうでもいいのだ。確かに蓮見には関係ない。でも、ピザでめちゃくちゃ生徒指導に怒られたのも、意地でも音楽の世界にしがみついたこの三年間も、蓮見がきっかけだった。ただ、それだけだ。ただ、それだけか?
「ふて寝するからな!」
「宣言してするものですか?」
俺が無視すると、蓮見はあっさり電気を消し、テレビの音量を下げた。以降なにも話さず、やがて蓮見から寝息が聞こえてきたので、テレビを消した。こっそり顔を覗くと、こちらの気持ちも知らないで穏やかに寝ている。
相対性理論とは言ったものだと思う。五年という時間を感じさせない取り留めもない話ができる。一方で、五年という時間があって、俺は何をなし得たんだろうかと重責に押しつぶされそうになる。
体の中を自然に流れていた音楽は、ぴたりと止んでそれっきりだ。何者かになりたかった自分はもういない。何者にもなれなかった自分が在るだけ。
この反芻をあと何回繰り返せば楽になれる。俺はもう、一年も曲を書けていない。一年間、なにも生み出せなかったのだ。
一週間、眠りこけていた。ふて寝どころか糸が切れたような俺に、蓮見はなにも言わず、ただ、休める居場所を黙って提供してくれていた。
「蓮見ちゃんよ……」
「はい」
「和泉から荷物を送りたいと連絡がありまして……」
「住所なら教えていいですよ。俺が取りに行きましょうか?」
「全部捨ててきたんだけどな。ちょっと連絡してみるわ、すまん」
布団の中で小さくなりながら、スマホをいじる。寝て食べてトイレに行ってまた寝るを繰り返し、蓮見とは必要最低限の会話だけ。
本当にひどく眠たく、降参するかのように睡魔に体をゆだねる日々が続く。
住所を送った後、和泉から音沙汰がないと思っていたら、自分が返信を忘れていた。ギターも機材も捨てたのだ。和泉の家にある荷物は、僅かな衣類と、ポケットに常備していなかった残りの薬ぐらいだろう。
世話になって二週間を過ぎた頃。突然、体に異変が起きた。
「俺も蓮見の朝ごはんが食べたい」
食い意地である。早朝、座卓で朝食を食べている蓮見に、布団から顔だけを出して声をかけた。焼き鮭とみそ汁のいい香り。毎朝、遠くから料理をする音が聞こえていて、その音を聞きながら二度寝するのが心地よかった。
「先輩のもできてますよ」
蓮見の穏やかな声が微かに揺れたような気がして、俺はあくびでごまかして少し泣いた。迷惑をかけただけでなく、心配もさせていたのだ。
初めて風呂を借りたとき、ポケットに入れていた薬を洗面台に置いていた。病気を隠しているわけではない。毎晩一錠、明日も健やかに生きていくための薬を飲む。
食べて眠る。その基本が、難しい人間がいる。そしてその基本が難なくできる人間は強い。俺はデビューしてから、健康的な人間生活を蔑ろにしすぎたのだ。
蓮見は最初こそ、先輩が家事ですか……と言って、なにやら思案したのだが、俺が何かしたいと訴えると手伝わせてくれた。
洗濯、掃除、食器洗い、観葉植物への水やり。教えてもらった通り、見よう見まねで体を動かした。音楽以外でも人を喜ばせる方法は、きっとこれまでにもあったのだろうと、蓮見の顔を見て思う。
世話になって三週間が経ったころに薬が切れた。薬がなくても眠れるようになっていた。酒も必要ない。一年も薬を飲み続けたのに、自分の体に効いたのは、蓮見が作る上手い飯か、広い布団か、音楽のない非日常か。
左指の感触を一日に何度も確かめる。ギターを弾いていないため、比例して指の皮が柔らかくなった。そう言えば、咳も止まっている。
良くも悪くも、体はすぐに変化したのに、気持ちだけがもぞもぞと収まりを知らないまま。それでも、空をぼんやりと眺めて、綺麗だと思えるほどには回復している。穏やかな時間が流れていた。
土曜日の午後は一緒に買い出しに行って、蓮見が作り置きするのが日課だ。帰りのレジ袋が重たくて驚いた。持ちなれたコンビニ袋は軽い。生きている食材は瑞々しく重いのだ。命は、重い。
「毎日、凄すぎる……職人だな」
いつものように小気味いい音につられて、蓮見を後ろから覗き込む。料理は迷惑をかける方が多かったので、早々に応援側へ回っていた。
「あの」
「んー?」
「来月にはこの家を出ます」
昔から蓮見は突拍子もない。出会いも、別れも突然だ。
「父の店を継ぎます」
「もしかして、お料理屋さん」
「先輩があの日、泥酔していた小料理屋は父の店です。父から連絡があって、迎えに行きました」
俺は思わず天を仰ぎ、額に手を当てた。忘れもしない醜態が走馬灯のように脳裏を駆け巡る。
「着いたら店に居なくて、近くの路上で寝っ転がってるし。だいぶ焦りましたけど」
「その節は本当にご迷惑を……。そうか、お父さんの。もっとそういうことは早く言って。挨拶に行かないと……」
蓮見はこくんと頷き、俺ではなくてクローゼットの方へ視線を移す。すぐに切り替えるように、再び手を動かして秋刀魚をさばき始めた。
何が、そこにあるのか。クローゼットが開けられたのを一度も見ていない。開けるなと言われているが、鍵がされているわけでもない。蓮見の視線に気づいていないふりをして、俺はごろんと蓮見のベッドに転がる。
この生活が永遠に続くと、もちろん思ってはいなかった。しんと来る決まった終わりに身を任せる。食材が二人分の食事になっていく音だけが響いた。なんとなく手を口に当てたが、やはり咳は出ない。
窓から夕日が差す中、早めの夕飯が座卓に並んだ。蓮見はさっきの会話から明らかに口数が減り、その分、目がいっそうものを言う。俺はどんな宣告を待たされているのだろうかと、蓮見の顔をうかがったときだ。
「お前って昔から、俺の顔好きだよな」
己の器量を表すように、おどけた言葉を選んでいた。蓮見の目に籠ったものが、ちりりと火花を散らした気がして――誤魔化したかったのに、既に遅かった。
「なんで……。その目、やめろよ」
衝動的に蓮見の顔を覆う。その拍子で、ごとんと鈍い音を立ててお茶の入ったコップを倒してしまった。惨めだ。自分はそんな目で見てもらえる人間ではなかった。
あの日、非常階段で向けられたのと同じ目――蓮見はまだ、そこから俺を見上げている。お前もまだ、そこに居たのか?
蓮見はみそ汁の椀を置き、そっと俺の手を払う。再び目が合ったその視線に、ざぶんと落ちて体の力が奪われる気がした。
「先輩は俺にとって、ずっと恩人です。永遠に」
息が細くなる。言わないといけない。音楽を辞めたのは、ゆるぎない事実だ。
「俺は……」
喉が締め付けられたように、二の句が継げない。いつから歌ってない。いつからギターを持ってない。ピックだって持ち歩かなくなった。なのに、音楽を辞めたことを、こいつの前だと認められない。
狼狽える自分とは対照的に、蓮見は終始冷静のまま、お茶がこぼれた座卓を拭く。それがなんだか腹立たしくて、むなしくて、どうしようもない。
蓮見が親切にしてくれているのは、昔の俺の幻影を見ているから? お前は俺を、都合よく理想化しているだけだ。今の俺は――。
胸に立ち込めた黒い塊をすぐに後悔した。固く握った手のひらに爪を立てる。蓮見に失礼な感情を少しでも抱いた自分が気持ち悪い。情けない。悔しい。最悪だった。
殴り合いの喧嘩をしているわけではないのに、何かが痛い。決して埋まらない溝が、二人の間に横たわっていた。次に目を合わせたとき、この関係が終わる気がした。
俺は逃げるように立ち上がる。往生際が悪いのは、神様のせいだと擦り付けた。数秒前から玄関のチャイムが鳴り響いていたのだ。
「キョウ! 居るんでしょ開けて!」
「先輩!」
外から響く和泉の声と、蓮見の声が重なる。勢いよくドアを開けたのと同時に、和泉の手に提げられていた薬袋が落ちて、鬱陶しい音を立てた。
「二週間以上は薬がなくなるでしょ! なに考えてんの!」
「行こう」
「ちょっとまって、蓮見は!」
和泉の手を取って、蓮見のアパートを出る。すぐ後ろでドアが閉まった音がした。謝る、説明する、どれも蓮見に聞かせたくなかった。俺は、蓮見の望む俺以外を見せたくなかったのだ。
染みついたように新宿で降り、東口へ向かう。行く当てのないときは、決まって新宿だ。雑多に人が行き交い、黒い塊となって蠢くような中で和泉が急に立ち止まる。
「いーつまで手ぇ握っとんじゃあ!」
「わあ!」
俺の右手が肩から弧を描いて宙を舞う。ピッチャーごとく俺を振り払ったのは、かの有名な大谷選手ではない。堪忍袋の緒が切れて、鬼の形相を浮かべる元マネージャーの和泉だ。
どんな怒号が飛ぼうと、新宿を歩く人々の関心は一歩で逸れ、俺たち二人の地獄など小さいものだと言われているようだった。
「心配して損した。元気そうね。慌てたのに」
「眠れるように、なったから……」
「そう。蓮見に頭が上がらないわね」
和泉は深くため息をついて、駅前広場の手すりにもたれかかる。
「一旦、帰ってきて。話の続きがしたい」
「続きも何も俺はもうバンドマンじゃない」
「マネージャーじゃなくて、私として話したいって言ってんの。やり方はまだ残ってる」
「和泉は俺のマネージャーでしょ。それに方法はないよ。曲が書けないんだから。答えはもう出しただろ」
この夏、年内で音楽活動を辞めるのを決めた。既に入っていた十月までのライブはこなした。十一月の頭に、活動終了となる旨の大切なお知らせをして終わり。体調不良を理由に最終ライブなど大層な催しはしない。応援してくれた人を黙って裏切り、最後に感謝も伝えないまま俺は舞台を降りる。
「これが俺の限界だったんだ」
「ちょっと待ってて」
和泉はそう言って顔を歪めると、近くの喫煙所へ入っていく。ぼうっと背中を見送って、深い息を吐くと、夜空へ白く息が漂う。この季節は新宿でも星が見えた。
これが美しいか? ネオンがひしめく世界で、夜空を飾る星々は味気ない。俺は知っている。星が降るような地元の夜空、肺いっぱいに吸い込める空気の美味しさ。じゃあ、そこへ帰ればいいだろう――それが、できたらどんなによかったか。
俺が戻りたい場所はもうない。あの非常階段に、あの頃の俺たちに、戻れる訳がない。大人になり、過ぎた時は戻らないのだから。
秋は苦手だ。俺の音楽人生を変える。三年前、二十歳の時にインディーズからデビューしたのは秋。音楽を辞めたのはこの秋。学校の外階段で蓮見と出会ったのも秋だった。
このままの音楽でいいのか? 秋は、いつも俺に問う。
「限界だった」
ぽつりと一人で小さくこぼした。
大学一年生のとき、学園祭で撮ってもらった一曲を、なんの気なしにSNSにアップしたら、知らぬ間に火がついていた。ひとりでに曲だけが拡散されていく。蓮見と作詞をした曲をバンドサウンドに変えて、歌詞も商業向けにアレンジしたものだ。曲名を『ホワイトライ』という。
本当に嘘のように、とんとん拍子だった。和泉がバイトをしていた音楽事務所から声が掛かり、必死に曲を書き看板曲を増やして、求められるままライブをした。
