「はあっ……はあっ……くっそ……この、バケモノが……!」
路地裏にて男が叫んでいる。叫びといっても所詮負け犬の遠吠えで、そんな小手先の御託では狼の興味を引くことはできなかった。
(腹減ったな)
つい先ほどまで拳を交わしていたというにも関わらず、狼はすでに別のことを考えていて、地面にのたうち回っている男などに用はない。塵を見るような目で一瞥し、体の向きを変え、足早にこの場を去ろうとした時だった。男が決死の思いで伸ばした腕が、狼の足首を掴んだのである。
「……勝った気に、なってるかもしんねえ、けどよ……まだ、終わってねえからな…………ボスが、お前のこと絶対に、殺す、から、調子乗ってん、じゃ、ねえぞ……」
「……あ゛?」
狼の額に青筋が立つ。踵を後ろに蹴り出す動作で腕を振り払うと、鋭い眼光を浴びせながらその場を立ち去った。ひどく空腹であったため、男が発した言葉の真相などは考えることもなく大通りに出た。
***
「一口よこせ」
「やだよ。狼くん口大きいから」
「いいからよこせ」
車道側を歩きながら、狼は泰兎の左腕を掴み、無理やり自分の口へと持っていく。放課後、寄り道をしてコンビニで買ったクレープは、味見をする間もなく、その半分が狼の体に入っていった。
「……僕のクレープ……」
宝物を守るように必死に、それでいて形が崩れることのないように、泰兎は丁寧に握りしめていた。その”宝物”の半分が一瞬にして姿を消してしまったのだから、泰兎は絶望と言い表すのに相応しいような顔をした。
狼はそんな泰兎の顔を見て、してやったり、とほくそ笑んだ。大好きな甘いものを取られたら、彼ならきっとそんな顔をするのだろう、と踏んだ上で、狼は行動に及んだ。いつも散々指導を受け間違いを指摘されているせめてものお返しだ、というのが言い分なのだが、それにしても食べすぎてしまったという自覚はある。自分の口のキャパシティを、狼はまだ認識していなかった。
(さすがに食い過ぎちまったか)
狼の体にだんだんと罪悪感が芽生えてくる。悪かった。俺が食っちまった分、このコンビニで一個買うから、寄ろうぜ。と告げようとした時だった。
「よお。この前は世話になったなあ、ロウくん?」
「……チッ」
声のする方を振り返り、狼は舌打ちをした。この前、一週間ほど前であったか。倒したはずの男が、ピンピンとして再び目の前に現れたからだ。口から覗ける金歯も、肩に軽く置かれた手も、確執や過去の出来事を軽視しているように感じて、狼は全てが気に入らなかった。風を切る音が聞こえるぐらいに勢いよく腕を後ろに回し、男の手を遠ざける。男はわざとらしくよろけて、二歩、三歩と後ろに下がって、ぴたりと止まった。そしてゲラゲラと声を出し、時折腹を押さえて、大袈裟すぎるほどに笑った。狼はその間絶えず不快で、この男に話しかけるのは癪であったが、それでもいつまでも向こうのペースに乗っていられない、と思い自ら言葉をかけた。
「いつまで笑ってんだよ」
男はひいひいと息を上げながら、興奮した様子で受け答えをした。
「いや、やっぱり強えなあロウくんは。肩触っただけなのに……フッ、ちょっと暴力的すぎんじゃねえかあ? 隣の子怯えてんじゃねえか、なあ? 怖かったよなあ?」
「は、はい?」
「おい。名前呼んでんじゃねえよ。タイト、お前は何も言うな」
この前と違いやけに生き生きとした男を見て、狼は悪態をつきつつも怪しんでいた。
(こいつ、何でこんなに余裕ぶってんだ? ……ああ、仲間でも引き連れてきたのか)
どこか腑に落ちた狼は、予定とは違う言葉を泰兎に投げつけた。
「タイト、悪いけど先帰っててくれ」
「えっ、え何で? この人は……知り合い、じゃなさそうだけど、だとしても何でよ」
「いいから。早く行け」
あまりにも勝手な対応に泰兎は困惑の表情を浮かべた。先ほどから狼に振り回されてばっかりで、なのに状況を説明してはくれない。少し迷うような動作も見せて、ふと、男にチラリと目を向けた。すると瞬く間に表情を変え、一目散に走り去っていった。刹那、何かを決心したようにも見えたが、狼は目の前の男をどうするかで頭がいっぱいで、行方を追ってなどいなかった。
