「おじゃましまーす……」
「言わなくていいぜ誰もいないから。適当にそこの机んとこ座っててくれ。あ、洗面所はあっちな」
「あ、ああうん。ありがと」
やけに高そうなハンドソープで手を洗いふわふわなタオルで水を拭き取る。長い廊下を歩く間、蜂蜜の香りが泰兎を包んでいた。
(……すごい所に、来ちゃったな)
狼の突飛な提案を受け入れ、泰兎は今日彼が住まう部屋へとやってきた。そこが日本有数の高級タワーマンションであることも知らずに。教室の窓から高いなあ、なんてぼんやりと眺めていた場所に、まさか自分が行くとは思いもしなかった。吹き抜けのエントランスホールを通る時も、意識が遠くなるほどに長いエレベーターの乗車時間中も、泰兎の顔は終始引き攣っていた。狼はあとどれぐらいの隠し球を持っているのだろうか、そう考えると泰兎は恐ろしささえ感じた。
(うちでやろうか、なんて言わなくて本当に良かった……!)
引け目を感じながら重たい足取りでリビングに着く。すると、狼は左腕にお盆を抱え、優しく膝を曲げながらおもむろにティーカップをローテーブルへ置いていた。
「え! いいよお茶なんて、ご馳走してもらいたくて来た訳じゃないから」
カップに描かれている鮮やかな薔薇を見て、泰兎は慌てて断りを入れた。
「気にすんな、割ってもベンショウしろなんて言わねえよ」
「いや、そういう問題じゃなくて」
「いいから気にすんな。俺がノド渇いたからついでに入れただけだ」
「えぇ……」
このまま話し続けても埒が明かないと思い、泰兎は渋々受け入れ腰を下ろした。琥珀色に輝く液体は見るだけで気後れしてしまいそうだ。よほど喉が渇かない限り口に含まない、と泰兎は心の中で強く決心した。
「で、ベンキョウするんだよな、今日は」
「そ、そうだよ。本来の目的はそれだから。嫌かもしれないけど、今日やるかやらないかで結果が変わってくるからね! 一緒に頑張ろう」
「あいよ。カクゴは決まってるからな、今さら嫌とは言わねえぜ」
少し空回り気味の泰兎に、狼は腕を伸ばしながらいつもの様子で軽く返事をした。それなら早速、と泰兎は鞄を開き、詰め込んできた教科書の山を机にドンと置く。一番上にあった英語を手に取り、付箋が貼ってある箇所までページを捲った。
「よし、まずは英語からやろう。狼くん苦手だもんね。」
「違う国の言語を学ぶ意味が無えからな」
「英語嫌いの人のテンプレみたいなこと言わないで。英語を知る目的はないかもしれないけど、今の狼くんは中間試験で良い点数を取ることが目的でしょ? だったらやらなきゃ」
それっぽい理屈を並べながらルーズリーフを狼の前に置き、筆箱のファスナーに手をかける。いつもより多めにペンを仕込んだため、開けるのに少し手間取った。泰兎はクルトガを、狼はドクターグリップをそれぞれ手に取る。カチカチというノック音は始まりの合図だ。居間にはしばらく、シャーペンが紙を擦る音だけが響いた。
「……そうそう、この文の主語は人だから、関係代名詞はwhoになる。なんだけど、この場合主節が過去形になってるから、時制の一致で関係代名詞節も過去形にしなきゃいけないんだよね。だから、isじゃなくてwas」
「すまん、もう一回言ってくれ」
「うん、いいよ。ここの、最初のかたまりが過去形でしょ?ほら、動詞がseeじゃなくてsawになってる。こういう時は……」
思っていた以上に、すごく、順調に進んでいる。泰兎は心の中でそう思っていた。
正直、俺の家でやろうぜ、と言われた時、泰兎は疑っていた。狼のことは”信頼”はすごくしているが、”信用"はまだしきれていなかったからだ。
狼は優しい。それが泰兎の認識だ。覆ることはない。が、まだ知らない一面がたくさんあるのではないか、と泰兎は思っている。彼はどこか危なさというか、危険な空気を纏っているのだ。情けない話だが、泰兎は狼に会う時、今日こそは一発もらうかもしれない、なんてことを考えてしまっている。
それに、赤点を回避したい、という彼の思いに報いるように、かなりスパルタな指導をしているという自覚が泰兎にはある。玄関に足を踏み入れた瞬間、後ろから首に腕を回されたりしないだろうか、などという過剰な妄想により、昨日の夜は寝付くまでに時間がかかった。教える側が睡眠不足だなんて聞いたことがない、と自分に呆れてる間にも、瞼は下がっていく。
「……い、おい。どうすんだよこういう時は」
狼の声に泰兎はハッと我に返る。
「あ、ああ、ごめん。ボーッとしてた」
「珍しいな。タイトがそうなるなんて」
「ああ……ちょっと、睡眠不足なだけ。体調悪い訳じゃないから、全然。大丈夫だよ」
「さっきから水分取ってねえだろ。俺が入れたやつ飲めよ。ダージリンだぞ?」
「そ、そうだね……」
言われてみれば、頭が少しクラクラとする。時計を見ると、長針はすでに二周していた。
「こんな高そうなの飲んだことないからさ、ちょっと気後れしちゃってたっていうか……怖かっ、た?っていうか」
「高くねえよ別に。ふつうにスーパーで買ったやつだぜ」
「あっ……そうなんだ」