一年後、大学二年の二十歳。インディーズレーベルから声がかかった。こうして、王道のラブソングを書きおろし、リリースして、サカシタキョウはデビューを果たす。
手がけたCDが全国のCDショップに並んだのを見たとき、嬉しさよりも一区切りといった感情が大きかった。蓮見に豪語したバンドマンになったわけであるが、デビューしたからといって、生活が一変するわけではない。CDの販路が少し広くなったぐらいだ。
――飛び降りて死ぬぐらいなら、俺を推すために生きるのはどう? バンドで有名になる予定だし。
蓮見を止められたらなんだってよかった。あの日までは音楽は暇つぶしの一つに過ぎなかった。でも俺は、自分の存在を認めてくれる以上の眼差し、純粋な崇拝。表現者として立つステージで、万雷の拍手を聞いた。そして、本当にバンドマンとして三年間活動を続けた。
――先輩は俺にとって、ずっと恩人です。永遠に。
違う。それは、お前の方だ。
気が付いたときには、うっすらとあった自分の暗闇。それは希死念慮という名前なのだと知ったのは、十五歳のときだった。いつも命のなにかが満たされなくて、ここじゃないどこかへ行きたい。焦りだけが募り、なにをしていいかも分からない。この世でただ生きる。それが自分には難しかった。
ギターを弾いているときは、暗がりが少し晴れるから楽だっただけ。音楽で食べていくなんて思ったこともなかった。どんなライブを観ても、音楽を聴いても、ステージの向こう側が想像できなかったからだ。
崇拝。
あの瞬間、蓮見はこの広い世界で俺だけを求めた。俺はやっと生きていけると思ったんだ。
デビューはスタートに過ぎないように、現実は甘くなかったのだが。だからこうして今、暗がりの淵を漂うような振り出しに戻ってきた。
喫煙所から和泉が出てきたのが目の端をかすめ、ふらりとこの世ヘ戻るように我に返る。
和泉はなにやら決心したように、大股でこちらに歩いた。明らかに戦闘態勢で少し笑ってしまう。寒さで固まった体を、俺もぐっと思い切り伸ばした。
「お互い二週間で頭を冷やしたとして」
「その顔で冷えてる?」
俺が言うと、和泉が口角をひくつかせた。
「じゃあ、その情けない顔止めなさい。少しは真面目に話せないわけ? 本当に、坂下は音楽以外だめなんだから!」
俺はそれを合図に、和泉に背を向け逃走を謀った。和泉は感情が乗ると、昔のように俺を坂下と呼ぶ。お前はそれを知らないだろうけど、激怒する前兆だからな。
けんもほろろな自分を、腹に据えかねるのも無理はない。いつからだろう、和泉とまともに話せなくなったのは。デビューしてからは特に、理想と現実が嚙み合わず、自分の不甲斐なさが露呈した。絶望を受け止める器量もなく、和泉からも逃げてばかりいる。
「ごるぁ坂下あ! 誤魔化すなあ!」
後ろで和泉の声がする。必死に走る。蓮見のおかげで体が軽い。寝て食べるのを欠かさないと心の中で誓った。足は俺の方が速い。手は和泉の方が早い。何度取っ組み合いの喧嘩をしたか数えきれないし、和泉は柔道の黒帯だ。逃げるが勝ち。涙もきらりと光るような、漫画だったら足がぐるぐるってなるやつを決め込む。
迷惑ばかりかけている。
分かっている。分かっているけど、体は素直だ。和泉も素直だ。情けなくもまだこうやって追いかけてくれる味方がいるのを嬉しく思う。じわりと目頭が少し熱い。和泉には頭が上がらない。
でも、もう少し時間が欲しい。ちゃんと考えるから。今は許してほしい。
和泉の姿が見えなくなって、ふと足を止める。これで五度目の家出になるが、今回は戻る理由も居場所もない。音楽を辞めてしまったから、いつもとは話が違うのだ。
俺はなんのために逃げているのか。
なにを考えればいい。なにをすればいい。自分の体なのに、突然自分で操作できなくなったみたいに気持ち悪い。それを誤魔化したくて、ふらふらと雑踏の中を進み続けた。
「きゃー、キョウじゃん久しぶりー」
「久しぶり」
迎えた黄色い声に軽く手を振る。意外と明るい声が出た。細い腕が何本も絡まり、女の子たちが口々に話始める。
当てもなく新宿の雑踏を進み続けていると、見慣れた場所に立っていた。この辺のライブハウスは、目を閉じても辿り着けてしまう。入口にあるネオンの看板に誘われ、地下へ進む階段を下りたのだ。
「今日、誰がやってんの?」
「キョウの同期バンド結構出てるよ。ほら横井いた!」
バーカウンターの方を指さして言う。派手な格好には少し浮く、短く切り揃えた爪の先を目で追った――この子もギタリストで、たしかインストバンドをしていたなと思い出した。
その声に反応したのは、黒縁メガネで猫背のロン毛。如何にもベーシストだ。そいつは俺に気づいた途端、ぱっと顔を輝かせた。
「うっわあ! キョウじゃん、久しぶり! えっ、お前は大丈夫なの?」
「横井こそ大丈夫か? 平日の夜にライブって大手の新卒がなにしてんの」
「仕事……辞めちゃった……」
横井の持った少ないデリカシーを総動員して俺に接しろという前に、俺が横井の地雷を踏み抜いた。肩を抱きながらバーカウンターでビールをおごると、横井はうう、と言いながら一気に飲み干す。もう既にだいぶ出来上がっていた。
「大人になろうとして疲れた。無理だった社会。全員が敵に見えるし、俺はロボットになりかけた。人間なのに……」
「お帰り、こちら側へ」
「成功者と一緒にされたくねえー」
横井の反論と被さるように爆音が鳴り響き、トリのバンドが始まった。顔見知りばかりで、客なんてほとんどいない。横井も大学のときのサークル仲間だ。
成功者か――。
オルタナティブの課題曲のような演奏に耳を傾ける。傷のなめ合いのような身内イベント。何者にもなれなかったバンドマンたちが酒をあおり、爆音に酔いしれるような場所だ。
東京はどこまででも落ちぶれることができる。落ちても昇っても誰かしら隣に居た。冷たいようで孤独を感じさせない安心感は好きだった。
演奏中のステージから目を逸らし、回っている小さなミラーボールを眺めながら酒を飲む。楽しいのか、悲しいのか。何に傷ついているかさえ分からなくなると、いつもここから記憶が飛んだ。今夜は、どうだろうか。
ミラーボールをぼんやり眺める。なにも考えなくていい、ぽっかりと穴の開いた時間。
大学を卒業してもなお、逃げ込めるライブハウスがある。当たり前に周りのほとんどが、就職して、結婚して、人生のステージを上げていく中で、音楽から離れた。
それでもなお、音楽は楽しいからと、小さなライブハウスのステージで自己満足に叫ぶ者たち。そんな人間でここは溢れている。音楽で成功する覚悟なんかいらない。俺ももっと都合よく、上手く、音楽を愛せればよかった。
ああ、疲れている、と泣きたくなってくる。
正しい努力をしてきたつもりでいた。嚙み合わないバンドのサポートメンバーや、譲らないプロデューサーだとしても、寄り添い、時間を費やして曲を作ってきた。
自分を殺すのは覚悟の上で、音楽のできる環境を意地で守ってきた三年間だったように思う。音楽で食っていくのだと、迷いは一欠けらもなかったはずだ。結果論で曲が書けなくなる努力ではあったのだが。
爆音のフロアに立っているのに、コホンと自分の咳の方がうるさく体に響く。そういえば、蓮見の隣に居ると咳が出ない。久しぶりの感覚だった。
「帰る」
「なんて言った?」
横井の耳元でもう一度同じように叫んで、ふらりとフロアを見渡す。ライブハウスに蓮見の姿があるわけがないか。
ここに来る前、新宿の雑踏を進む中、脳裏に浮かんだのは蓮見の顔だった。あいつは追って来なかった。音楽のことも、薬のことも、蓮見は何も聞いてこない。だから楽だった。どうしようもないぐらい、ひどく救われていたんだ。
礼も言わずに飛び出して来てしまった。どの面を下げて会いに行くのか。和泉にも同じく、逃げた後いつも後悔した。彼女が虚勢を張っているのは分かる。俺がまた傷つけた。
どうして、あの日の夢を見るようになったのか――そんなの、音楽が好きだからに決まっていた。俺は、音楽がちゃんと好きだった。だからすごく困っているんだ。いつ、どうやって、蓮見と和泉にもらったものを返せるだろう。もう一生、無理なのかもしれない。
ライブハウスの階段を登り切り、目の前の横断歩道に立つ。息が白く、信号は赤い。
音楽さえも最後は憎んでしまった。デビューしてからは、楽しいより苦しい方が多かった。辞めると決めたときは、今まで以上にしんどくて、そのまま俺は狂っている。
それでも、音楽がとてつもなく好きだ。
和泉の正論も、蓮見の夢を繰り返し見るのも、田舎に帰ってこいと心配する親も、全部が面倒だった。耐えられなくて手放したくせに、音楽が好きだと自覚する本心はもっと面倒だ。後悔が押し寄せて耐えられない。だからと言って、もう頑張れない。なによりも、弱い自分が面倒で、嫌で、気持ち悪くも思えてきて、だったらもういっそのこと――。
「先輩!」
ぐっと腕を掴まれた。蓮見の声。足の力が抜け、ぺたりと地面に座り込む。目の前は国道で車が絶え間なく走り抜けた。
壊す前に、壊れる前に、分散しないといけない。逃げて、逃げて、傾きそうなバランスを保ってきた。俺は今、何をしようとした――。
俺の腕を掴んだ蓮見の手がひどく震えている。
「……ごめん。ごめんなさい」
声が掠れて上手くしゃべれない。蓮見は何も答えず、無理やり俺を立たせた。蓮見の顔が街頭に照らされる。その目からぼろぼろと、涙がこぼれ落ちていくのを見た。
俺は茫然と立ったまま、ぐしゃぐしゃになった蓮見の顔から目が離せない。何も言えず、情けなさ過ぎて、本当に死んでしまったらよかったとさえ思った。
俺はどこまでも身勝手で、心底、嫌になる。
タクシーを拾っても、蓮見は子どものように俺の腕を離さなかった。
「鍵はある?」
蓮見は玄関の前で黙ったまま、ぼうっと俺に鍵を渡す。家のドアを開けると、部屋は冷え切っていて思わず身震いする。今年は冬の訪れが早かった。
腕を掴んだままの蓮見を連れ、脱衣所に向かい風呂を沸かす。暖房をつけて、一緒に部屋で腰を下ろした。
明け方の薄青くなった部屋で、白んでいく空を見ていた。街の音は静まり、小さく鳥の鳴き声がするだけ。たった二人で、世界に取り残されたようだった。
「ごめんね」
「……許しません」
掠れ声で蓮見が答える。
「俺より先に死んだら、殺しますよ」
「滅茶苦茶だな」
「怒ってます。二度としないで」
「ごめん。本当に」
自分のことを泣いてもらえるような人間とは思えず、他人事の様に謝っているようで心苦しい。ただ、蓮見にあんな顔をさせたのかと思うと、ひどくやるせない。
蓮見は深く息を吐くと、ふらりと立ち上がった。電気ポットでお湯を沸かし、お茶を入れる。その間、蓮見は何も話さなかった。俺にもお茶の入ったマグカップを差し出し、しばらくお茶をすする音が響く。唐突に、風呂が溜まったと知らせる音が軽やかに流れた。