「可哀想に。逃げられちゃったなあ、オトモダチにも?」
男は膝を曲げ狼を見上げるようにして軽口を叩いた。サングラスがずれ男と直接見つめ合う形になる。見ていられない、と狼は早々に目を逸らした。
「俺が行けって言ったんだよ。あいつは関係ねえ、俺とてめえの問題だ」
「おーおー、そうだなあ。かっこいいぜ。」
男は雑に相槌を打つ。適当に喋ってんじゃねえよとか、今の話にかっこいいも悪いもなかっただろとか、幾らでも返す言葉は浮かんだ。だが狼は何も返さなかった。これ以上、この男と話したくなかったからだ。限界をとうに超えていた。今すぐ走り出したいぐらいだった。
それでも、話しかけてきた以上何かしらの理由があるのだろう、とどうにか自分を押さえつけ、男に問うた。
「で、なんで来やがった。決着ならこの前つけただろうが」
「あれえ、オレこの前言ったんだけどなあ。次はボスがお前のこと殺しに行くぞって。……お礼だよ。前回オレをコテンパンにしてくれたお礼。ここじゃ目立ちすぎるから、ついてこい」
男は体勢を戻し、狼に指図した。おちゃらけてきたり、かと思えば深刻そうな声を出したり、至極気味が悪い男だ。狼は逆らうことも考えたが、物陰から新たに二人の男が出てきたことにより、諦めた。どれも相手するには物足りない風貌ではあったが、今居る場所だと男の言う通り、目立ちすぎてしまう。派手な暴力沙汰を引き起こす趣味は狼には無い。街中で見せつけるのなんて更にだ。ここは黙って従った方が得策だなと、そう思い着いて行った。
人気のない、カラスの鳴き声しか聞こえない、そんな道。大通りから一つ道を逸れるだけで、治安は百八十度変わる。建物に囲まれてるとはいえ、思いっきり殴ったとしても腕はぶつからないな。狼はそんなことを考えながら進んでいた。だがそうなるのも仕方がない、なんせ壁にもたれかかるようにして、十人程度の”危なそう”な男達がこちらを向いていたのだから。
「ボス。連れてきましたぜえ」
最奥へと辿り着き、気味の悪い言い方で男は狼を前に突き出す。ボスと呼ばれた、錆びたドラム缶に座り葉巻を咥える男と完全に目が合い、狼は覚悟を決めてその場に立ち止まった。
「この方が俺らのボス、隆さんだ。隆さん、こいつです。キョージンカイの一員って噂されてる、ユキオカロウです」
男は偉そうに隆という名を口にすると、わざとらしく隆の横へと歩み寄り、狼の情報を渡した。どこで知ったんだよ、と言いたかったが、埃っぽく煙たい空気に口を開く気にもならなかった。
「そうか。いい手柄だ」
隆は男を見据えて、そう素直に褒めた。
「う、うっす! 光栄です!」
「ああ、だがな」
そして絶賛舞い上がり中、といった具合の男に顔をぐいっと近づけ、
「やられてちゃ意味無えんだよ」
と言い放ち葉巻を男の手へと擦り付けた。
「うぅっ……! あ、あはは、ボス、やんちゃが過ぎますよ」「早く下がれ」
わずかに顔をしかめ、急いで取り繕うた笑みを浮かべる男を、隆は不愉快だと言わんばかりに離れさせる。男は頭をぼりぼりと掻きながら後退し、隆に背を向けた瞬間表情を変え、狼を睨みながら歩いていった。葉巻の煙がゆっくりと上昇する。
「よお。この前はうちのモンが世話になったな。礼をしに来たよ」
隆はニヤッと不敵な笑みを浮かべ、反対に狼は無表情を貫く。それだけで「なんだ? 俺が相手じゃ不満か?」と話は勝手に進んでいく。不満に思っている訳ではない。こんな奴らに表情を変えるという労力をかけることすら無駄であると、そう判断したからだ。
少しも変わらない狼を怯えていると勘違いしたのか、隆はさらにご機嫌な一人語りをし出した。
「ユキオカロウ、別に、お前自身に恨みがある訳じゃ無え。ただな、この地域は俺らが牛耳ってんだ。そう簡単に自由にさせる訳にいかねえんだよーー」
バキッ!!!