喋れば喋るほど墓穴を掘っていくように感じて、泰兎は居た堪れなくなった。そして、これらの感情を全て見透かしているような狼の目を、途端に見れなくなった。
「……前から思ってたことで、他意がある訳でも弱みを握りたい訳でも無えただの質問なんだけどよ」
珍しく丁寧に前置きをし、狼は”質問”をした。
「タイトの家って、貧乏なのか?」
「……!」
心臓がドクンと脈を打つ。心拍数が上がっていることを自分自身も感じる。血流は速くなっているはずなのに、頭からは血がどんどんと抜けていく。焦りと恐怖で、泰兎の体は静かに悲鳴をあげていた。
「いや、言い方が悪かったな、今のは。…………あああダメだ、何て言えばいいのかが分かんねえ。くっそ、マナーの本とかちゃんと読んどけば良かったぜ」
「……うん。そうだよ」
泰兎は素直に事実を告げた。嘘をついたり、はぐらかしたりしても良かったのだが、狼の態度から、茶化そうとしている訳ではないことが感じ取れて、それだけが理由になった。本当のことを言っても、きっと真摯に聞いて、受け止めてくれるだろう。と、感じたのである。
「ちょっと、うちは家族関係が複雑でね。話すと長くなるんだけど、いいかな?」
狼は頷いた。何も言葉にしないその様子が、泰兎の背中を後押しした。
「えっと……何から話せばいいか迷うんだけど。まず、今の白崎家は、お父さん、僕、弟、で成り立ってるんだ。上にお姉ちゃんとお兄ちゃんもいるんだけど、歳が離れてて、成人してるから、近くのマンションでそれぞれ一人暮らししてる」
「へえ。兄弟多いんだな」
「そうだね……そうなんだけど、まずここに複雑さがあって。上二人と下二人、つまり成人組と未成年組…は、血が繋がってないんだ」
変な言い回しをしてしまい、顔が赤くなるのを感じる。狼をちらっと盗み見ると、まったく気にしていない顔で真剣に泰兎の話を聞いていた。
「父親が三十の時に母親と結婚して、上二人はその時の連れ子で。その後にすぐ僕が生まれて、小さい時は可愛がってもらえたんだけど、弟が生まれてからそっちばっかり構うようになって。でも別に、寂しくはなかったんだ。お父さんも、お兄ちゃんもお姉ちゃんも、僕を相手してくれて、遊んでくれたから」
「なんで変わってったんだ?タイトは嫌われるような性格じゃねえだろ」
「あ…ありがとう。うーん……本人からは何も聞かされてないから、あくまで僕の推測なんだけど。弟は、スポーツとか、芸術とか、そういうのにすごく才能があるんだ。サッカーを習ってるんだけど、毎試合ゴールを決めちゃうぐらい、すごい活躍してたり。図工の授業で描いた絵が、コンクールで金賞を取ったり。ほんとに、すごいんだ。それに対して、僕は勉強以外は取り立てて何ができる訳でもなくて。まあ、可愛がられないのも納得……っていうか」
「違えだろ」
やんわりと滞っていた空気が、狼の一声によってピシャンと引き締まる。
「良くねえのはタイトじゃなくて、タイトの頑張りを見てなかった母親だろうが。俺が言うことでもねえけど、人にはそれぞれ得意なもん苦手なもんがあんだから、それを踏まえた上で向き合わなきゃいけねえ。それに、子どもの時なんか何したっていいんだよ。親は褒めるためだけにいる。俺はずっとそう思ってる。その女には悪いけど、子どもを褒めねえ時点で親失格だな」
「……っ」
狼の言葉は、心の奥深くまで、入ってきた。深海に垂れる一筋の光のように、真っ直ぐで、眩しいほどに明るい。泰兎の張り詰めた心は、思わぬ形で溶けていった。
「……ふっ……ふふっ……ふふふ」
「? 何笑ってんだよ」
「い、いや、狼くんは僕の母親を見たことないのに、すごい悪口言うじゃんと思って……ふふっ」
「……いいだろ別に。腹立ったんだよ。……気ぃ悪くしたんなら、悪かった」
「大丈夫、謝んないで。僕も、同じことを思ってはいたけど、何だかんだ血が繋がってるし、僕のことを産んでくれた訳だし。あんまり、大きな声で言えなくて。だから、狼くんがはっきり言ってくれて、すごいスッキリした。ありがとう。…あともう少し、話し続けてもいい?」
「おう」
笑みが溢れたことにより自然と緊張から解き放たれ、安心感を抱き、泰兎は気が楽になった状態で話すことができた。
「狼くんの言うとおり、人にはそれぞれ得意不得意がある、それを理解してるお父さんとお姉ちゃんお兄ちゃんは、たくさん褒めてくれたんだ。でも、それでも穴が完全に埋まることはなくて。……母親は、頭がそんなに良くない人なんだ。普段の言動とか、行動から伝わってくる感じ。だから、勉強をする理由、とか、意味みたいなものが、分からなかったんだと思う。……僕の努力が、あの人には伝わらなかったってこと。悲しいけど、言葉にすると、それだけ、になっちゃうんだよね」
重苦しい話をしているという自覚はある。それなのに、不思議とさっきよりも心は随分軽くなっていた。