「風呂、先にどうぞ」
うかがうように、蓮見を見る。
「その前に、ちょっと覚悟してください」
「なにを?」
構える俺を無視して、蓮見はクローゼットを開けた。ぱちりとスイッチを押す音がして、クローゼットの中が間接照明で照らされる。同時に、とんでもないものが目に入った。
蓮見はクローゼットの中を指さして続ける。
「俺の宝です」
予想以上の物量が並ぶ。CDだけでない。雑誌にグッズ、抽選で当たるポスターまで、三年間の音楽活動が祭壇のようになっている。衝撃と感動――俺の音楽活動なんか、今の蓮見にとってはどうでもいいのだと、拗ねていた少しの後ろめたさ。様々な感情が一気にせめぎ合う中で、圧倒してくる光景。これが、本物の強火オタクの真骨頂か――。
「同じ祭壇を父の店で見ませんでした? 座敷の床の間にあるんですけど」
「まさかのここでトンチキ展開……」
「はあ?」
蓮見はふいに泣きそうな顔をしたかと思えば、心から呆れたような声を出すので、なんだかもう、何を言えば正解なのか見当もつかない。
戸惑う俺に構わず、蓮見は祭壇の中から小さなビニール袋を取り出した。その中には、しわくちゃになった可愛らしい封筒が入っている。
「先輩へのラブレターです」
「まさかお前……」
「過去一番で真剣な顔をしないでくださいよ」
「ええ……」
「高校の文化祭の後、女子から渡してくれって預かったんですけど、和泉さん怒ると怖いじゃないですか。これどうしようって悩んで、思わず噛み砕いちゃって」
「和泉は今も怖いですよ。ん? なんて?」
「すみません、本当に。そのまま転校しちゃったし」
ビニール袋を受け取り、噛み砕いた……と反芻していると、見覚えのある古ぼけたノートが次いで差し出され、少し息を呑んだ。表紙には『歌詞ノート 坂下京・蓮見傑』と書かれている。
「まあ、やっぱり覚えてるよな。というか、まだ持ってたの」
「先輩がくれたんです」
懐かしい。夢で何度も見たノートだ。俺は、そうだっけ、と軽く答え、ぱらぱらとページをめくりながら続けた。
「昔話したかったのに、なんではぐらかしたの」
「先輩が無理に音楽の話をして、この思い出まで恨まれるのは癪だから」
ページをめくっていた手が自然と止まる。言葉に詰まり、何も言い返せない。
蓮見はクローゼットの祭壇を見たまま、呟くように話した。
「ご覧の通り、俺は三年間の活動を全て知っています。もちろん、大切なお知らせも読みました」
「そう……」
音楽を辞めた自分が現実に横たわり、ぐちゃりと音を立てる。座っているのに眩暈がした。
夢は続けるのも、辞めるのも苦しい。どう転んだって苦しいのに、俺を夢中にさせて止まないステージが、音が、ここじゃない別の世界へ行ける何かが、確かにあったはずだ。
「……生きる、選択をした」
「生きるのが下手ですね」
「うるせえ」
せめぎ合う感情を吐き出すように、長く息をつく。
「頑張ってきたんだよ、これでもな」
「知ってます。そんなの、ファンは全員。サカシタキョウの曲がかっこいいのは勿論だけど、前だけ向いてるような生き様がかっこいいんだって。MCに滲み出てるんですよ。ダメ人間そうなのにカリスマ性があって。沼ってやつです。そう、あなたは言われてるんですよ」
「褒められてる……」
「本当、そういうところです」
蓮見は眉を下げて笑い、なんだか誇らしそうに居住まいを正した。
「そっか。そうなんだ」
噛みしめるように相槌を打つ。不意に鼻がつんとして目頭が熱くなり、俺はノートに視線を落とした。俺の踊っている文字の隣に、蓮見の添削が律儀に添えられている。
最後のページに『ホワイトライ』と題した完成版の歌詞があった。サビで何度も繰り返すフレーズを指でなぞる。
「つくづく良い歌詞だ……。バンドバージョンにしたやつは、商業向けに改めて歌詞をキャッチーに変える必要があったから、これは俺とお前しか知らない」
蓮見は、そうですか、と言って、柔らかい視線をノートに落とす。青すぎたあの頃の、俺たちだから選べた言葉だ。無骨で傲慢でストレート。そして、目一杯の背伸びをしている。
なんだかすごく、遠くまで歩いてきたような気がしてくる。
「俺は、先輩が音楽を辞めたって死んだりしませんよ」
「……そこまでもう、己惚れてないよ」
声が震えた。一気に込み上げてきて涙が出る。
「あー、懐かしい。泣けてきちゃった」
ひどい音で洟をすすりながら、小さくこぼす。蓮見は何も言わず、いつも通り隣に居てくれる。それがあまりにも優しくて、心地よくて、どんどん甘えてしまうのだ。
「東京タワーっていいよな」
俺が小さくぼやくと、蓮見はそうですね、と少し考えた後に続けた。
「数えきれない人が魅力を感じて見上げている。様々な思いを抱いて。塔の中に神社があるのも頷けますね」
「羨ましい」
「傲慢でよろしい」
蓮見の声に角はない。朝日が地平線から覗き、部屋を明るく照らし始めた。二人で並んだまま座り、カーテンが開いたままの窓から、新しい一日を迎える東京の街を眺める。
「誰にも言うつもりなかったんだけど」
俺にはもう、矜持も覚悟も残っていないと悟る。ぼろぼろと溢れた涙が止まらないように、堪えていたものが崩れた。
「ずっと、死んじゃいたい」
「……うん」
蓮見は静かに相槌を打つ。ただ、隣に居てくれるのに、どれだけ救われているか。
音楽を捨て、生きるために生きていくのが上手くできない自分の気持ちを、励まさずにいてくれて、どれだけ安心したか。俺はそれに、ずっと甘えている。
「でも、死にたいは、生きたいの絶叫なんだ。音楽がそれを教えてくれた。だけど、上手くいかないんだ。俺がしたかった音楽が分からなくなっちゃった」
体が震えて、声が擦れた。うん、と繰り返す蓮見の声も震えていた。俺は子どもみたいに声をあげて泣く。本当に、ばかみたいに泣いて、泣いて、ぐちゃぐちゃだった。
お互いにそれ以上、なにも話さなかった。朝日の中を泳ぐように、ぼうっとする体をそのまま預ける。
きっとずっと不安だった。考えないようにしても、音楽のことを考えてしまう。
このままで本当にいいのか。いつか、限界が来るんじゃないのか。
――音楽とは。
デビュー二年目を迎えるころに、ぷつんと微かに漂っていた焦燥感が飽和した。
二番煎じのライブを続けている感じ。井の中の蛙で周りの評価と自分の評価が一致しない。何が欠けているか考えるほど、全てが欠けているように感じて、作った曲をボツにしていく作業が続く。
俺は悩みたいから悩んでいる。これは、無意識の現実逃避なのではないか。そうやって追い詰めて、夜に眠れず薬を飲み、朝に起きられなくなった頃だ。懐かしい、あの日の夢を見るようになった。
着崩した制服、抜け出した授業。よく廊下を走っていた。非常階段に吹き抜ける風。蓮見の真剣な横顔。俺の歌詞を添削する、迷いのないシャーペンの音。
音が気持ちよければ、言葉なんてどうだっていいのに、と俺が仮歌詞で歌うと、それもいいな、と言って目を丸くした蓮見は珍しく笑った。
言葉なんてどうだっていい。蓮見が今、音楽に夢中になってくれればそれでいい。
俺は夢中で音を探し、蓮見の紡ぐ言葉を音楽に変えていく。
シンプルで簡単なコード。背伸びして苦労した変拍子。粗削りで未熟な曲なのに、お前の音楽とはこういうものだと譲らない。だから苦しい。苦しいのは、自分でもそう思っているからだ。
あの頃の俺を、俺たちを、音楽を、超える瞬間はあるか。音楽の神様に何度も問いかけた。
――死よりも魅力的な、夢中になれる音楽は何処か――。
どこかでやり方を間違えたんじゃない。俺は元々こういう生き方しかできない。ここじゃないどこかへ行きたい。
目を覚ますと、自分の布団で寝ていた。料理をしている音に、ぼんやりと耳を傾ける。ここがもう、タイムリミットだ。永遠にとは言わないからもう少しだけ、聞き慣れたこの音に浸っていたい。再び目を瞑ると涙が伝った。
「また泣きながら寝るの?」
「うわあ!」
閉じたばかりの目をかっと開く。幻覚幻聴ではない。おたまを持った和泉が見下ろしてくる。「味見してみな?」
和泉が小皿を近づけてきて、俺の口に当てた。
「寝起きにカレー……。うまあ」
「夕飯に蓮見が作ってくれたの。大好物でしょ、早く起きなよ」
「なんで居んの……」
重たい体をゆっくりと起こし、這い上がるように立って洗面台に向かう。カーテンは閉められていて、時計を確認すると二十時を指していた。
「眠れましたか」
台所に立った蓮見が振り向き、視線が重なる。日常の地続きのように自然で、昨夜のことなど忘れているように見える。
「おかげさまで」
小さく口を動かし、ぽつりと返す。蓮見は一言残しただけで、再び俺に背を向けた。鍋から皿へ三人分のカレーを几帳面に盛っていく。俺はそれをぼんやり眺めて、はたと言葉を続けた。
「俺、明日にはここを出るよ」
「顔洗って来いって言ってんの」
和泉が割り込むように声を出した。キッとした顔で俺を見て、蓮見から皿を受け取っては座卓に運ぶ。
「ええ……。俺は蓮見に……」
「まあまあ、二人とも」
蓮見が宥めるように言い、俺は及び腰で促されるまま洗面台に向かう。戸惑いつつも座卓につくと、三人分のカレーが並んでいて、食欲をそそる香りが漂う。三人揃っていただきますと手を合わせた。
クローゼットは開けられたままになっている。どの角度に体を傾けても祭壇が目に入った。俺の前に和泉が座り、蓮見と二言三言交わしながら、ありがたそうに、そして、いつもの早食いで平らげていく。
「お腹すいてないの?」
「いや……。なんで居るのかと思って」
「俺が呼びました。カレーはいつも作りすぎるので」
「そう……」
蓮見が答えたので、俺は黙ってカレーを口に運ぶ。
「カレー食べに来ちゃ悪い?」
「喧嘩腰女だな。悪くはないけど。いや、喧嘩腰は悪いよ。カレーの方」
「私の家の鍵を返して」
和泉は俺を無視して、俺のポケットを指さす。
「持ってないけど」
家の鍵は持って出なかった。そういえば、朝方に風呂を入れたはずなのに、入りそびれたな、とぼんやり考えながら、ポケットに手を突っ込んだ。カチャリと中で音が鳴る。
「なんであるんだよ……」
「昨日、新宿で別れ際に私が入れたから」
「はあ? お前昨日、どこ泊ったの。うわGPSか……」
無意識に責めるような声色になる。和泉の鍵には、紛失防止のタグが付けられているのを知っていた。
「坂下なんかきらい! 手段なんかあんたに選べるわけないでしょ!」
今にも泣きだしそうな顔で鍵を俺の手から奪い取る。さっきから、我慢しているのは分かっていた。和泉は勢いよく背を向け、ドアに進みながら続ける。
「私が迎えに行っても、絶対帰ってこないのも分かってたもん!」
「待って」
黙っていた蓮見が、出て行こうとする和泉の腕を取って引き留める。和泉は、振り払うのを躊躇っているのか、涙を堪えているのか、気を荒げた野良猫のように、ふーと息を整えた。