破裂のような音が鳴り響く。今までの音はすべて間髪入れずにコンクリートに吸収されていったというのに、この音だけはしばらくその場に残っていた。立ち尽くしている男たちと、右足を曲げ大きく角度をつけて後方に蹴り出す姿勢を保っている狼。左足でしかバランスを取れていないというのに、ピクリとも体を動かしていない。狼以外の誰も、この状況を理解できていなかった。
狼の頭上に降りかかろうとしていた金属バットを、狼本人が蹴り飛ばしたのだ。体の向きを変えずに。カラン、とサングラスの落ちる音が聞こえる。きっとすぐ後ろでは、ひしゃげたバットを握り唖然としている男がいるのだろう。狼はフッと鼻で笑い、
「下手すぎんだよ。あんな視線送っといて、よくバレねえと思ったな。素手で来なかったことだけは褒めてやる」
と潔く告げた。隆の顔が分かりやすく歪む。負けじとフンっと鼻を鳴らし、
「ちょっとはやり甲斐あるみてえだな。安心したよ。お前ら、やれ」
と淡々と指令を出した。男たちは束の間のフリーズから抜け出し、隆に応えるように、各々ナイフやらメリケンサックやらを順々に手にしていった。金属音が狼の鼓膜を刺激する。袋の鼠のように逃げ場がなくなった狼は、
(急にどっかから出てくる可能性もある、少なく見積もって一対十……メリケンサックは素手で止められるとして、ナイフの野郎を先に片付けるか)
と思考を巡らせ、自分がどう行動するか、相手がどう行動してくるかを探っていた。その時だった。
「う、うおりゃああああああ!!!!!」
という声とともに、鈍い音が鳴り響いた。あまりの突然さに狼は驚き、即座に音のした方を見る。壁に打ちつけられうめき声を出す男三人と、ヘルメットをしっかりと被り自転車に跨る泰兎がいた。
「……は?」
脳の情報処理が追いつかない。動揺を抑えられないまま、体が勝手に、泰兎の名を叫んでいた。
「タイト、おいタイト! 何してんだよ!」
「狼くん、耳塞いでてー!!」
問いかけも空しく、頓珍漢な答えに狼はさらに困惑した。訳のわからないまま、言われた通りに手で耳を覆う。それを見届けてから、泰兎は鞄から何かを取り出し、こちらに投げる動作をした。直後、激しい爆発音が路地裏を襲った。
パーン!!!! パーン!!! パーン!!
連続する音と沸き立つ煙に、爆竹か、と理解するより前に、泰兎の声が耳に入ってきた。
「狼くん!! 早く来て、乗って!!!」
言葉はそれだけだった。
従う必要はない。混沌としているこの状況では、真っ向勝負を仕掛けたとしても、きっと狼が勝つだろう。
だが狼は、そのようなことは考えなかった。泰兎の元へと無我夢中に向かって行ったのだ。
「行かせねえよ!」
と言いながら纏わりついてくる”残骸”を払って、とにかく走る。走る。自転車の荷台に腰をかけ、泰兎に出発を促す。
「出せ!!」
泰兎は頷き大きく足を回転させる。狼は身を任せつつも、時折後ろを振り返る。みるみるうちに路地裏は小さくなっていき、鬼のような形相をした隆はもう、見えなくなった。
***
「なんで砂浜なんだよ」
「いいじゃん。どこに行くかまでは決めてなかったんだよ」
二人は今、少し湿った砂の上に座っている。六月の空はどんよりとしていて、海との境目がわからない。暗く黒く、墨汁が三滴ほど垂れたような、そんな色合いだ。だから当然、彼らの他に人はいない。
「で、なんで来たんだ?先に帰ってろって言ったよな」
狼は追っ手が来ていないことを確認し、周りに人がいないことも確認してから、いつもより二割程度声を大きくして、泰兎に詰め寄った。
「あの人、狼くんに話しかけてた人。首に龍の刺青が入ってた。同じような刺青が入った人が逮捕されてるのを、この前テレビで見たんだ。詳しくは覚えてないけど、どこかの暴力団だった。だから狼くんが危ないと思って」
そんな狼に臆することなく、泰兎は堂々と主張した。