「それで、狼くんの質問に対してなんだけど。うちはすごい貧乏、ってほどではないんだ。片親ではあるけど……ああ、えっと……最初の、家族構成の時点で察してると思うけど、両親は離婚したんだ。ちょうど去年の今ぐらいにね。原因は母親の浮気で、ある日学校から帰ったら、母親の荷物が全部無くなってたんだ。やたら露出度が高いワンピースとか、愛用してた香水とかも、全部。リビングの机に『別れてください』とだけ書かれた紙が置いてあって、帰ってそれを見たお姉ちゃんお兄ちゃんは激怒してたよ。まだ弟たちが小さいのに、って。僕もう高校生なんだけどね」
あの時の状況を思い出して、泰兎は微笑んだ。狼も頬杖をつきながら、口角を少し上げていた。
「お父さんはうっすら気づいていたと思う。でもどうする術もなかったし、百パーセント子どもの方が大事って言ってくれたから、そのまま一緒に暮らしてる。お姉ちゃんはもう社会人として働いてて、お兄ちゃんもその年に新卒だったから、一緒には暮らしてないよ。でも、心配だって言って、お金を入れてくれてるんだ。ありがたいけど、僕はそれがすごく申し訳なくて、いつか仕送りしなくても大丈夫だよって言えるように、この学校に特待生として入ったんだ。学費かからないからね。少しでも浮かせたくて。だから……結論、貧乏か貧乏じゃないかって言ったら貧乏ではない……けど、気持ち的には?貧乏……です。い、以上、です」
曖昧な終わり方を泰兎は悔やんだ。自分がもっとうまく喋れていたら、こんな空気を狼に味わわせることがなかったのに、と。
無論、そんな心配は不要だった。
「うわ、じゃあ俺はタイトに勉強教わってて正解だったな」
「……え?」
「だってそうだろ。タイトは勉強できない人が嫌いで、俺は元々できなかった。そのまま関わらずにいたら、タイトの中で俺は”嫌い”に分類されてたってことだろ?」
「いや、ちょっと待って。そんな、勉強できない人は嫌いですなんて、一言も言ってないよ。それに、話した内容ともちょっとずれてるし……」
「言ってるようなもんだろ。実際母親とかいう女はそれでタイトを理解できずに嫌われてる訳だからよ。あながち間違ってないと思うぜ。だからタイトに言って良かったってことだ」
「そう、なのかも」
引っかかる所が多々あるものの、妙に納得してしまった節もあり、泰兎は狼の指摘を飲み込むことにした。
「そんで、その後の話については、俺はなんも言わねえ。俺から聞きはしたけど、貧乏か裕福かなんてどうでもいいし、エピソードとしてタイトの話はすげえ面白かった。ファニーじゃなくて、イン、インタレスティング、ってやつ。それだ」
狼は満足した様子で、勢い良く「よし」と続けて声を発した。
「今度は俺の番だな」
「お、俺の番? 何が?」
「何って、タイトが腹割ってくれただろ。俺も自分のこと全然話してねえからよ、この機会に話しちまおうと思って」
「そ、そんな……」
そんな軽い気持ちで話していいのか。泰兎は強くそう思った。が、狼のことだ。話したい気分なのだろうと、泰兎はもはや察することを放棄し、彼がしてくれたように、自分も真剣に聞く姿勢を取った。
「俺は、タイトと逆で兄弟は一人もいねえ。親はどっちも医者ですげえ頭いい。生まれた時から、俺は医者の道に進むことを決定づけられてた。でも、俺は勉強ができなかった」
淡々と話し始める狼。その語り方に、泰兎は意識せずとも夢中になっていた。
「俺が六つの時、母親が妊娠した。男だろうと女だろうと、やっとこの役立たずから目を逸らすことができる、やっと思い思いに教育をすることができる、って両親は泣いて喜んでた。その時に思ったよ、ああ、この人たちは涙を流すことができたんだ、って。俺がその場にいるのに平気でそんなこと言うんだぜ?クソ野郎、ってなんべんも思ったけど、まあこれで解放されるならいいかって思ったから、黙ってた。でも、生まれてこなかった」
「えっ……」
「流産だったんだ。母親は妊娠が分かってからは家にいたけど、ずっと仕事をしてた。眠ってるとこなんか見たこともなかった。それだけじゃねえけど、その生活習慣が少なからず関係していますって医師が話して、親父はすげえ怒った。お前のせいで希望が消えたんだぞとか何とか、とにかく色んなことを言ってた。……あんまり覚えてねえ」
「そ……そうだったん……だ」
「母親はずっと立ち直れてなかった。親父はすぐに復帰したけど、前みたいに、俺を厳しく躾けることは無くなった。朝早くに家を出たり、日付が変わる頃に帰ってきたり、顔を合わせたくないんだなって俺でも察しちまうぐらい、とにかく俺のことを避けてた。勉強しなくて良くなって、最初はすげえ嬉しかったけど、だんだん、孤独を感じるようになった」
「……」
泰兎は何も言えなかった。何を言ったところで、彼が抱えてきた苦しみ、悲しみを取り去ることはできないと、そう感じていた。彼は僕の葛藤を一瞬で晴れさせることを言ってくれたのに、僕は何も出来ないのか。と、自分自身を憎みさえした。