和泉は何があっても簡単に泣かない。昔からそういうやつだ。
「和泉さんに頼まれたんです。先輩を迎えに行ってほしいって。次はもうどこに行くか分からない。だけど、私じゃ無理だったって。先輩は、反省してください」
蓮見は、和泉に座るように促し、全員が座卓につくと、スマホ画面を俺に向けた。
「話をしましょう。これからのことを。先輩はまだ、音楽を辞めたことにはなっていません。無期限の活動休止中です」
「なんで?」
俺は和泉に向き直る。予想以上に冷たい声が出ていた。すんと息が細くなり、頭に血が上っていく。蓮見が居るのにも構わず、和泉に続ける。
「ちゃんと決めたよな?」
「嫌だから……」
「なにが?」
「二度と歌わなくてもいい。ギターだって捨てたらいい。でも、私は、坂下が音楽を辞めるのが嫌だから! 殴ればいいじゃん! 勝手なことをしたのは私なんだから!」
「はあ? 俺がいつお前を殴ったことがあんだよ!」
ばちん、と平手打ちが飛んできて、一瞬、視界が白くなる。俺がたった今、和泉にひっぱたかれた。変に冷静になる。和泉も知っているはずだ。簡単に決めたんじゃない。どんな気持ちで俺が覚悟をしたか。
「お前さあ、もうなんなの……」
「三年。無期限と言っても三年が限度」
「ちょっと待てって……。まず、叩いたのを謝って」
「一年だったら休んだ気にならないでしょ。三年休んだ後も辞めたかったら、私も一緒に音楽を辞める」
和泉と目が合い、久しぶりに顔を見た気がした。まともに顔さえ、見ていなかったのだ。
「音楽は記憶と結びつくの。私があの日の文化祭のステージを忘れないように。少し休んだって、私がどうにかしてみせる」
和泉も俺と同じ場所――戻れない青すぎた日々に、まだ居たのだと気付かされる目だ。悉くこの二人は、同じように俺を見上げる。
和泉は一息つき、続けて、ばちん! とさっきよりも大きく、乾いた音が部屋に響いた。和泉が自分で顔をひっぱたいた音だ。和泉の唇が切れて血が垂れるのを、俺はただ茫然と見ていた。
「マネージャー失格よ。もっと早くこうしておけばよかったの」
「和泉、血が……だめだろ、そんなことしたら」
不意に胃がぐっと上がってきて、吐きそうになる。
「ごめん坂下。こんなんじゃ足りないって分かってるけど……」
和泉は話し続けるが、頭の中が真っ白で話を理解する前にすり抜ける。
音楽なんて辞めるでも続けるでも、俺の覚悟も決意も些細なものだ。簡単にすこんと頭から飛びぬけていくのだから。本当に大切なものは片手に納まる数ほどだと思い知る。
「止血! 先輩、病院に連れて行きましょう」
蓮見の声にはっとして、我に返る。
「ちょっと黙れ、和泉」
「二人ともうるさい!」
和泉は狼狽している俺たちをキッと睨んだかと思えば、すぐに弱弱しく肩を落として小さくなる。混乱状態だった蓮見と俺は、同じように和泉の緩急に圧倒され、止血しようとして行き場のない手を宙に泳がせた。
「坂下が死ななくてよかった……」
和泉は小さく言うと、両手を大きく広げてぽてぽてと傍により、自分よりも大きい男二人を力強く抱きしめる。ありがとう、ありがとう蓮見、と繰り返した。そして、やっぱりむかつくと言って俺を見上げると、そのまま巴投げで俺を吹っ飛ばした。
「……これから何しよう」
転がされたまましばらく天井見つめ、ぽつりと口にした。床に打ち付けた腰が痛い。変に気が抜けて、盛大に腹が鳴る。
「三年……。料理、覚えたいかも」
「うちで働けばいいですよ」
「まじ?」
寝転がったまま、視線だけ蓮見に向ける。蓮見は何もなかったように、カレーを食べている。
「ふふ、良かったじゃない」
和泉も俺の隣で寝転がったまま、鈴を転がすように笑った。
「和泉さんも、先輩が優しいからって衝動的に武力行使しちゃだめですよ。二人の衝動的なところはそっくりすぎて呆れます」
「はい……。ごめん……」
「もっと怒られてろ」
和泉のむっとした顔が向けられているのが、見なくても分かる。蓮見の前では少しだけしおらしくなるようだ。これは得たりと、俺はここぞとばかり和泉に文句を垂れたのだが、蓮見が本気で俺を𠮟りつけてきて、一晩中、後悔する羽目になった。
俺と和泉の関係は、なにが狂っているかも分からないほど拗れていたのだが、恥ずかしくもこの一夜をきっかけに、持ち直したのは間違いない。
蓮見傑の母親が若くして亡くなった、といった田舎の噂は本当のようで、彼の制服に染みついた線香の匂いが漂ってくる。
高校二年の残暑が続く秋、十七歳の始め。俺が蓮見より先輩だからじゃない。傲慢という言葉さえ知らなかったから言えたんだ。
――飛び降りて死ぬぐらいなら、俺を推すために生きるのはどう? バンドで有名になる予定だし。
蓮見は微動だにしない。俺の衝動的な威勢はすぐにしぼみ、世迷言の他でもないと下唇を噛む。立ち上がるときにギターのネックが手すりに当たって嫌な音を立てた。ひや汗で張り付いたシャツの不快さが増していく。
蓮見に飛びかかろうと、階段を降りようとしたときだ。
振り返る蓮見の視線を浴びる。俺を見上げるあいつは異常だった。
正に、崇拝。
世界で俺だけを見る人がいる。体がしびれ、どぼんと何かに落ちていったのは俺の方だった。蓮見を中心にぱっと視界が開け、万雷の拍手が降るステージを見た。命を揺さぶる福音を聞いた。人生が始まるとき――導く音が聞こえるとはこれのことか。
常軌を逸した者が二人。蓮見は俺から目を逸らさない。俺は込み上げる涙を必死にこらえた。
――こんなふうに見られたい。
音楽を真剣に考え始めるきっかけには、十分すぎる激情。初めて生を実感した。
だから、何度も夢に見るのだろうか。
あの頃とは違い、俺は夢を諦め、音楽を辞めてしまったというのに。曲が書けないなんて、ステージを降りるなんて、想像すらしていなかった。俺は、なんのために生きているのか。
ぼんやりと秋の夜空を見上げていた。天を飾る微かな一等星よりも、東京タワーの赤が暗闇に映える。突然、俺の視界を遮るようにして現れた、五年前と同じ顔、白シャツにスラックス。ほんのりと、線香の香り――。
秋だからだろう、鮮明な夢だ。あの頃には戻れないのに、曲が書けなくなったこの一年は特に、あの日の蓮見を夢に見る。ストレスで乾いた咳が出た。最近は酒がないと眠れない。
深酔いの中ふわふわと、俺を覗き込む蓮見を見上げる。
「今日は懐かしい匂いがする」
「なにしてんですか」
幻聴だろうか。これが最後となけなしの貯金で良い酒をとことん飲んだ。今は地面のひんやりさが心地良い。
「俺は死んだの?」
「生きてますよ。バイト先が葬儀社なんで線香の匂いが俺からするだけです」
蓮見がしゃがみこんで、俺に肩を回す。ほぼ背負われるような状態で立ち上がった。
「なんでまた、難しそうな葬儀社を……」
「社会勉強にベストだったんで」
「あれ? いつもの制服じゃないな」
ぐわんぐわんと世界が回って少し可笑しい。あいつからいつも、線香の匂いがしていた。忘れては思い出す、蓮見は俺にとってそんな人間なのだろう。
「いつの話をしてるんですか。制服って……」
酒を飲みすぎた。喪服か、と声に出ていたかも怪しい。ふらふらと促されるまま一歩を踏み出し、それを繰り返す。
校則や未成年と守られていた不自由の方が、自由に泳げていたあの頃。俺たちは学校の非常階段で話してから、それなりに仲良くしていたと思う。季節が一周して、秋の文化祭が終わった翌日、蓮見は消えるように転校した。たった一年の月日だった。
秋は苦手だ。木枯らしみたいな奴だった。でも、こうして夢に出ては、俺の始まりを思い出させる。音楽を辞めた自分にはもう、必要もないのだが。
諦めた。張りぼてのライブをこなし、納得いかない曲を作り続けること。苦しくて耐えられなくて、全てが狂って音楽から逃げた。夢を、人生を諦めた。
逃げたくせに、一月前、最後のライブを終えたとき、ここで死にたいと思った。
これからどうやって、生きていけばいい。体が震え手足の感覚が遠くなっていく。視界が滲んで、前が見えない。瞬きをするたび、熱いものがこぼれた。
「ふいいー」
「独特な泣き方ですね」
なんだか記憶よりでかい蓮見を、うるせえ、と言って蹴った。その反動でよろめき、蓮見に支えられる。頬を伝う涙がやけに温かく、情けなくなった。
涙を流す悔しさが、矜持が、どんなに自分を押しつぶしても腹は減るし、生きようとする自分がひどく卑しかった。
「夢であってくれよ……」
酒を浴びるように飲んだはずなのに、記憶が飛んでいない。二日酔いで痛む頭に手を当て、蓮見のベッドで目を覚ました事実を理解する。『恥』の一文字が浮かび思考が停止した。今年の漢字が滑り込みでごぼう抜きだ。
躊躇いがちに部屋の方へ顔を向けると、ベッドの傍に座卓が置かれ、その上に品々が几帳面に並べられている。即席の味噌汁、ペットボトルの水、着替え。添えられていたメモにだけ手を伸ばし、寝転んだ態勢のまま読む。記憶にある蓮見の淡々とした筆跡だ。クローゼット以外は開けていい、食べるなり、寝るなり、風呂なり部屋で好きに休んでくれとのこと。
スペアキーまで置いてあった。情けないことに、ここから逃げる選択肢まで用意されている始末だ。この際、昨夜の醜態は覚えていないで突き通そう。それに最後の砦として、全てが俺の夢という場合もある。むしろ夢である方が信じられる気がした。
ゆっくりと体を起こし、軽く部屋を見渡す。十畳ほどのワンルームだ。薄いカーテンの隙間から、西日が差し込んでいた。壁際にあるキャビネットの上に、数字だけが浮かぶデジタル時計が光っていて十七時を指す。今日から十一月のようで、カレンダーが律儀にめくられている部屋に、どろどろの俺だけが浮いていた。
清潔な寝具の上が忍びなくなって衝動的に降りると、ポケットからスマホと財布が落ちて音を立てる。床で体を小さく丸めた。カーペットが優しく頬に触れる。コホンと繰り返し出る自分の咳以外、世界の音が遠い。
風呂で身を清めるべきか、味噌汁で二日酔いを治めるべきか、このまま出て行くべきか。止まらない咳が鬱陶しい。ゆっくりと息を整え、五年前と昨夜と今をすり合わせる。
ふと、変に笑いが漏れた。こんなことってあるんだ。我ながら情緒が安定しない面倒な野郎だと思う。ピザでも頼んでおこうか。不思議と食欲はある。いつ帰ってくるんだろう。蓮見の連絡先も分からない。鍵は置いてあるのに、メモに連絡先は書いてない。
本当に今、蓮見の家に居るんだ。部屋の隅に移動して、小さくなったまま部屋を見渡す。
蓮見は葬儀社でバイトをしていて、几帳面な部屋に住んでいて――視界に入る観葉植物、小説、絵、写真。知らない蓮見の中身を覗き見するようで、ぐっと力を入れて目を閉じると、盛大に腹が鳴った。
「坂下先輩」
蓮見の声がしたかと思うと、次いでピザの香りが漂う。ああ、また寝ていたのかと目を開けると、明かりの点けられた部屋が眩しく、蓮見の顔が霞んだ。