「もちろん、無茶をしたことは自分でも分かってる。あの爆竹だってまぐれだ、下手したら僕も襲われてたかもしれない。それでも、僕だけ先に帰るなんて、そんなこと出来る訳がない」
「理由になってねえよ。俺が聞いてんのはそこじゃなくて、何で来たのかってとこだ」
狼は一段と苛ついた様子で問い詰める。
「あいつらがやべえ奴らだってことは俺も気づいてたよ、だからタイトを先に帰らせたんだ。逃げれたかどうかは関係ねえ、何でのこのこと戻ってきたかって聞いてんだ」
「何でって……当たり前じゃん。友達が危ない目に遭ってて、助けない人間なんていないよ」
泰兎は目を潤ませながら、狼にしかと言い張った。何で分からないんだよ、と言いたげな顔で。
「僕が勉強を教える代わりに、狼くんは僕が強くなれるようサポートしてくれてる。どれだけ成長したのか見てほしかった、なんてそんな馬鹿なことは考えてない。僕だって、友達を守りたかった。大切にしたかったんだよ。……わかってよ」
泰兎の握りしめた拳が砂につく。汚れることも構わず、泰兎は何度も拳を砂に打ち付けた。
「ともだち」
狼がぽそっと言葉を口から出す。視線は泰兎を見据えたまま動かなかった。
泰兎はうん、と頷いただけで、そこから沈黙の時間が幾らか続いた。泰兎は最初こそ狼の言葉を待ち口を硬く結んでいたものの、あまりに何も発されないため、次第に自分が口を開くべきなのかと、葛藤している表情を見せた。
「……なんか言ってよ」
葛藤の後、泰兎は痺れを切らし、自ら言葉を発するとともに、狼の体を肩で軽く小突いた。狼は泰兎を”見つめているのに見えていない”ような様子で、
「俺とタイトって、友達だったんだな」
と、言った。それを聞いた泰兎はみるみるうちに表情を変えていった。怒り、悲しみ、呆れ、どの感情とも言い表せないような表情に。
「え……は、はあああ!? と、とっくにそうだったでしょ!? 狼くんは何だと思ってたの!? 」
「え、ああいや、まだそこまで仲良くねえだろとか、そういうことが言いたいんじゃねえよ。……ただ……友達って響き、すげえ新鮮だなと思って」
「新鮮?」
「今までつるんできた奴らは、友達っていうより仲間……いやそれも違えな。なんつうかこう、知り合い? 顔見知り? みてえな感じなんだよ。俺自身が友達って思ったこともねえし、向こうから友達って言われることもなかった。だから、変な反応しちまった」
「……」
「すまん」
「…………ふはっ」
至って真剣な会話の終着点は、泰兎の笑い声だった。意図的に出したというより、思わず出てしまった、と言うのが正しい声。長い沈黙の末に出したのが、それだった。
「慌てすぎだよ狼くん……僕怒ってないよ、びっくりはしたけどさ」
緊張の緩和により瞳に溜まっていた涙がついにこぼれ落ち、泰兎は指で目元を拭いながらケラケラと笑った。
「あーおかしい。せっかくさっきまでいい雰囲気だったのに、台無しになっちゃった」
まだ瞳が乾き切らないうちに、両手を後ろについて空を見上げながら泰兎は言った。諦めのような台詞であるのに、悲観さは感じず、むしろ明るく、清々しい言いっぷりであった。
「こんな所まで来ちゃったし。はああー、家まで帰るの大変だなあ。面倒だなあ」
泰兎は海をぼーっと見ながらそう言い、その後何かを思いついたような顔をして、勢いよく狼の方を見て、
「そうだ、せっかくここまで来たからさ、クレープ食べて帰らない?」
と言った。
「クレープ?」
意味がわからない、と狼は怪訝な表情をする。もう夕暮れに近いし、早く家に帰った方が良いんじゃねと言おうとしたが、
「そ。近くに人気の専門店あるんだけど、まだ一回も行ったことないんだ。誰かさんのせいでさっきはあんまり味わえなかったし?」
と言われてしまったものだから、何も言わずに頷くだけだった。
にひひっと泰兎は悪戯な笑みを浮かべ、そうと決まったなら、ほら早く行こ、と狼の手を引いて立ち上がる。狼はその手に導かれるようにして腰を上げ、二人して夕日の方へと歩き出した。ズボンについた砂が落ちる時、さらさらと音を立てた。