「中学に入ってからだな、今みたいになったのは。小学校の時はまだ怖さが残ってて、一応大人しくしてた。でも、そうするのも無駄だって気づいてからは、自分の好きなように暴れまくった。そしたら、当たり前だけど、嫌な顔はされた。六年間どれだけ頑張っても顔さえ見せなかったのに、試験で赤点を取ったって知ったらすぐに飛び込んできて、思いっきり殴られたんだ。だからそこで初めて、親父に暴力を振るった。当たり前に俺の方が強かったから、ついヤケになって、馬乗りになって何発も殴った。そこからはもう何もねえ。高校に入ったと同時に親父が持ってるマンションに住み始めた。自立したとかじゃなくて、ただ単に追い出されただけだ。それがここ。以上。なんか質問は?」
「うあ、え、えっと」
唐突に迎えた最後に、泰兎は反応が遅れた。何を喋るにも気が引けて、気の利いたことは一つも言えそうになかった。それでも、何もないとは言いたくなかった。考えられるだけ考えて、苦渋の思いでどうにか、絞り出した。
「えっと、じゃあ、嫌だったら答えなくて全然良いんだけど……その、生活って、どうしてたの?」
「生活?」
「いやあの、ほら、お父さんもお母さんも、こう、あまり子育てをしてないような感じがしたから。ご飯を作ったりとか、掃除洗濯とか、そういうのは誰がやってたのかなーって。それに、今一人暮らしをしてるってことは、そういうのは全部、自分でやってるってことでしょ?すごいなあと思って」
「……ああ」
突飛な問いに、狼はどこか合点がいったような顔をした。
「たしかに気になるよな。親が家政婦を雇ってたから、基本的にその人が飯を作ってくれてたよ。他の家事もほとんどその人だ。ていっても出来立てのものを食べるとか、そんな家族っぽいことはしてねえ。家に帰ったらラップが掛かった皿が置いてあって、それを温めて食べる、の繰り返しだ。顔すら見たことねえ。たぶん、あのクソ親父が何か言ってたんだと思うぜ」
「そっ、か……そうなんだ」
「それと、確かに俺は今一人で暮らしてるけど、週に一回家事代行の人を呼んで、その人に全部やってもらってるし、飯は基本デリバリーで頼んでる。なんもすごくねえよ」
狼はそう言いながら絨毯を見つめる。その顔は心なしか憂いを帯びていて、何かを諦めているようで、今までとは全く違う印象を泰兎に与えた。泰兎はどうにか、彼を元気づけられるような言葉をかけようと、回らない頭を必死に働かせた。
「す、すごいよ! 狼くんはすごい!」
いきなり大声を出した泰兎に気圧されて、狼は少し目を丸くした。だがすぐに戻り、再び絨毯を見つめる。
「……いやだから、そんなことねえんだって「かっこいい!」
泰兎は声を張り上げた。少しでも狼の気持ちを軽くしたい、その一心だった。
「親とか周りの人に甘えずに、自分の力で何とかしてるところがかっこいい! 自分の好きをとことん貫いてるところがかっこいい! それで周りを従わせちゃうような、圧倒的カリスマ性がかっこいい! 何か思い立ったら悩まずに、すぐに行動できるところがかっこいい! 常に覚悟を持って臨んでるその姿勢がかっこいい! 足が長くてかっこいい!」
「……」
「今日まで、三週間、ぐらい? 過ごしてきて、感じた狼くんのかっこいいところを、言ってみました!」
「お、おう」
「僕なんかに言われたくないだろうけど、狼くんはたまに自分のことを卑下する時があります! 僕はそれがすごく勿体無いと思う、だから褒めました!」
「あ、あんがとよ」
ムンッと鼻息を荒くする泰兎に、困惑しつつも狼は礼を伝える。いつもとは異なる二人の距離に、泰兎はいささか趣を感じ、自然と口角が上がった。不意に、頭がぐらりと揺れる。鈍器で殴られたかのような、鈍い衝撃が泰兎を襲う。自分の意思では体を操作できず、泰兎は微笑みながら、ゆっくりと後ろに倒れていった。狼の必死な呼びかけが届いたかは定かではない。最後に眼が映したものは、染み一つない綺麗な天井であった。
「ん……んん……」
唸りのような低い声を出して、泰兎は目を覚ました。光に慣れようと瞼が瞬きを繰り返す。曖昧な意識のまま泰兎は頭を右に回し、窓の外を見やった。
「……ん? えっええっ!?」
泰兎は豆鉄砲を食った鳩のように、大きく目を見開いた。そうなるのも仕方がなかった、空はすでに橙色になっており、遠くの方は藍がかっていた。日暮れが近づいているということは寝起きでも分かった。
「お、やっと起きたか」
狼は呑気に声をかけ、泰兎の元へと近づいた。泰兎はそんな拍子の狼に、ひどく申し訳なさを感じた。自分ばっかり迷惑をかけているような、そんな気がしていた。
「っごめん、僕すごい寝ちゃってた、ほんとごめん」
謝ったところで状況が良くなる訳でもないが、泰兎はとにかく必死に謝罪をした。そんな泰兎を狼は聞こえていないかのように受け流し、机にカップを置いた。一つ消えていると気づいたのはその後だった。
「ほら。結局飲まなかっただろ、冷めてたから温めてきたぜ。ちゃんと飲め」
「あ、ああ、うん。いただきます」
カップから立ち上る湯気が、狼の声によってゆらりと揺れる。意固地になっていた分を取り返さないと、と泰兎は一息で飲み干した。喉を通る瞬間、これまでに感じたことのないような充足感が体を駆け巡った。
「……おいしい」
ぽつりと言葉がこぼれる。だろ?と得意げに笑う狼の顔に、泰兎は神々しささえ感じた。