「よかった。水飲めますか?」
「ありがとう……」
蓋の開いたペットボトルを受け取る。蓮見は、ほっとしたような顔で立ち上がり、部屋のカーテンを閉めた。もうすっかり日も落ちている。
「温かいうちに、食べましょう」
座卓に大きなピザが置かれているのを見て、気管に水が入り咳き込んだ。ゴホンと繰り返しながら、慌てる蓮見を左手で制する。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫。いやその、俺も、ピザ頼もうかと、思ってた」
「二日酔いには、この店のピザが効くってゼミで有名なんです」
「そんなことある? 大学の?」
息を深く吐いて、ゆっくりと話す。
「はい。だまされたと思って食べてみてください」
蓮見はピザの他にもポテトやジュースも注文していて、淡々と取り出し蓋を開けていく。床で寝落ちたせいで固まった体を手持ち無沙汰に伸ばし、促されるまま座卓を囲んだ。
いただきます、と言い合って、ピザを一切れ口に運ぶ。
確かに美味しい。おしゃれな店名が書かれたステッカーが箱に貼ってあったので、個人店なのだろうか。食べることは生きることなのだと、改めて思うほどに味がした。
「照り焼き味おすすめです。取れますか?」
「ありがとう」
俺が取りやすいように、蓮見は箱をくるりと回してくれる。ピザの味が四種類で、ポテトも二種類ある。お互いに、つい最近までも会っていたような調子で味の感想を述べ合うが、事実五年ぶりの再会だ。再会までの長い時間と、会話の距離が噛み合っておらず、そこに少し照れが滲む。
「本当に二日酔いに効くっぽいな。すごくすっきり」
「俺も最初は疑いましたよ」
蓮見も少し笑う。ぱちん、ぱちんと、ピースがはまる様に談笑は続き、ピザは残り二切れになっていた。
「実は、和泉に家を追い出されまして……あ、和泉紗夏って覚えてる?」
腹も満たされてくると、話題も変わるということで、ふいに自分の口をついて出たのは自虐だった。続けて、実は俺、音楽辞めちゃったんだよね、と乾いた笑いをするつもりだったのに、この期に及んで言い淀んでしまう。
音楽を辞めたことを蓮見に隠しているようで、後ろめたかったのだ。話題を変えようとしたが、なにを話していいかも分からず、迷うように唇だけが動く。
「先輩の彼女ですよね。軽音部のマネージャーだった」
「元彼女が正解です……。今はただの同居人」
そして、高校を卒業してからは、サカシタキョウのマネージャー。いや、元マネージャーが正しい。
「喧嘩でもしたんですか?」
「結構大きめなのを……」
昨夜、事務所からサカシタキョウの音楽活動終了のお知らせがあったはずだ。デビューからわずか三年。音楽を辞めたいと考え出した今年の夏ごろから、和泉とは冷戦状態だったが、昨日は等々荒れに荒れた喧嘩をした。きっかけは、俺が楽器や機材をすべて捨てたから。もっと遠くのゴミ捨て場に持って行くべきだった。
「それで、別れて同居人に?」
「いや、もう別れて四年経ってる」
「……想像できない」
「まあ、昨日の朝まで一緒に居たけどな」
和泉とは特に理由もなく自然と別れていたが、同居を解消する理由がなかった。今思えば、彼氏彼女らしいことなんてほとんどなく、男女の壁を越えた和泉の献身的なサポートを、あの頃は恋愛としてか解釈できなかったのかもしれない。
和泉は大学には進学せず俺と一緒に上京した。ライブハウスや音楽事務所のバイトを始め、俺より精力的に音楽を愛しているのを、そのときになって初めて知った。
今年の春に、和泉は大手の音楽事務所に就職したが、俺を含めインディーズバンドのマネジメントも別で続けている。本当に出来た人間だと思う。根っからの音楽バカとも言えるが。
一方で、俺は軽音サークルが強いW大に進学したが、単位が足りず、半年遅れでこの九月に卒業したばかりだ。約四年半の学生生活で学んだことは、これといって何もない。
和泉のように広すぎる社会の自由に、丸腰で飛び込む勇気が無かったのだ。危惧したように俺は音楽に挫折し、無職になって二か月が経つ。
「和泉さんには、連絡しました?」
「まだです……」
「追い出したとはいえ、心配してると思いますよ」
「うむ」
なんとなく姿勢を正しながら、前髪を触る。手がべたついて、風呂に入っていない身なりであることに気づいた。ますます居たたまれず、下唇を噛んで天を仰ぐ。蓮見の親切に甘えすぎて、口を滑らせてしまったのが恥ずかしい。久しぶりに蓮見に会えて、浮かれすぎてもいたのだ。
「連絡するなら、好きなだけ居てくれていいですよ」
「いやでも!」
「ほかに当てがありますか?」
「その、ええっと……」
確かに行く当てはない。和泉以外の相手に、迷惑の一線を越えるような関係を築いてこなかったのを痛感する。売り言葉に買い言葉で、家を飛び出して来たのだ。
深く息を吸って、蓮見に向き直る。
高校生のときは、身長こそ変わらなかったが、蓮見はもっとあどけなく、頼りなく、少年のようなか細さがあった。今、ピザを食べながら見返してくる蓮見は、成人男性の筋肉があり、落ち着きがあり、そこはかとなく明るくなった気がする。
「五年で育ったな」
「そうですか?」
「これは夢なのかな」
「いいえ」
「ですよね」
「夢なわけがありますか?」
「すみません……」
情けない俺に、蓮見は柔らかい声で続ける。
「まあ、明日のことは明日考えましょう。風呂を入れるので先にどうぞ。俺は布団を買ってきます」
「甘えます……。蓮見のほしいものも買っておいで……」
床を見渡し、落ちたままだった自分の財布を拾って差し出す。蓮見はこんな俺さえも立ててくれるらしく、素直に感謝を述べて受け取ってくれた。ドアまで見送り鍵が閉まると、風呂に湯が溜まる音だけがワンルームに響く。蓮見が言うように、俺は判断を先送りにした。
二十二時を過ぎても、問題なく布団を買えるのが東京だ。風呂から上がってすぐに、ドアが開く音がした。
蓮見が足でドアを支えるのを見て、俺も慌てて駆け寄りドアを押さえる。雨が降り始めていたらしく、冷たい夜風が入り込んだ。
「戻りました」
「うわあ、ありがとな。お帰り」
蓮見は片手に布団、片手に食材が覗く買い物袋を下げており、少し雨で濡れていた。
「料理すんの? その前に早く風呂入りな。風呂お先でした」
「はい。明日、オフなんで何か作ります」
荷物を受けとりながら、その言い方、かっこいいから真似するわ、と軽口を叩く。蓮見は俺を軽くあしらって、そのまま脱衣所に入った。
想像より大きい、と目を留めながら布団を広げると、箱にダブルと書いてある。嬉しいやら、申し訳ないやら考えつつ、蓮見のベッド横付近をほとんど占領することになった。我慢できずに布団へ潜り込む。暖房の効いた部屋では、ひんやりとしていて気持ちが良い。
「うああ!」
唐突に、思わず声を上げて飛び起きる。急いで蓮見から返された財布の中を確認した。思った通りだ。昨晩、現金はすべて使っていて、クレジットカードしか入ってない。蓮見がパスワードを知っている訳がなかった。
「どうしました?」
「ごめん。請求してくれ」
「なんだ、そんなことか……」
蓮見はバスタオルを巻いただけの格好で脱衣所から飛び出して来ており、床にぽたぽたと水滴が落ちる。
「そんなことお?」
「下唇を噛む癖、治ってないじゃないですか」
「うるせえ、記憶力が良すぎるだろ」
凄んで中指を立てると、蓮見はからっと笑って脱衣所に戻って行った。
俺は立ち上がってキャビネットの上にあるティッシュを数枚取り、床を拭く。何が蓮見のほしいものも買っておいで、だ。顔から火が出そうなのを誤魔化したくて、甲斐甲斐しく働く。
「全裸で出てくるとか中坊かよ」
つい笑ってしまい、ひとりごちる。
「聞こえてますよ」
「早くね?」
「どっちか飲みます?」
冷蔵庫を開けて、ジュースを持った蓮見が聞く。
「コーラでお願いします」
プシュッと爽快な音がして、グラスにとくとくと注がれていく。度数がやたら高くて価格の安い、飲みなれた缶チューハイではない。本当に今、蓮見と過ごしているのだと、少しの日常のズレで実感させられる。乾杯と言い合って、お互いにグラスを傾けた。
「歯ブラシは洗面台に置いてます」
「ありがとう」
「ラピュタつけますか」
「最高の夜になっちゃうな!」
ぼふっとそのまま、布団に倒れ込むと、蓮見も嬉しそうにして、微かに目を細める。
「お前さー、よく笑うようになったな。いいことだ」
「結構、笑う方だと思ってます。あの頃は反抗期だったんで」
DVDプレーヤーをいじりながら蓮見は答える。少し照れているのだろうと思って、何も言わず、俺も口元を綻ばせた。
「あの」
「んー?」
再生が始まったラピュタに視線を向けたまま答える。蓮見のかしこまった様子に、気づかないふりをした。俺たちはピザの感想を述べ合う前に、話すべきこと、確認すべきことが山ほどあるはずだ。
「別居していた父に半ば攫われて東京に越したんです。高校生のとき」
「ああ、だからか。今の俺みたいに攫われたら仕方ないわな」
「ごめんなさい」
少し茶化してみても、蓮見は申し訳なさそうな顔を崩さない。
俺たちはいつでも会えた。だから、お互いに連絡先を交換することもなかった。蓮見の家は共働きでほとんど蓮見一人だったから、俺も自分の家のように、自由に行き来していたのだ。蓮見が急に居なくなるとは、全く想像もしていなかった。
「連絡先交換しとこ。敗因はこれだ」
「そうですね」
よく見ると蓮見はだいぶ変わっていた。街ですれ違っても、気づける自信がない。
事実、何も言いださない蓮見に、少し腹が立っていた。俺ばっかりが青春に取り残されているみたいで、俺だけがあの日々を大切に思っているようで、呼吸が少し詰まるのを感じる。
青春に取り残されていたから、インディーズバンドの中で、そこそこ有名になったんだぞ。
「文化祭の曲の作詞、一緒にやったの覚えてる?」
「それ、俺じゃないですね」
「はあ?」
思い切り顔を歪めて声を出したが、蓮見は俺の顔を見ない。加えて、一切の表情筋を動かさずにラピュタを観ている。不自然も甚だしい。男児は皆、目を輝かせてラピュタを観るものだ。
「学校でピザをデリバリーして怒られたのは誰?」
「それは先輩です」
「蓮見がピザを食べないと歌詞が浮かばないって言ったから! じゃあ、文化祭でその曲を歌う俺のステージを観て号泣したのは?」
「和泉さん」
「お前もな! しっかり覚えてるだろ!」
蓮見はラピュタから目を離さず、座卓から出てベッドに潜り込む。特に何も詮索してこないのは、何も話したくなかったからか。
俺が今、音楽をしていようがしていまいが、蓮見にとってはどうでもいいのだ。確かに蓮見には関係ない。でも、ピザでめちゃくちゃ生徒指導に怒られたのも、意地でも音楽の世界にしがみついたこの三年間も、蓮見がきっかけだった。ただ、それだけだ。ただ、それだけか?