路地裏にて男が叫んでいる。叫びといっても所詮負け犬の遠吠えで、そんな小手先の御託では狼の興味を引くことはできなかった。
(腹減ったな)
つい先ほどまで拳を交わしていたというにも関わらず、狼はすでに別のことを考えていて、地面にのたうち回っている男などに用はない。塵を見るような目で一瞥し、体の向きを変え、足早にこの場を去ろうとした時だった。男が決死の思いで伸ばした腕が、狼の足首を掴んだのである。
「……勝った気に、なってるかもしんねえ、けどよ……まだ、終わってねえからな…………ボスが、お前のこと絶対に、殺す、から、調子乗ってん、じゃ、ねえぞ……」
「……あ゛?」
狼の額に青筋が立つ。踵を後ろに蹴り出す動作で腕を振り払うと、鋭い眼光を浴びせながらその場を立ち去った。ひどく空腹であったため、男が発した言葉の真相などは考えることもなく大通りに出た。
***
「一口よこせ」
「やだよ。狼くん口大きいから」
「いいからよこせ」
車道側を歩きながら、狼は泰兎の左腕を掴み、無理やり自分の口へと持っていく。放課後、寄り道をしてコンビニで買ったクレープは、味見をする間もなく、その半分が狼の体に入っていった。
「……僕のクレープ……」
宝物を守るように必死に、それでいて形が崩れることのないように、泰兎は丁寧に握りしめていた。その”宝物”の半分が一瞬にして姿を消してしまったのだから、泰兎は絶望と言い表すのに相応しいような顔をした。
狼はそんな泰兎の顔を見て、してやったり、とほくそ笑んだ。大好きな甘いものを取られたら、彼ならきっとそんな顔をするのだろう、と踏んだ上で、狼は行動に及んだ。いつも散々指導を受け間違いを指摘されているせめてものお返しだ、というのが言い分なのだが、それにしても食べすぎてしまったという自覚はある。自分の口のキャパシティを、狼はまだ認識していなかった。
(さすがに食い過ぎちまったか)
狼の体にだんだんと罪悪感が芽生えてくる。悪かった。俺が食っちまった分、このコンビニで一個買うから、寄ろうぜ。と告げようとした時だった。
「よお。この前は世話になったなあ、ロウくん?」
「……チッ」
声のする方を振り返り、狼は舌打ちをした。この前、一週間ほど前であったか。倒したはずの男が、ピンピンとして再び目の前に現れたからだ。口から覗ける金歯も、肩に軽く置かれた手も、確執や過去の出来事を軽視しているように感じて、狼は全てが気に入らなかった。風を切る音が聞こえるぐらいに勢いよく腕を後ろに回し、男の手を遠ざける。男はわざとらしくよろけて、二歩、三歩と後ろに下がって、ぴたりと止まった。そしてゲラゲラと声を出し、時折腹を押さえて、大袈裟すぎるほどに笑った。狼はその間絶えず不快で、この男に話しかけるのは癪であったが、それでもいつまでも向こうのペースに乗っていられない、と思い自ら言葉をかけた。
「いつまで笑ってんだよ」
男はひいひいと息を上げながら、興奮した様子で受け答えをした。
「いや、やっぱり強えなあロウくんは。肩触っただけなのに……フッ、ちょっと暴力的すぎんじゃねえかあ? 隣の子怯えてんじゃねえか、なあ? 怖かったよなあ?」
「は、はい?」
「おい。名前呼んでんじゃねえよ。タイト、お前は何も言うな」
この前と違いやけに生き生きとした男を見て、狼は悪態をつきつつも怪しんでいた。
(こいつ、何でこんなに余裕ぶってんだ? ……ああ、仲間でも引き連れてきたのか)
どこか腑に落ちた狼は、予定とは違う言葉を泰兎に投げつけた。
「タイト、悪いけど先帰っててくれ」
「えっ、え何で? この人は……知り合い、じゃなさそうだけど、だとしても何でよ」
「いいから。早く行け」
あまりにも勝手な対応に泰兎は困惑の表情を浮かべた。先ほどから狼に振り回されてばっかりで、なのに状況を説明してはくれない。少し迷うような動作も見せて、ふと、男にチラリと目を向けた。すると瞬く間に表情を変え、一目散に走り去っていった。刹那、何かを決心したようにも見えたが、狼は目の前の男をどうするかで頭がいっぱいで、行方を追ってなどいなかった。