「改めてになるけどさ。本当に、ごめん。せっかく家に呼んでくれたのに、ほんのちょっとしか、教えられなくて」
「……じゃあ、補習は追加だな」
「え、」
恭しく正座をする泰兎に、そんな思いがけないことを言うものだから、泰兎はその一言では理解ができなかった。
「誰が今日だけって言ったんだよ。一日で全部理解できるほど俺は有能じゃねえし、喋りすぎちまった自覚はあるからな。明日も同じ時間に集合、でいいよな?」
「……う、うん! 頑張る!」
泰兎は溢れんばかりの笑みを浮かべた。何をだよ、と狼は呆れつつもはにかんで笑った。その頬にできたえくぼに、泰兎は吸い込まれそうだった。心の臓がきゅうっと締め付けられるような、それでいて温かくなるようなーー
そこから二人はしばらく雑談を交わした。華奢なシャンデリアの光が、長い影を作っていた。
***
「化学……三十八点。歴史……四十二点。古文……え、二十九点!?」
「……すげえ難しかったんだよ」
答案返却日の次の日、昼休み。泰兎は狼に答案を持ってくるようあらかじめ請求し、こうして結果を確認していた。
「まあ確かに、国語は現代文ばっかやって古文はあっさりで終わらせちゃったもんね……全部を均等にやるんじゃなくて、何個かに絞った方がいいと思って。実際、現代文は五十四点取れてるし。すごいよ狼くん」
スケジュールの組み方、効率の良い教え方など、自分にも反省点はたくさんある、と感じている。それに勉強期間も、余裕を持ってあと二週間、いや三週間は欲しかった。
だが、それらを加味した上でも、狼の伸び具合は想定外だった。もともとの約束は”赤点を回避する”というもの。怪しい教科はいくつかあるものの、全体的に見れば大成功と言っていいのではないだろうか。泰兎はうっすらとそんな気がしていた。
「あ、これで最後だね。あと見てないのは……英語か。英語はすごい頑張ったもんなあ……取れててほしい」
泰兎はゆっくりと紙を裏返す。透けた赤文字が見えないよう目を細めながら、ゆっくりと、ゆっくりと裏返し、右上の数字を確認する。
「……え、えっ、ろ、六十二点!?!? え、え、すごい! すごいよ!」
枠をはみ出して書かれている数字に、泰兎は今日一番の大声を出した。
「えな、なんでこんなに取れたの? 今回の英語ダントツで難しくて、平均点もたしか四十点台だったのに」
「まあそりゃ、自分でもやったからな、勉強」
「……ほんとに?」
泰兎の目は少し潤んでいた。まさか、狼が自習をしていただなんて。こんな結果を誰が予想できただろう。泰兎は感極まり、紙を握りしめたまま、狼に力強く抱きついた。
「うわ、おい、何すんだよ」
「……だって、だって嬉しいんだもん。最初は勉強なんて嫌いだ、って言ってたのに、こんな風になると思わなくて」
「……そうかよ」
しばらくそのままの体勢でいたが、急に狼が離れろ! と慌てたため、泰兎は惜しみながら腕を離した。
「なんでこれで終わりみてえな空気作ってんだよ」
勝手に今日が最終回だとばかり思っていた泰兎に、狼は貧乏ゆすりをしながら不機嫌そうに尋ねた。
「え、だって試験は終わったし、結果も良かったし……終わ、ったんじゃないの?」
「あるだろうが。期末試験が」
「……は?」
泰兎はぽかんと口を開ける。彼との契約は中間試験までだったはずだ、と過去の記憶を必死に引っ張り出そうとする。そのうち、あれ、そうだったっけ、とついに脳が錯覚を覚え出した。
「担任がすげえ喜んだんだよ。何でこんな点数取れたんだーって、泣くわ踊るわ。でも雪岡のことだから、どうせまぐれなんだろとか、カンニングしたのか? って疑いもされちまってよ。七月の期末試験でもう一回同じ点数取ってみろって言われちまったんだ。あのクソ教師、カツラだってバラしちまおうかな」
狼は舌打ちを混ぜながら事の顛末を話した。泰兎はそれに対して何も反応できなかった。
「……完全に、終わったと思ったのに……」
「すまねえ。明日からよろしく」
狼は軽い謝罪を挟んであっさりと話を終えた。やっと駒が進んだと思ったらまた振り出しに戻った、というような気がして、泰兎は
「はい……」
とただ頷くことしかできなかった。
「言わなくていいぜ誰もいないから。適当にそこの机んとこ座っててくれ。あ、洗面所はあっちな」
「あ、ああうん。ありがと」
やけに高そうなハンドソープで手を洗いふわふわなタオルで水を拭き取る。長い廊下を歩く間、蜂蜜の香りが泰兎を包んでいた。
(……すごい所に、来ちゃったな)
狼の突飛な提案を受け入れ、泰兎は今日彼が住まう部屋へとやってきた。そこが日本有数の高級タワーマンションであることも知らずに。教室の窓から高いなあ、なんてぼんやりと眺めていた場所に、まさか自分が行くとは思いもしなかった。吹き抜けのエントランスホールを通る時も、意識が遠くなるほどに長いエレベーターの乗車時間中も、泰兎の顔は終始引き攣っていた。狼はあとどれぐらいの隠し球を持っているのだろうか、そう考えると泰兎は恐ろしささえ感じた。
(うちでやろうか、なんて言わなくて本当に良かった……!)