「ふて寝するからな!」
「宣言してするものですか?」
俺が無視すると、蓮見はあっさり電気を消し、テレビの音量を下げた。以降なにも話さず、やがて蓮見から寝息が聞こえてきたので、テレビを消した。こっそり顔を覗くと、こちらの気持ちも知らないで穏やかに寝ている。
相対性理論とは言ったものだと思う。五年という時間を感じさせない取り留めもない話ができる。一方で、五年という時間があって、俺は何をなし得たんだろうかと重責に押しつぶされそうになる。
体の中を自然に流れていた音楽は、ぴたりと止んでそれっきりだ。何者かになりたかった自分はもういない。何者にもなれなかった自分が在るだけ。
この反芻をあと何回繰り返せば楽になれる。俺はもう、一年も曲を書けていない。一年間、なにも生み出せなかったのだ。
一週間、眠りこけていた。ふて寝どころか糸が切れたような俺に、蓮見はなにも言わず、ただ、休める居場所を黙って提供してくれていた。
「蓮見ちゃんよ……」
「はい」
「和泉から荷物を送りたいと連絡がありまして……」
「住所なら教えていいですよ。俺が取りに行きましょうか?」
「全部捨ててきたんだけどな。ちょっと連絡してみるわ、すまん」
布団の中で小さくなりながら、スマホをいじる。寝て食べてトイレに行ってまた寝るを繰り返し、蓮見とは必要最低限の会話だけ。
本当にひどく眠たく、降参するかのように睡魔に体をゆだねる日々が続く。
住所を送った後、和泉から音沙汰がないと思っていたら、自分が返信を忘れていた。ギターも機材も捨てたのだ。和泉の家にある荷物は、僅かな衣類と、ポケットに常備していなかった残りの薬ぐらいだろう。
世話になって二週間を過ぎた頃。突然、体に異変が起きた。
「俺も蓮見の朝ごはんが食べたい」
食い意地である。早朝、座卓で朝食を食べている蓮見に、布団から顔だけを出して声をかけた。焼き鮭とみそ汁のいい香り。毎朝、遠くから料理をする音が聞こえていて、その音を聞きながら二度寝するのが心地よかった。
「先輩のもできてますよ」
蓮見の穏やかな声が微かに揺れたような気がして、俺はあくびでごまかして少し泣いた。迷惑をかけただけでなく、心配もさせていたのだ。
初めて風呂を借りたとき、ポケットに入れていた薬を洗面台に置いていた。病気を隠しているわけではない。毎晩一錠、明日も健やかに生きていくための薬を飲む。
食べて眠る。その基本が、難しい人間がいる。そしてその基本が難なくできる人間は強い。俺はデビューしてから、健康的な人間生活を蔑ろにしすぎたのだ。
蓮見は最初こそ、先輩が家事ですか……と言って、なにやら思案したのだが、俺が何かしたいと訴えると手伝わせてくれた。
洗濯、掃除、食器洗い、観葉植物への水やり。教えてもらった通り、見よう見まねで体を動かした。音楽以外でも人を喜ばせる方法は、きっとこれまでにもあったのだろうと、蓮見の顔を見て思う。
世話になって三週間が経ったころに薬が切れた。薬がなくても眠れるようになっていた。酒も必要ない。一年も薬を飲み続けたのに、自分の体に効いたのは、蓮見が作る上手い飯か、広い布団か、音楽のない非日常か。
左指の感触を一日に何度も確かめる。ギターを弾いていないため、比例して指の皮が柔らかくなった。そう言えば、咳も止まっている。
良くも悪くも、体はすぐに変化したのに、気持ちだけがもぞもぞと収まりを知らないまま。それでも、空をぼんやりと眺めて、綺麗だと思えるほどには回復している。穏やかな時間が流れていた。
土曜日の午後は一緒に買い出しに行って、蓮見が作り置きするのが日課だ。帰りのレジ袋が重たくて驚いた。持ちなれたコンビニ袋は軽い。生きている食材は瑞々しく重いのだ。命は、重い。
「毎日、凄すぎる……職人だな」
いつものように小気味いい音につられて、蓮見を後ろから覗き込む。料理は迷惑をかける方が多かったので、早々に応援側へ回っていた。
「あの」
「んー?」
「来月にはこの家を出ます」
昔から蓮見は突拍子もない。出会いも、別れも突然だ。
「父の店を継ぎます」
「もしかして、お料理屋さん」
「先輩があの日、泥酔していた小料理屋は父の店です。父から連絡があって、迎えに行きました」
俺は思わず天を仰ぎ、額に手を当てた。忘れもしない醜態が走馬灯のように脳裏を駆け巡る。
「着いたら店に居なくて、近くの路上で寝っ転がってるし。だいぶ焦りましたけど」
「その節は本当にご迷惑を……。そうか、お父さんの。もっとそういうことは早く言って。挨拶に行かないと……」
蓮見はこくんと頷き、俺ではなくてクローゼットの方へ視線を移す。すぐに切り替えるように、再び手を動かして秋刀魚をさばき始めた。
何が、そこにあるのか。クローゼットが開けられたのを一度も見ていない。開けるなと言われているが、鍵がされているわけでもない。蓮見の視線に気づいていないふりをして、俺はごろんと蓮見のベッドに転がる。
この生活が永遠に続くと、もちろん思ってはいなかった。しんと来る決まった終わりに身を任せる。食材が二人分の食事になっていく音だけが響いた。なんとなく手を口に当てたが、やはり咳は出ない。
窓から夕日が差す中、早めの夕飯が座卓に並んだ。蓮見はさっきの会話から明らかに口数が減り、その分、目がいっそうものを言う。俺はどんな宣告を待たされているのだろうかと、蓮見の顔をうかがったときだ。
「お前って昔から、俺の顔好きだよな」
己の器量を表すように、おどけた言葉を選んでいた。蓮見の目に籠ったものが、ちりりと火花を散らした気がして――誤魔化したかったのに、既に遅かった。
「なんで……。その目、やめろよ」
衝動的に蓮見の顔を覆う。その拍子で、ごとんと鈍い音を立ててお茶の入ったコップを倒してしまった。惨めだ。自分はそんな目で見てもらえる人間ではなかった。
あの日、非常階段で向けられたのと同じ目――蓮見はまだ、そこから俺を見上げている。お前もまだ、そこに居たのか?
蓮見はみそ汁の椀を置き、そっと俺の手を払う。再び目が合ったその視線に、ざぶんと落ちて体の力が奪われる気がした。
「先輩は俺にとって、ずっと恩人です。永遠に」
息が細くなる。言わないといけない。音楽を辞めたのは、ゆるぎない事実だ。
「俺は……」
喉が締め付けられたように、二の句が継げない。いつから歌ってない。いつからギターを持ってない。ピックだって持ち歩かなくなった。なのに、音楽を辞めたことを、こいつの前だと認められない。
狼狽える自分とは対照的に、蓮見は終始冷静のまま、お茶がこぼれた座卓を拭く。それがなんだか腹立たしくて、むなしくて、どうしようもない。
蓮見が親切にしてくれているのは、昔の俺の幻影を見ているから? お前は俺を、都合よく理想化しているだけだ。今の俺は――。
胸に立ち込めた黒い塊をすぐに後悔した。固く握った手のひらに爪を立てる。蓮見に失礼な感情を少しでも抱いた自分が気持ち悪い。情けない。悔しい。最悪だった。
殴り合いの喧嘩をしているわけではないのに、何かが痛い。決して埋まらない溝が、二人の間に横たわっていた。次に目を合わせたとき、この関係が終わる気がした。
俺は逃げるように立ち上がる。往生際が悪いのは、神様のせいだと擦り付けた。数秒前から玄関のチャイムが鳴り響いていたのだ。
「キョウ! 居るんでしょ開けて!」
「先輩!」
外から響く和泉の声と、蓮見の声が重なる。勢いよくドアを開けたのと同時に、和泉の手に提げられていた薬袋が落ちて、鬱陶しい音を立てた。
「二週間以上は薬がなくなるでしょ! なに考えてんの!」
「行こう」
「ちょっとまって、蓮見は!」
和泉の手を取って、蓮見のアパートを出る。すぐ後ろでドアが閉まった音がした。謝る、説明する、どれも蓮見に聞かせたくなかった。俺は、蓮見の望む俺以外を見せたくなかったのだ。
染みついたように新宿で降り、東口へ向かう。行く当てのないときは、決まって新宿だ。雑多に人が行き交い、黒い塊となって蠢くような中で和泉が急に立ち止まる。
「いーつまで手ぇ握っとんじゃあ!」
「わあ!」
俺の右手が肩から弧を描いて宙を舞う。ピッチャーごとく俺を振り払ったのは、かの有名な大谷選手ではない。堪忍袋の緒が切れて、鬼の形相を浮かべる元マネージャーの和泉だ。
どんな怒号が飛ぼうと、新宿を歩く人々の関心は一歩で逸れ、俺たち二人の地獄など小さいものだと言われているようだった。
「心配して損した。元気そうね。慌てたのに」
「眠れるように、なったから……」
「そう。蓮見に頭が上がらないわね」
和泉は深くため息をついて、駅前広場の手すりにもたれかかる。
「一旦、帰ってきて。話の続きがしたい」
「続きも何も俺はもうバンドマンじゃない」
「マネージャーじゃなくて、私として話したいって言ってんの。やり方はまだ残ってる」
「和泉は俺のマネージャーでしょ。それに方法はないよ。曲が書けないんだから。答えはもう出しただろ」
この夏、年内で音楽活動を辞めるのを決めた。既に入っていた十月までのライブはこなした。十一月の頭に、活動終了となる旨の大切なお知らせをして終わり。体調不良を理由に最終ライブなど大層な催しはしない。応援してくれた人を黙って裏切り、最後に感謝も伝えないまま俺は舞台を降りる。
「これが俺の限界だったんだ」
「ちょっと待ってて」
和泉はそう言って顔を歪めると、近くの喫煙所へ入っていく。ぼうっと背中を見送って、深い息を吐くと、夜空へ白く息が漂う。この季節は新宿でも星が見えた。
これが美しいか? ネオンがひしめく世界で、夜空を飾る星々は味気ない。俺は知っている。星が降るような地元の夜空、肺いっぱいに吸い込める空気の美味しさ。じゃあ、そこへ帰ればいいだろう――それが、できたらどんなによかったか。
俺が戻りたい場所はもうない。あの非常階段に、あの頃の俺たちに、戻れる訳がない。大人になり、過ぎた時は戻らないのだから。
秋は苦手だ。俺の音楽人生を変える。三年前、二十歳の時にインディーズからデビューしたのは秋。音楽を辞めたのはこの秋。学校の外階段で蓮見と出会ったのも秋だった。
このままの音楽でいいのか? 秋は、いつも俺に問う。
「限界だった」
ぽつりと一人で小さくこぼした。
大学一年生のとき、学園祭で撮ってもらった一曲を、なんの気なしにSNSにアップしたら、知らぬ間に火がついていた。ひとりでに曲だけが拡散されていく。蓮見と作詞をした曲をバンドサウンドに変えて、歌詞も商業向けにアレンジしたものだ。曲名を『ホワイトライ』という。
本当に嘘のように、とんとん拍子だった。和泉がバイトをしていた音楽事務所から声が掛かり、必死に曲を書き看板曲を増やして、求められるままライブをした。
一年後、大学二年の二十歳。インディーズレーベルから声がかかった。こうして、王道のラブソングを書きおろし、リリースして、サカシタキョウはデビューを果たす。
手がけたCDが全国のCDショップに並んだのを見たとき、嬉しさよりも一区切りといった感情が大きかった。蓮見に豪語したバンドマンになったわけであるが、デビューしたからといって、生活が一変するわけではない。CDの販路が少し広くなったぐらいだ。
――飛び降りて死ぬぐらいなら、俺を推すために生きるのはどう? バンドで有名になる予定だし。
蓮見を止められたらなんだってよかった。あの日までは音楽は暇つぶしの一つに過ぎなかった。でも俺は、自分の存在を認めてくれる以上の眼差し、純粋な崇拝。表現者として立つステージで、万雷の拍手を聞いた。そして、本当にバンドマンとして三年間活動を続けた。
――先輩は俺にとって、ずっと恩人です。永遠に。
違う。それは、お前の方だ。
気が付いたときには、うっすらとあった自分の暗闇。それは希死念慮という名前なのだと知ったのは、十五歳のときだった。いつも命のなにかが満たされなくて、ここじゃないどこかへ行きたい。焦りだけが募り、なにをしていいかも分からない。この世でただ生きる。それが自分には難しかった。
ギターを弾いているときは、暗がりが少し晴れるから楽だっただけ。音楽で食べていくなんて思ったこともなかった。どんなライブを観ても、音楽を聴いても、ステージの向こう側が想像できなかったからだ。
崇拝。
あの瞬間、蓮見はこの広い世界で俺だけを求めた。俺はやっと生きていけると思ったんだ。