「可哀想に。逃げられちゃったなあ、オトモダチにも?」
男は膝を曲げ狼を見上げるようにして軽口を叩いた。サングラスがずれ男と直接見つめ合う形になる。見ていられない、と狼は早々に目を逸らした。
「俺が行けって言ったんだよ。あいつは関係ねえ、俺とてめえの問題だ」
「おーおー、そうだなあ。かっこいいぜ。」
男は雑に相槌を打つ。適当に喋ってんじゃねえよとか、今の話にかっこいいも悪いもなかっただろとか、幾らでも返す言葉は浮かんだ。だが狼は何も返さなかった。これ以上、この男と話したくなかったからだ。限界をとうに超えていた。今すぐ走り出したいぐらいだった。
それでも、話しかけてきた以上何かしらの理由があるのだろう、とどうにか自分を押さえつけ、男に問うた。
「で、なんで来やがった。決着ならこの前つけただろうが」
「あれえ、オレこの前言ったんだけどなあ。次はボスがお前のこと殺しに行くぞって。……お礼だよ。前回オレをコテンパンにしてくれたお礼。ここじゃ目立ちすぎるから、ついてこい」
男は体勢を戻し、狼に指図した。おちゃらけてきたり、かと思えば深刻そうな声を出したり、至極気味が悪い男だ。狼は逆らうことも考えたが、物陰から新たに二人の男が出てきたことにより、諦めた。どれも相手するには物足りない風貌ではあったが、今居る場所だと男の言う通り、目立ちすぎてしまう。派手な暴力沙汰を引き起こす趣味は狼には無い。街中で見せつけるのなんて更にだ。ここは黙って従った方が得策だなと、そう思い着いて行った。
人気のない、カラスの鳴き声しか聞こえない、そんな道。大通りから一つ道を逸れるだけで、治安は百八十度変わる。建物に囲まれてるとはいえ、思いっきり殴ったとしても腕はぶつからないな。狼はそんなことを考えながら進んでいた。だがそうなるのも仕方がない、なんせ壁にもたれかかるようにして、十人程度の”危なそう”な男達がこちらを向いていたのだから。
「ボス。連れてきましたぜえ」
最奥へと辿り着き、気味の悪い言い方で男は狼を前に突き出す。ボスと呼ばれた、錆びたドラム缶に座り葉巻を咥える男と完全に目が合い、狼は覚悟を決めてその場に立ち止まった。
「この方が俺らのボス、隆さんだ。隆さん、こいつです。キョージンカイの一員って噂されてる、ユキオカロウです」
男は偉そうに隆という名を口にすると、わざとらしく隆の横へと歩み寄り、狼の情報を渡した。どこで知ったんだよ、と言いたかったが、埃っぽく煙たい空気に口を開く気にもならなかった。
「そうか。いい手柄だ」
隆は男を見据えて、そう素直に褒めた。
「う、うっす! 光栄です!」
「ああ、だがな」
そして絶賛舞い上がり中、といった具合の男に顔をぐいっと近づけ、
「やられてちゃ意味無えんだよ」
と言い放ち葉巻を男の手へと擦り付けた。
「うぅっ……! あ、あはは、ボス、やんちゃが過ぎますよ」「早く下がれ」
わずかに顔をしかめ、急いで取り繕うた笑みを浮かべる男を、隆は不愉快だと言わんばかりに離れさせる。男は頭をぼりぼりと掻きながら後退し、隆に背を向けた瞬間表情を変え、狼を睨みながら歩いていった。葉巻の煙がゆっくりと上昇する。
「よお。この前はうちのモンが世話になったな。礼をしに来たよ」
隆はニヤッと不敵な笑みを浮かべ、反対に狼は無表情を貫く。それだけで「なんだ? 俺が相手じゃ不満か?」と話は勝手に進んでいく。不満に思っている訳ではない。こんな奴らに表情を変えるという労力をかけることすら無駄であると、そう判断したからだ。
少しも変わらない狼を怯えていると勘違いしたのか、隆はさらにご機嫌な一人語りをし出した。
「ユキオカロウ、別に、お前自身に恨みがある訳じゃ無え。ただな、この地域は俺らが牛耳ってんだ。そう簡単に自由にさせる訳にいかねえんだよーー」
バキッ!!!