引け目を感じながら重たい足取りでリビングに着く。すると、狼は左腕にお盆を抱え、優しく膝を曲げながらおもむろにティーカップをローテーブルへ置いていた。
「え! いいよお茶なんて、ご馳走してもらいたくて来た訳じゃないから」
カップに描かれている鮮やかな薔薇を見て、泰兎は慌てて断りを入れた。
「気にすんな、割ってもベンショウしろなんて言わねえよ」
「いや、そういう問題じゃなくて」
「いいから気にすんな。俺がノド渇いたからついでに入れただけだ」
「えぇ……」
このまま話し続けても埒が明かないと思い、泰兎は渋々受け入れ腰を下ろした。琥珀色に輝く液体は見るだけで気後れしてしまいそうだ。よほど喉が渇かない限り口に含まない、と泰兎は心の中で強く決心した。
「で、ベンキョウするんだよな、今日は」
「そ、そうだよ。本来の目的はそれだから。嫌かもしれないけど、今日やるかやらないかで結果が変わってくるからね! 一緒に頑張ろう」
「あいよ。カクゴは決まってるからな、今さら嫌とは言わねえぜ」
少し空回り気味の泰兎に、狼は腕を伸ばしながらいつもの様子で軽く返事をした。それなら早速、と泰兎は鞄を開き、詰め込んできた教科書の山を机にドンと置く。一番上にあった英語を手に取り、付箋が貼ってある箇所までページを捲った。
「よし、まずは英語からやろう。狼くん苦手だもんね。」
「違う国の言語を学ぶ意味が無えからな」
「英語嫌いの人のテンプレみたいなこと言わないで。英語を知る目的はないかもしれないけど、今の狼くんは中間試験で良い点数を取ることが目的でしょ? だったらやらなきゃ」
それっぽい理屈を並べながらルーズリーフを狼の前に置き、筆箱のファスナーに手をかける。いつもより多めにペンを仕込んだため、開けるのに少し手間取った。泰兎はクルトガを、狼はドクターグリップをそれぞれ手に取る。カチカチというノック音は始まりの合図だ。居間にはしばらく、シャーペンが紙を擦る音だけが響いた。
「……そうそう、この文の主語は人だから、関係代名詞はwhoになる。なんだけど、この場合主節が過去形になってるから、時制の一致で関係代名詞節も過去形にしなきゃいけないんだよね。だから、isじゃなくてwas」
「すまん、もう一回言ってくれ」
「うん、いいよ。ここの、最初のかたまりが過去形でしょ?ほら、動詞がseeじゃなくてsawになってる。こういう時は……」
思っていた以上に、すごく、順調に進んでいる。泰兎は心の中でそう思っていた。
正直、俺の家でやろうぜ、と言われた時、泰兎は疑っていた。狼のことは”信頼”はすごくしているが、”信用"はまだしきれていなかったからだ。
狼は優しい。それが泰兎の認識だ。覆ることはない。が、まだ知らない一面がたくさんあるのではないか、と泰兎は思っている。彼はどこか危なさというか、危険な空気を纏っているのだ。情けない話だが、泰兎は狼に会う時、今日こそは一発もらうかもしれない、なんてことを考えてしまっている。
それに、赤点を回避したい、という彼の思いに報いるように、かなりスパルタな指導をしているという自覚が泰兎にはある。玄関に足を踏み入れた瞬間、後ろから首に腕を回されたりしないだろうか、などという過剰な妄想により、昨日の夜は寝付くまでに時間がかかった。教える側が睡眠不足だなんて聞いたことがない、と自分に呆れてる間にも、瞼は下がっていく。
「……い、おい。どうすんだよこういう時は」
狼の声に泰兎はハッと我に返る。
「あ、ああ、ごめん。ボーッとしてた」
「珍しいな。タイトがそうなるなんて」
「ああ……ちょっと、睡眠不足なだけ。体調悪い訳じゃないから、全然。大丈夫だよ」
「さっきから水分取ってねえだろ。俺が入れたやつ飲めよ。ダージリンだぞ?」
「そ、そうだね……」
言われてみれば、頭が少しクラクラとする。時計を見ると、長針はすでに二周していた。
「こんな高そうなの飲んだことないからさ、ちょっと気後れしちゃってたっていうか……怖かっ、た?っていうか」
「高くねえよ別に。ふつうにスーパーで買ったやつだぜ」
「あっ……そうなんだ」
喋れば喋るほど墓穴を掘っていくように感じて、泰兎は居た堪れなくなった。そして、これらの感情を全て見透かしているような狼の目を、途端に見れなくなった。
「……前から思ってたことで、他意がある訳でも弱みを握りたい訳でも無えただの質問なんだけどよ」
珍しく丁寧に前置きをし、狼は”質問”をした。
「タイトの家って、貧乏なのか?」
「……!」
心臓がドクンと脈を打つ。心拍数が上がっていることを自分自身も感じる。血流は速くなっているはずなのに、頭からは血がどんどんと抜けていく。焦りと恐怖で、泰兎の体は静かに悲鳴をあげていた。
「いや、言い方が悪かったな、今のは。…………あああダメだ、何て言えばいいのかが分かんねえ。くっそ、マナーの本とかちゃんと読んどけば良かったぜ」
「……うん。そうだよ」
泰兎は素直に事実を告げた。嘘をついたり、はぐらかしたりしても良かったのだが、狼の態度から、茶化そうとしている訳ではないことが感じ取れて、それだけが理由になった。本当のことを言っても、きっと真摯に聞いて、受け止めてくれるだろう。と、感じたのである。
「ちょっと、うちは家族関係が複雑でね。話すと長くなるんだけど、いいかな?」
狼は頷いた。何も言葉にしないその様子が、泰兎の背中を後押しした。
「えっと……何から話せばいいか迷うんだけど。まず、今の白崎家は、お父さん、僕、弟、で成り立ってるんだ。上にお姉ちゃんとお兄ちゃんもいるんだけど、歳が離れてて、成人してるから、近くのマンションでそれぞれ一人暮らししてる」
「へえ。兄弟多いんだな」
「そうだね……そうなんだけど、まずここに複雑さがあって。上二人と下二人、つまり成人組と未成年組…は、血が繋がってないんだ」