デビューはスタートに過ぎないように、現実は甘くなかったのだが。だからこうして今、暗がりの淵を漂うような振り出しに戻ってきた。
喫煙所から和泉が出てきたのが目の端をかすめ、ふらりとこの世ヘ戻るように我に返る。
和泉はなにやら決心したように、大股でこちらに歩いた。明らかに戦闘態勢で少し笑ってしまう。寒さで固まった体を、俺もぐっと思い切り伸ばした。
「お互い二週間で頭を冷やしたとして」
「その顔で冷えてる?」
俺が言うと、和泉が口角をひくつかせた。
「じゃあ、その情けない顔止めなさい。少しは真面目に話せないわけ? 本当に、坂下は音楽以外だめなんだから!」
俺はそれを合図に、和泉に背を向け逃走を謀った。和泉は感情が乗ると、昔のように俺を坂下と呼ぶ。お前はそれを知らないだろうけど、激怒する前兆だからな。
けんもほろろな自分を、腹に据えかねるのも無理はない。いつからだろう、和泉とまともに話せなくなったのは。デビューしてからは特に、理想と現実が嚙み合わず、自分の不甲斐なさが露呈した。絶望を受け止める器量もなく、和泉からも逃げてばかりいる。
「ごるぁ坂下あ! 誤魔化すなあ!」
後ろで和泉の声がする。必死に走る。蓮見のおかげで体が軽い。寝て食べるのを欠かさないと心の中で誓った。足は俺の方が速い。手は和泉の方が早い。何度取っ組み合いの喧嘩をしたか数えきれないし、和泉は柔道の黒帯だ。逃げるが勝ち。涙もきらりと光るような、漫画だったら足がぐるぐるってなるやつを決め込む。
迷惑ばかりかけている。
分かっている。分かっているけど、体は素直だ。和泉も素直だ。情けなくもまだこうやって追いかけてくれる味方がいるのを嬉しく思う。じわりと目頭が少し熱い。和泉には頭が上がらない。
でも、もう少し時間が欲しい。ちゃんと考えるから。今は許してほしい。
和泉の姿が見えなくなって、ふと足を止める。これで五度目の家出になるが、今回は戻る理由も居場所もない。音楽を辞めてしまったから、いつもとは話が違うのだ。
俺はなんのために逃げているのか。
なにを考えればいい。なにをすればいい。自分の体なのに、突然自分で操作できなくなったみたいに気持ち悪い。それを誤魔化したくて、ふらふらと雑踏の中を進み続けた。
「きゃー、キョウじゃん久しぶりー」
「久しぶり」
迎えた黄色い声に軽く手を振る。意外と明るい声が出た。細い腕が何本も絡まり、女の子たちが口々に話始める。
当てもなく新宿の雑踏を進み続けていると、見慣れた場所に立っていた。この辺のライブハウスは、目を閉じても辿り着けてしまう。入口にあるネオンの看板に誘われ、地下へ進む階段を下りたのだ。
「今日、誰がやってんの?」
「キョウの同期バンド結構出てるよ。ほら横井いた!」
バーカウンターの方を指さして言う。派手な格好には少し浮く、短く切り揃えた爪の先を目で追った――この子もギタリストで、たしかインストバンドをしていたなと思い出した。
その声に反応したのは、黒縁メガネで猫背のロン毛。如何にもベーシストだ。そいつは俺に気づいた途端、ぱっと顔を輝かせた。
「うっわあ! キョウじゃん、久しぶり! えっ、お前は大丈夫なの?」
「横井こそ大丈夫か? 平日の夜にライブって大手の新卒がなにしてんの」
「仕事……辞めちゃった……」
横井の持った少ないデリカシーを総動員して俺に接しろという前に、俺が横井の地雷を踏み抜いた。肩を抱きながらバーカウンターでビールをおごると、横井はうう、と言いながら一気に飲み干す。もう既にだいぶ出来上がっていた。
「大人になろうとして疲れた。無理だった社会。全員が敵に見えるし、俺はロボットになりかけた。人間なのに……」
「お帰り、こちら側へ」
「成功者と一緒にされたくねえー」
横井の反論と被さるように爆音が鳴り響き、トリのバンドが始まった。顔見知りばかりで、客なんてほとんどいない。横井も大学のときのサークル仲間だ。
成功者か――。
オルタナティブの課題曲のような演奏に耳を傾ける。傷のなめ合いのような身内イベント。何者にもなれなかったバンドマンたちが酒をあおり、爆音に酔いしれるような場所だ。
東京はどこまででも落ちぶれることができる。落ちても昇っても誰かしら隣に居た。冷たいようで孤独を感じさせない安心感は好きだった。
演奏中のステージから目を逸らし、回っている小さなミラーボールを眺めながら酒を飲む。楽しいのか、悲しいのか。何に傷ついているかさえ分からなくなると、いつもここから記憶が飛んだ。今夜は、どうだろうか。
ミラーボールをぼんやり眺める。なにも考えなくていい、ぽっかりと穴の開いた時間。
大学を卒業してもなお、逃げ込めるライブハウスがある。当たり前に周りのほとんどが、就職して、結婚して、人生のステージを上げていく中で、音楽から離れた。
それでもなお、音楽は楽しいからと、小さなライブハウスのステージで自己満足に叫ぶ者たち。そんな人間でここは溢れている。音楽で成功する覚悟なんかいらない。俺ももっと都合よく、上手く、音楽を愛せればよかった。
ああ、疲れている、と泣きたくなってくる。
正しい努力をしてきたつもりでいた。嚙み合わないバンドのサポートメンバーや、譲らないプロデューサーだとしても、寄り添い、時間を費やして曲を作ってきた。
自分を殺すのは覚悟の上で、音楽のできる環境を意地で守ってきた三年間だったように思う。音楽で食っていくのだと、迷いは一欠けらもなかったはずだ。結果論で曲が書けなくなる努力ではあったのだが。
爆音のフロアに立っているのに、コホンと自分の咳の方がうるさく体に響く。そういえば、蓮見の隣に居ると咳が出ない。久しぶりの感覚だった。
「帰る」
「なんて言った?」
横井の耳元でもう一度同じように叫んで、ふらりとフロアを見渡す。ライブハウスに蓮見の姿があるわけがないか。
ここに来る前、新宿の雑踏を進む中、脳裏に浮かんだのは蓮見の顔だった。あいつは追って来なかった。音楽のことも、薬のことも、蓮見は何も聞いてこない。だから楽だった。どうしようもないぐらい、ひどく救われていたんだ。
礼も言わずに飛び出して来てしまった。どの面を下げて会いに行くのか。和泉にも同じく、逃げた後いつも後悔した。彼女が虚勢を張っているのは分かる。俺がまた傷つけた。
どうして、あの日の夢を見るようになったのか――そんなの、音楽が好きだからに決まっていた。俺は、音楽がちゃんと好きだった。だからすごく困っているんだ。いつ、どうやって、蓮見と和泉にもらったものを返せるだろう。もう一生、無理なのかもしれない。
ライブハウスの階段を登り切り、目の前の横断歩道に立つ。息が白く、信号は赤い。
音楽さえも最後は憎んでしまった。デビューしてからは、楽しいより苦しい方が多かった。辞めると決めたときは、今まで以上にしんどくて、そのまま俺は狂っている。
それでも、音楽がとてつもなく好きだ。
和泉の正論も、蓮見の夢を繰り返し見るのも、田舎に帰ってこいと心配する親も、全部が面倒だった。耐えられなくて手放したくせに、音楽が好きだと自覚する本心はもっと面倒だ。後悔が押し寄せて耐えられない。だからと言って、もう頑張れない。なによりも、弱い自分が面倒で、嫌で、気持ち悪くも思えてきて、だったらもういっそのこと――。
「先輩!」
ぐっと腕を掴まれた。蓮見の声。足の力が抜け、ぺたりと地面に座り込む。目の前は国道で車が絶え間なく走り抜けた。
壊す前に、壊れる前に、分散しないといけない。逃げて、逃げて、傾きそうなバランスを保ってきた。俺は今、何をしようとした――。
俺の腕を掴んだ蓮見の手がひどく震えている。
「……ごめん。ごめんなさい」
声が掠れて上手くしゃべれない。蓮見は何も答えず、無理やり俺を立たせた。蓮見の顔が街頭に照らされる。その目からぼろぼろと、涙がこぼれ落ちていくのを見た。
俺は茫然と立ったまま、ぐしゃぐしゃになった蓮見の顔から目が離せない。何も言えず、情けなさ過ぎて、本当に死んでしまったらよかったとさえ思った。
俺はどこまでも身勝手で、心底、嫌になる。
タクシーを拾っても、蓮見は子どものように俺の腕を離さなかった。
「鍵はある?」
蓮見は玄関の前で黙ったまま、ぼうっと俺に鍵を渡す。家のドアを開けると、部屋は冷え切っていて思わず身震いする。今年は冬の訪れが早かった。
腕を掴んだままの蓮見を連れ、脱衣所に向かい風呂を沸かす。暖房をつけて、一緒に部屋で腰を下ろした。
明け方の薄青くなった部屋で、白んでいく空を見ていた。街の音は静まり、小さく鳥の鳴き声がするだけ。たった二人で、世界に取り残されたようだった。
「ごめんね」
「……許しません」
掠れ声で蓮見が答える。
「俺より先に死んだら、殺しますよ」
「滅茶苦茶だな」
「怒ってます。二度としないで」
「ごめん。本当に」
自分のことを泣いてもらえるような人間とは思えず、他人事の様に謝っているようで心苦しい。ただ、蓮見にあんな顔をさせたのかと思うと、ひどくやるせない。
蓮見は深く息を吐くと、ふらりと立ち上がった。電気ポットでお湯を沸かし、お茶を入れる。その間、蓮見は何も話さなかった。俺にもお茶の入ったマグカップを差し出し、しばらくお茶をすする音が響く。唐突に、風呂が溜まったと知らせる音が軽やかに流れた。
「風呂、先にどうぞ」
うかがうように、蓮見を見る。
「その前に、ちょっと覚悟してください」
「なにを?」
構える俺を無視して、蓮見はクローゼットを開けた。ぱちりとスイッチを押す音がして、クローゼットの中が間接照明で照らされる。同時に、とんでもないものが目に入った。
蓮見はクローゼットの中を指さして続ける。
「俺の宝です」
予想以上の物量が並ぶ。CDだけでない。雑誌にグッズ、抽選で当たるポスターまで、三年間の音楽活動が祭壇のようになっている。衝撃と感動――俺の音楽活動なんか、今の蓮見にとってはどうでもいいのだと、拗ねていた少しの後ろめたさ。様々な感情が一気にせめぎ合う中で、圧倒してくる光景。これが、本物の強火オタクの真骨頂か――。
「同じ祭壇を父の店で見ませんでした? 座敷の床の間にあるんですけど」
「まさかのここでトンチキ展開……」
「はあ?」
蓮見はふいに泣きそうな顔をしたかと思えば、心から呆れたような声を出すので、なんだかもう、何を言えば正解なのか見当もつかない。
戸惑う俺に構わず、蓮見は祭壇の中から小さなビニール袋を取り出した。その中には、しわくちゃになった可愛らしい封筒が入っている。
「先輩へのラブレターです」
「まさかお前……」
「過去一番で真剣な顔をしないでくださいよ」
「ええ……」
「高校の文化祭の後、女子から渡してくれって預かったんですけど、和泉さん怒ると怖いじゃないですか。これどうしようって悩んで、思わず噛み砕いちゃって」
「和泉は今も怖いですよ。ん? なんて?」
「すみません、本当に。そのまま転校しちゃったし」
ビニール袋を受け取り、噛み砕いた……と反芻していると、見覚えのある古ぼけたノートが次いで差し出され、少し息を呑んだ。表紙には『歌詞ノート 坂下京・蓮見傑』と書かれている。
「まあ、やっぱり覚えてるよな。というか、まだ持ってたの」
「先輩がくれたんです」
懐かしい。夢で何度も見たノートだ。俺は、そうだっけ、と軽く答え、ぱらぱらとページをめくりながら続けた。
「昔話したかったのに、なんではぐらかしたの」
「先輩が無理に音楽の話をして、この思い出まで恨まれるのは癪だから」
ページをめくっていた手が自然と止まる。言葉に詰まり、何も言い返せない。
蓮見はクローゼットの祭壇を見たまま、呟くように話した。
「ご覧の通り、俺は三年間の活動を全て知っています。もちろん、大切なお知らせも読みました」
「そう……」
音楽を辞めた自分が現実に横たわり、ぐちゃりと音を立てる。座っているのに眩暈がした。
夢は続けるのも、辞めるのも苦しい。どう転んだって苦しいのに、俺を夢中にさせて止まないステージが、音が、ここじゃない別の世界へ行ける何かが、確かにあったはずだ。
「……生きる、選択をした」
「生きるのが下手ですね」
「うるせえ」
せめぎ合う感情を吐き出すように、長く息をつく。
「頑張ってきたんだよ、これでもな」