破裂のような音が鳴り響く。今までの音はすべて間髪入れずにコンクリートに吸収されていったというのに、この音だけはしばらくその場に残っていた。立ち尽くしている男たちと、右足を曲げ大きく角度をつけて後方に蹴り出す姿勢を保っている狼。左足でしかバランスを取れていないというのに、ピクリとも体を動かしていない。狼以外の誰も、この状況を理解できていなかった。
狼の頭上に降りかかろうとしていた金属バットを、狼本人が蹴り飛ばしたのだ。体の向きを変えずに。カラン、とサングラスの落ちる音が聞こえる。きっとすぐ後ろでは、ひしゃげたバットを握り唖然としている男がいるのだろう。狼はフッと鼻で笑い、
「下手すぎんだよ。あんな視線送っといて、よくバレねえと思ったな。素手で来なかったことだけは褒めてやる」
と潔く告げた。隆の顔が分かりやすく歪む。負けじとフンっと鼻を鳴らし、
「ちょっとはやり甲斐あるみてえだな。安心したよ。お前ら、やれ」
と淡々と指令を出した。男たちは束の間のフリーズから抜け出し、隆に応えるように、各々ナイフやらメリケンサックやらを順々に手にしていった。金属音が狼の鼓膜を刺激する。袋の鼠のように逃げ場がなくなった狼は、
(急にどっかから出てくる可能性もある、少なく見積もって一対十……メリケンサックは素手で止められるとして、ナイフの野郎を先に片付けるか)
と思考を巡らせ、自分がどう行動するか、相手がどう行動してくるかを探っていた。その時だった。
「う、うおりゃああああああ!!!!!」
という声とともに、鈍い音が鳴り響いた。あまりの突然さに狼は驚き、即座に音のした方を見る。壁に打ちつけられうめき声を出す男三人と、ヘルメットをしっかりと被り自転車に跨る泰兎がいた。
「……は?」
脳の情報処理が追いつかない。動揺を抑えられないまま、体が勝手に、泰兎の名を叫んでいた。
「タイト、おいタイト! 何してんだよ!」
「狼くん、耳塞いでてー!!」
問いかけも空しく、頓珍漢な答えに狼はさらに困惑した。訳のわからないまま、言われた通りに手で耳を覆う。それを見届けてから、泰兎は鞄から何かを取り出し、こちらに投げる動作をした。直後、激しい爆発音が路地裏を襲った。
パーン!!!! パーン!!! パーン!!
連続する音と沸き立つ煙に、爆竹か、と理解するより前に、泰兎の声が耳に入ってきた。
「狼くん!! 早く来て、乗って!!!」
言葉はそれだけだった。
従う必要はない。混沌としているこの状況では、真っ向勝負を仕掛けたとしても、きっと狼が勝つだろう。
だが狼は、そのようなことは考えなかった。泰兎の元へと無我夢中に向かって行ったのだ。
「行かせねえよ!」
と言いながら纏わりついてくる”残骸”を払って、とにかく走る。走る。自転車の荷台に腰をかけ、泰兎に出発を促す。
「出せ!!」
泰兎は頷き大きく足を回転させる。狼は身を任せつつも、時折後ろを振り返る。みるみるうちに路地裏は小さくなっていき、鬼のような形相をした隆はもう、見えなくなった。
***
「なんで砂浜なんだよ」
「いいじゃん。どこに行くかまでは決めてなかったんだよ」
二人は今、少し湿った砂の上に座っている。六月の空はどんよりとしていて、海との境目がわからない。暗く黒く、墨汁が三滴ほど垂れたような、そんな色合いだ。だから当然、彼らの他に人はいない。
「で、なんで来たんだ?先に帰ってろって言ったよな」
狼は追っ手が来ていないことを確認し、周りに人がいないことも確認してから、いつもより二割程度声を大きくして、泰兎に詰め寄った。
「あの人、狼くんに話しかけてた人。首に龍の刺青が入ってた。同じような刺青が入った人が逮捕されてるのを、この前テレビで見たんだ。詳しくは覚えてないけど、どこかの暴力団だった。だから狼くんが危ないと思って」
そんな狼に臆することなく、泰兎は堂々と主張した。
「もちろん、無茶をしたことは自分でも分かってる。あの爆竹だってまぐれだ、下手したら僕も襲われてたかもしれない。それでも、僕だけ先に帰るなんて、そんなこと出来る訳がない」