変な言い回しをしてしまい、顔が赤くなるのを感じる。狼をちらっと盗み見ると、まったく気にしていない顔で真剣に泰兎の話を聞いていた。
「父親が三十の時に母親と結婚して、上二人はその時の連れ子で。その後にすぐ僕が生まれて、小さい時は可愛がってもらえたんだけど、弟が生まれてからそっちばっかり構うようになって。でも別に、寂しくはなかったんだ。お父さんも、お兄ちゃんもお姉ちゃんも、僕を相手してくれて、遊んでくれたから」
「なんで変わってったんだ?タイトは嫌われるような性格じゃねえだろ」
「あ…ありがとう。うーん……本人からは何も聞かされてないから、あくまで僕の推測なんだけど。弟は、スポーツとか、芸術とか、そういうのにすごく才能があるんだ。サッカーを習ってるんだけど、毎試合ゴールを決めちゃうぐらい、すごい活躍してたり。図工の授業で描いた絵が、コンクールで金賞を取ったり。ほんとに、すごいんだ。それに対して、僕は勉強以外は取り立てて何ができる訳でもなくて。まあ、可愛がられないのも納得……っていうか」
「違えだろ」
やんわりと滞っていた空気が、狼の一声によってピシャンと引き締まる。
「良くねえのはタイトじゃなくて、タイトの頑張りを見てなかった母親だろうが。俺が言うことでもねえけど、人にはそれぞれ得意なもん苦手なもんがあんだから、それを踏まえた上で向き合わなきゃいけねえ。それに、子どもの時なんか何したっていいんだよ。親は褒めるためだけにいる。俺はずっとそう思ってる。その女には悪いけど、子どもを褒めねえ時点で親失格だな」
「……っ」
狼の言葉は、心の奥深くまで、入ってきた。深海に垂れる一筋の光のように、真っ直ぐで、眩しいほどに明るい。泰兎の張り詰めた心は、思わぬ形で溶けていった。
「……ふっ……ふふっ……ふふふ」
「? 何笑ってんだよ」
「い、いや、狼くんは僕の母親を見たことないのに、すごい悪口言うじゃんと思って……ふふっ」
「……いいだろ別に。腹立ったんだよ。……気ぃ悪くしたんなら、悪かった」
「大丈夫、謝んないで。僕も、同じことを思ってはいたけど、何だかんだ血が繋がってるし、僕のことを産んでくれた訳だし。あんまり、大きな声で言えなくて。だから、狼くんがはっきり言ってくれて、すごいスッキリした。ありがとう。…あともう少し、話し続けてもいい?」
「おう」
笑みが溢れたことにより自然と緊張から解き放たれ、安心感を抱き、泰兎は気が楽になった状態で話すことができた。
「狼くんの言うとおり、人にはそれぞれ得意不得意がある、それを理解してるお父さんとお姉ちゃんお兄ちゃんは、たくさん褒めてくれたんだ。でも、それでも穴が完全に埋まることはなくて。……母親は、頭がそんなに良くない人なんだ。普段の言動とか、行動から伝わってくる感じ。だから、勉強をする理由、とか、意味みたいなものが、分からなかったんだと思う。……僕の努力が、あの人には伝わらなかったってこと。悲しいけど、言葉にすると、それだけ、になっちゃうんだよね」
重苦しい話をしているという自覚はある。それなのに、不思議とさっきよりも心は随分軽くなっていた。
「それで、狼くんの質問に対してなんだけど。うちはすごい貧乏、ってほどではないんだ。片親ではあるけど……ああ、えっと……最初の、家族構成の時点で察してると思うけど、両親は離婚したんだ。ちょうど去年の今ぐらいにね。原因は母親の浮気で、ある日学校から帰ったら、母親の荷物が全部無くなってたんだ。やたら露出度が高いワンピースとか、愛用してた香水とかも、全部。リビングの机に『別れてください』とだけ書かれた紙が置いてあって、帰ってそれを見たお姉ちゃんお兄ちゃんは激怒してたよ。まだ弟たちが小さいのに、って。僕もう高校生なんだけどね」
あの時の状況を思い出して、泰兎は微笑んだ。狼も頬杖をつきながら、口角を少し上げていた。
「お父さんはうっすら気づいていたと思う。でもどうする術もなかったし、百パーセント子どもの方が大事って言ってくれたから、そのまま一緒に暮らしてる。お姉ちゃんはもう社会人として働いてて、お兄ちゃんもその年に新卒だったから、一緒には暮らしてないよ。でも、心配だって言って、お金を入れてくれてるんだ。ありがたいけど、僕はそれがすごく申し訳なくて、いつか仕送りしなくても大丈夫だよって言えるように、この学校に特待生として入ったんだ。学費かからないからね。少しでも浮かせたくて。だから……結論、貧乏か貧乏じゃないかって言ったら貧乏ではない……けど、気持ち的には?貧乏……です。い、以上、です」
曖昧な終わり方を泰兎は悔やんだ。自分がもっとうまく喋れていたら、こんな空気を狼に味わわせることがなかったのに、と。
無論、そんな心配は不要だった。
「うわ、じゃあ俺はタイトに勉強教わってて正解だったな」
「……え?」
「だってそうだろ。タイトは勉強できない人が嫌いで、俺は元々できなかった。そのまま関わらずにいたら、タイトの中で俺は”嫌い”に分類されてたってことだろ?」
「いや、ちょっと待って。そんな、勉強できない人は嫌いですなんて、一言も言ってないよ。それに、話した内容ともちょっとずれてるし……」
「言ってるようなもんだろ。実際母親とかいう女はそれでタイトを理解できずに嫌われてる訳だからよ。あながち間違ってないと思うぜ。だからタイトに言って良かったってことだ」
「そう、なのかも」
引っかかる所が多々あるものの、妙に納得してしまった節もあり、泰兎は狼の指摘を飲み込むことにした。
「そんで、その後の話については、俺はなんも言わねえ。俺から聞きはしたけど、貧乏か裕福かなんてどうでもいいし、エピソードとしてタイトの話はすげえ面白かった。ファニーじゃなくて、イン、インタレスティング、ってやつ。それだ」
狼は満足した様子で、勢い良く「よし」と続けて声を発した。