「知ってます。そんなの、ファンは全員。サカシタキョウの曲がかっこいいのは勿論だけど、前だけ向いてるような生き様がかっこいいんだって。MCに滲み出てるんですよ。ダメ人間そうなのにカリスマ性があって。沼ってやつです。そう、あなたは言われてるんですよ」
「褒められてる……」
「本当、そういうところです」
蓮見は眉を下げて笑い、なんだか誇らしそうに居住まいを正した。
「そっか。そうなんだ」
噛みしめるように相槌を打つ。不意に鼻がつんとして目頭が熱くなり、俺はノートに視線を落とした。俺の踊っている文字の隣に、蓮見の添削が律儀に添えられている。
最後のページに『ホワイトライ』と題した完成版の歌詞があった。サビで何度も繰り返すフレーズを指でなぞる。
「つくづく良い歌詞だ……。バンドバージョンにしたやつは、商業向けに改めて歌詞をキャッチーに変える必要があったから、これは俺とお前しか知らない」
蓮見は、そうですか、と言って、柔らかい視線をノートに落とす。青すぎたあの頃の、俺たちだから選べた言葉だ。無骨で傲慢でストレート。そして、目一杯の背伸びをしている。
なんだかすごく、遠くまで歩いてきたような気がしてくる。
「俺は、先輩が音楽を辞めたって死んだりしませんよ」
「……そこまでもう、己惚れてないよ」
声が震えた。一気に込み上げてきて涙が出る。
「あー、懐かしい。泣けてきちゃった」
ひどい音で洟をすすりながら、小さくこぼす。蓮見は何も言わず、いつも通り隣に居てくれる。それがあまりにも優しくて、心地よくて、どんどん甘えてしまうのだ。
「東京タワーっていいよな」
俺が小さくぼやくと、蓮見はそうですね、と少し考えた後に続けた。
「数えきれない人が魅力を感じて見上げている。様々な思いを抱いて。塔の中に神社があるのも頷けますね」
「羨ましい」
「傲慢でよろしい」
蓮見の声に角はない。朝日が地平線から覗き、部屋を明るく照らし始めた。二人で並んだまま座り、カーテンが開いたままの窓から、新しい一日を迎える東京の街を眺める。
「誰にも言うつもりなかったんだけど」
俺にはもう、矜持も覚悟も残っていないと悟る。ぼろぼろと溢れた涙が止まらないように、堪えていたものが崩れた。
「ずっと、死んじゃいたい」
「……うん」
蓮見は静かに相槌を打つ。ただ、隣に居てくれるのに、どれだけ救われているか。
音楽を捨て、生きるために生きていくのが上手くできない自分の気持ちを、励まさずにいてくれて、どれだけ安心したか。俺はそれに、ずっと甘えている。
「でも、死にたいは、生きたいの絶叫なんだ。音楽がそれを教えてくれた。だけど、上手くいかないんだ。俺がしたかった音楽が分からなくなっちゃった」
体が震えて、声が擦れた。うん、と繰り返す蓮見の声も震えていた。俺は子どもみたいに声をあげて泣く。本当に、ばかみたいに泣いて、泣いて、ぐちゃぐちゃだった。
お互いにそれ以上、なにも話さなかった。朝日の中を泳ぐように、ぼうっとする体をそのまま預ける。
きっとずっと不安だった。考えないようにしても、音楽のことを考えてしまう。
このままで本当にいいのか。いつか、限界が来るんじゃないのか。
――音楽とは。
デビュー二年目を迎えるころに、ぷつんと微かに漂っていた焦燥感が飽和した。
二番煎じのライブを続けている感じ。井の中の蛙で周りの評価と自分の評価が一致しない。何が欠けているか考えるほど、全てが欠けているように感じて、作った曲をボツにしていく作業が続く。
俺は悩みたいから悩んでいる。これは、無意識の現実逃避なのではないか。そうやって追い詰めて、夜に眠れず薬を飲み、朝に起きられなくなった頃だ。懐かしい、あの日の夢を見るようになった。
着崩した制服、抜け出した授業。よく廊下を走っていた。非常階段に吹き抜ける風。蓮見の真剣な横顔。俺の歌詞を添削する、迷いのないシャーペンの音。
音が気持ちよければ、言葉なんてどうだっていいのに、と俺が仮歌詞で歌うと、それもいいな、と言って目を丸くした蓮見は珍しく笑った。
言葉なんてどうだっていい。蓮見が今、音楽に夢中になってくれればそれでいい。
俺は夢中で音を探し、蓮見の紡ぐ言葉を音楽に変えていく。
シンプルで簡単なコード。背伸びして苦労した変拍子。粗削りで未熟な曲なのに、お前の音楽とはこういうものだと譲らない。だから苦しい。苦しいのは、自分でもそう思っているからだ。
あの頃の俺を、俺たちを、音楽を、超える瞬間はあるか。音楽の神様に何度も問いかけた。
――死よりも魅力的な、夢中になれる音楽は何処か――。
どこかでやり方を間違えたんじゃない。俺は元々こういう生き方しかできない。ここじゃないどこかへ行きたい。
目を覚ますと、自分の布団で寝ていた。料理をしている音に、ぼんやりと耳を傾ける。ここがもう、タイムリミットだ。永遠にとは言わないからもう少しだけ、聞き慣れたこの音に浸っていたい。再び目を瞑ると涙が伝った。
「また泣きながら寝るの?」
「うわあ!」
閉じたばかりの目をかっと開く。幻覚幻聴ではない。おたまを持った和泉が見下ろしてくる。「味見してみな?」
和泉が小皿を近づけてきて、俺の口に当てた。
「寝起きにカレー……。うまあ」
「夕飯に蓮見が作ってくれたの。大好物でしょ、早く起きなよ」
「なんで居んの……」
重たい体をゆっくりと起こし、這い上がるように立って洗面台に向かう。カーテンは閉められていて、時計を確認すると二十時を指していた。
「眠れましたか」
台所に立った蓮見が振り向き、視線が重なる。日常の地続きのように自然で、昨夜のことなど忘れているように見える。
「おかげさまで」
小さく口を動かし、ぽつりと返す。蓮見は一言残しただけで、再び俺に背を向けた。鍋から皿へ三人分のカレーを几帳面に盛っていく。俺はそれをぼんやり眺めて、はたと言葉を続けた。
「俺、明日にはここを出るよ」
「顔洗って来いって言ってんの」
和泉が割り込むように声を出した。キッとした顔で俺を見て、蓮見から皿を受け取っては座卓に運ぶ。
「ええ……。俺は蓮見に……」
「まあまあ、二人とも」
蓮見が宥めるように言い、俺は及び腰で促されるまま洗面台に向かう。戸惑いつつも座卓につくと、三人分のカレーが並んでいて、食欲をそそる香りが漂う。三人揃っていただきますと手を合わせた。
クローゼットは開けられたままになっている。どの角度に体を傾けても祭壇が目に入った。俺の前に和泉が座り、蓮見と二言三言交わしながら、ありがたそうに、そして、いつもの早食いで平らげていく。
「お腹すいてないの?」
「いや……。なんで居るのかと思って」
「俺が呼びました。カレーはいつも作りすぎるので」
「そう……」
蓮見が答えたので、俺は黙ってカレーを口に運ぶ。
「カレー食べに来ちゃ悪い?」
「喧嘩腰女だな。悪くはないけど。いや、喧嘩腰は悪いよ。カレーの方」
「私の家の鍵を返して」
和泉は俺を無視して、俺のポケットを指さす。
「持ってないけど」
家の鍵は持って出なかった。そういえば、朝方に風呂を入れたはずなのに、入りそびれたな、とぼんやり考えながら、ポケットに手を突っ込んだ。カチャリと中で音が鳴る。
「なんであるんだよ……」
「昨日、新宿で別れ際に私が入れたから」
「はあ? お前昨日、どこ泊ったの。うわGPSか……」
無意識に責めるような声色になる。和泉の鍵には、紛失防止のタグが付けられているのを知っていた。
「坂下なんかきらい! 手段なんかあんたに選べるわけないでしょ!」
今にも泣きだしそうな顔で鍵を俺の手から奪い取る。さっきから、我慢しているのは分かっていた。和泉は勢いよく背を向け、ドアに進みながら続ける。
「私が迎えに行っても、絶対帰ってこないのも分かってたもん!」
「待って」
黙っていた蓮見が、出て行こうとする和泉の腕を取って引き留める。和泉は、振り払うのを躊躇っているのか、涙を堪えているのか、気を荒げた野良猫のように、ふーと息を整えた。
和泉は何があっても簡単に泣かない。昔からそういうやつだ。
「和泉さんに頼まれたんです。先輩を迎えに行ってほしいって。次はもうどこに行くか分からない。だけど、私じゃ無理だったって。先輩は、反省してください」
蓮見は、和泉に座るように促し、全員が座卓につくと、スマホ画面を俺に向けた。
「話をしましょう。これからのことを。先輩はまだ、音楽を辞めたことにはなっていません。無期限の活動休止中です」
「なんで?」
俺は和泉に向き直る。予想以上に冷たい声が出ていた。すんと息が細くなり、頭に血が上っていく。蓮見が居るのにも構わず、和泉に続ける。
「ちゃんと決めたよな?」
「嫌だから……」
「なにが?」
「二度と歌わなくてもいい。ギターだって捨てたらいい。でも、私は、坂下が音楽を辞めるのが嫌だから! 殴ればいいじゃん! 勝手なことをしたのは私なんだから!」
「はあ? 俺がいつお前を殴ったことがあんだよ!」
ばちん、と平手打ちが飛んできて、一瞬、視界が白くなる。俺がたった今、和泉にひっぱたかれた。変に冷静になる。和泉も知っているはずだ。簡単に決めたんじゃない。どんな気持ちで俺が覚悟をしたか。
「お前さあ、もうなんなの……」
「三年。無期限と言っても三年が限度」
「ちょっと待てって……。まず、叩いたのを謝って」
「一年だったら休んだ気にならないでしょ。三年休んだ後も辞めたかったら、私も一緒に音楽を辞める」
和泉と目が合い、久しぶりに顔を見た気がした。まともに顔さえ、見ていなかったのだ。
「音楽は記憶と結びつくの。私があの日の文化祭のステージを忘れないように。少し休んだって、私がどうにかしてみせる」
和泉も俺と同じ場所――戻れない青すぎた日々に、まだ居たのだと気付かされる目だ。悉くこの二人は、同じように俺を見上げる。
和泉は一息つき、続けて、ばちん! とさっきよりも大きく、乾いた音が部屋に響いた。和泉が自分で顔をひっぱたいた音だ。和泉の唇が切れて血が垂れるのを、俺はただ茫然と見ていた。
「マネージャー失格よ。もっと早くこうしておけばよかったの」
「和泉、血が……だめだろ、そんなことしたら」
不意に胃がぐっと上がってきて、吐きそうになる。
「ごめん坂下。こんなんじゃ足りないって分かってるけど……」
和泉は話し続けるが、頭の中が真っ白で話を理解する前にすり抜ける。
音楽なんて辞めるでも続けるでも、俺の覚悟も決意も些細なものだ。簡単にすこんと頭から飛びぬけていくのだから。本当に大切なものは片手に納まる数ほどだと思い知る。
「止血! 先輩、病院に連れて行きましょう」
蓮見の声にはっとして、我に返る。
「ちょっと黙れ、和泉」
「二人ともうるさい!」
和泉は狼狽している俺たちをキッと睨んだかと思えば、すぐに弱弱しく肩を落として小さくなる。混乱状態だった蓮見と俺は、同じように和泉の緩急に圧倒され、止血しようとして行き場のない手を宙に泳がせた。
「坂下が死ななくてよかった……」
和泉は小さく言うと、両手を大きく広げてぽてぽてと傍により、自分よりも大きい男二人を力強く抱きしめる。ありがとう、ありがとう蓮見、と繰り返した。そして、やっぱりむかつくと言って俺を見上げると、そのまま巴投げで俺を吹っ飛ばした。
「……これから何しよう」
転がされたまましばらく天井見つめ、ぽつりと口にした。床に打ち付けた腰が痛い。変に気が抜けて、盛大に腹が鳴る。
「三年……。料理、覚えたいかも」
「うちで働けばいいですよ」
「まじ?」
寝転がったまま、視線だけ蓮見に向ける。蓮見は何もなかったように、カレーを食べている。
「ふふ、良かったじゃない」
和泉も俺の隣で寝転がったまま、鈴を転がすように笑った。
「和泉さんも、先輩が優しいからって衝動的に武力行使しちゃだめですよ。二人の衝動的なところはそっくりすぎて呆れます」
「はい……。ごめん……」
「もっと怒られてろ」
和泉のむっとした顔が向けられているのが、見なくても分かる。蓮見の前では少しだけしおらしくなるようだ。これは得たりと、俺はここぞとばかり和泉に文句を垂れたのだが、蓮見が本気で俺を𠮟りつけてきて、一晩中、後悔する羽目になった。
俺と和泉の関係は、なにが狂っているかも分からないほど拗れていたのだが、恥ずかしくもこの一夜をきっかけに、持ち直したのは間違いない。