「理由になってねえよ。俺が聞いてんのはそこじゃなくて、何で来たのかってとこだ」
狼は一段と苛ついた様子で問い詰める。
「あいつらがやべえ奴らだってことは俺も気づいてたよ、だからタイトを先に帰らせたんだ。逃げれたかどうかは関係ねえ、何でのこのこと戻ってきたかって聞いてんだ」
「何でって……当たり前じゃん。友達が危ない目に遭ってて、助けない人間なんていないよ」
泰兎は目を潤ませながら、狼にしかと言い張った。何で分からないんだよ、と言いたげな顔で。
「僕が勉強を教える代わりに、狼くんは僕が強くなれるようサポートしてくれてる。どれだけ成長したのか見てほしかった、なんてそんな馬鹿なことは考えてない。僕だって、友達を守りたかった。大切にしたかったんだよ。……わかってよ」
泰兎の握りしめた拳が砂につく。汚れることも構わず、泰兎は何度も拳を砂に打ち付けた。
「ともだち」
狼がぽそっと言葉を口から出す。視線は泰兎を見据えたまま動かなかった。
泰兎はうん、と頷いただけで、そこから沈黙の時間が幾らか続いた。泰兎は最初こそ狼の言葉を待ち口を硬く結んでいたものの、あまりに何も発されないため、次第に自分が口を開くべきなのかと、葛藤している表情を見せた。
「……なんか言ってよ」
葛藤の後、泰兎は痺れを切らし、自ら言葉を発するとともに、狼の体を肩で軽く小突いた。狼は泰兎を”見つめているのに見えていない”ような様子で、
「俺とタイトって、友達だったんだな」
と、言った。それを聞いた泰兎はみるみるうちに表情を変えていった。怒り、悲しみ、呆れ、どの感情とも言い表せないような表情に。
「え……は、はあああ!? と、とっくにそうだったでしょ!? 狼くんは何だと思ってたの!? 」
「え、ああいや、まだそこまで仲良くねえだろとか、そういうことが言いたいんじゃねえよ。……ただ……友達って響き、すげえ新鮮だなと思って」
「新鮮?」
「今までつるんできた奴らは、友達っていうより仲間……いやそれも違えな。なんつうかこう、知り合い? 顔見知り? みてえな感じなんだよ。俺自身が友達って思ったこともねえし、向こうから友達って言われることもなかった。だから、変な反応しちまった」
「……」
「すまん」
「…………ふはっ」
至って真剣な会話の終着点は、泰兎の笑い声だった。意図的に出したというより、思わず出てしまった、と言うのが正しい声。長い沈黙の末に出したのが、それだった。
「慌てすぎだよ狼くん……僕怒ってないよ、びっくりはしたけどさ」
緊張の緩和により瞳に溜まっていた涙がついにこぼれ落ち、泰兎は指で目元を拭いながらケラケラと笑った。
「あーおかしい。せっかくさっきまでいい雰囲気だったのに、台無しになっちゃった」
まだ瞳が乾き切らないうちに、両手を後ろについて空を見上げながら泰兎は言った。諦めのような台詞であるのに、悲観さは感じず、むしろ明るく、清々しい言いっぷりであった。
「こんな所まで来ちゃったし。はああー、家まで帰るの大変だなあ。面倒だなあ」
泰兎は海をぼーっと見ながらそう言い、その後何かを思いついたような顔をして、勢いよく狼の方を見て、
「そうだ、せっかくここまで来たからさ、クレープ食べて帰らない?」
と言った。
「クレープ?」
意味がわからない、と狼は怪訝な表情をする。もう夕暮れに近いし、早く家に帰った方が良いんじゃねと言おうとしたが、
「そ。近くに人気の専門店あるんだけど、まだ一回も行ったことないんだ。誰かさんのせいでさっきはあんまり味わえなかったし?」
と言われてしまったものだから、何も言わずに頷くだけだった。
にひひっと泰兎は悪戯な笑みを浮かべ、そうと決まったなら、ほら早く行こ、と狼の手を引いて立ち上がる。狼はその手に導かれるようにして腰を上げ、二人して夕日の方へと歩き出した。ズボンについた砂が落ちる時、さらさらと音を立てた。