「今度は俺の番だな」
「お、俺の番? 何が?」
「何って、タイトが腹割ってくれただろ。俺も自分のこと全然話してねえからよ、この機会に話しちまおうと思って」
「そ、そんな……」
そんな軽い気持ちで話していいのか。泰兎は強くそう思った。が、狼のことだ。話したい気分なのだろうと、泰兎はもはや察することを放棄し、彼がしてくれたように、自分も真剣に聞く姿勢を取った。
「俺は、タイトと逆で兄弟は一人もいねえ。親はどっちも医者ですげえ頭いい。生まれた時から、俺は医者の道に進むことを決定づけられてた。でも、俺は勉強ができなかった」
淡々と話し始める狼。その語り方に、泰兎は意識せずとも夢中になっていた。
「俺が六つの時、母親が妊娠した。男だろうと女だろうと、やっとこの役立たずから目を逸らすことができる、やっと思い思いに教育をすることができる、って両親は泣いて喜んでた。その時に思ったよ、ああ、この人たちは涙を流すことができたんだ、って。俺がその場にいるのに平気でそんなこと言うんだぜ?クソ野郎、ってなんべんも思ったけど、まあこれで解放されるならいいかって思ったから、黙ってた。でも、生まれてこなかった」
「えっ……」
「流産だったんだ。母親は妊娠が分かってからは家にいたけど、ずっと仕事をしてた。眠ってるとこなんか見たこともなかった。それだけじゃねえけど、その生活習慣が少なからず関係していますって医師が話して、親父はすげえ怒った。お前のせいで希望が消えたんだぞとか何とか、とにかく色んなことを言ってた。……あんまり覚えてねえ」
「そ……そうだったん……だ」
「母親はずっと立ち直れてなかった。親父はすぐに復帰したけど、前みたいに、俺を厳しく躾けることは無くなった。朝早くに家を出たり、日付が変わる頃に帰ってきたり、顔を合わせたくないんだなって俺でも察しちまうぐらい、とにかく俺のことを避けてた。勉強しなくて良くなって、最初はすげえ嬉しかったけど、だんだん、孤独を感じるようになった」
「……」
泰兎は何も言えなかった。何を言ったところで、彼が抱えてきた苦しみ、悲しみを取り去ることはできないと、そう感じていた。彼は僕の葛藤を一瞬で晴れさせることを言ってくれたのに、僕は何も出来ないのか。と、自分自身を憎みさえした。
「中学に入ってからだな、今みたいになったのは。小学校の時はまだ怖さが残ってて、一応大人しくしてた。でも、そうするのも無駄だって気づいてからは、自分の好きなように暴れまくった。そしたら、当たり前だけど、嫌な顔はされた。六年間どれだけ頑張っても顔さえ見せなかったのに、試験で赤点を取ったって知ったらすぐに飛び込んできて、思いっきり殴られたんだ。だからそこで初めて、親父に暴力を振るった。当たり前に俺の方が強かったから、ついヤケになって、馬乗りになって何発も殴った。そこからはもう何もねえ。高校に入ったと同時に親父が持ってるマンションに住み始めた。自立したとかじゃなくて、ただ単に追い出されただけだ。それがここ。以上。なんか質問は?」
「うあ、え、えっと」
唐突に迎えた最後に、泰兎は反応が遅れた。何を喋るにも気が引けて、気の利いたことは一つも言えそうになかった。それでも、何もないとは言いたくなかった。考えられるだけ考えて、苦渋の思いでどうにか、絞り出した。
「えっと、じゃあ、嫌だったら答えなくて全然良いんだけど……その、生活って、どうしてたの?」
「生活?」
「いやあの、ほら、お父さんもお母さんも、こう、あまり子育てをしてないような感じがしたから。ご飯を作ったりとか、掃除洗濯とか、そういうのは誰がやってたのかなーって。それに、今一人暮らしをしてるってことは、そういうのは全部、自分でやってるってことでしょ?すごいなあと思って」
「……ああ」
突飛な問いに、狼はどこか合点がいったような顔をした。
「たしかに気になるよな。親が家政婦を雇ってたから、基本的にその人が飯を作ってくれてたよ。他の家事もほとんどその人だ。ていっても出来立てのものを食べるとか、そんな家族っぽいことはしてねえ。家に帰ったらラップが掛かった皿が置いてあって、それを温めて食べる、の繰り返しだ。顔すら見たことねえ。たぶん、あのクソ親父が何か言ってたんだと思うぜ」
「そっ、か……そうなんだ」
「それと、確かに俺は今一人で暮らしてるけど、週に一回家事代行の人を呼んで、その人に全部やってもらってるし、飯は基本デリバリーで頼んでる。なんもすごくねえよ」
狼はそう言いながら絨毯を見つめる。その顔は心なしか憂いを帯びていて、何かを諦めているようで、今までとは全く違う印象を泰兎に与えた。泰兎はどうにか、彼を元気づけられるような言葉をかけようと、回らない頭を必死に働かせた。
「す、すごいよ! 狼くんはすごい!」
いきなり大声を出した泰兎に気圧されて、狼は少し目を丸くした。だがすぐに戻り、再び絨毯を見つめる。
「……いやだから、そんなことねえんだって「かっこいい!」
泰兎は声を張り上げた。少しでも狼の気持ちを軽くしたい、その一心だった。
「親とか周りの人に甘えずに、自分の力で何とかしてるところがかっこいい! 自分の好きをとことん貫いてるところがかっこいい! それで周りを従わせちゃうような、圧倒的カリスマ性がかっこいい! 何か思い立ったら悩まずに、すぐに行動できるところがかっこいい! 常に覚悟を持って臨んでるその姿勢がかっこいい! 足が長くてかっこいい!」
「……」
「今日まで、三週間、ぐらい? 過ごしてきて、感じた狼くんのかっこいいところを、言ってみました!」
「お、おう」
「僕なんかに言われたくないだろうけど、狼くんはたまに自分のことを卑下する時があります! 僕はそれがすごく勿体無いと思う、だから褒めました!」
「あ、あんがとよ」
ムンッと鼻息を荒くする泰兎に、困惑しつつも狼は礼を伝える。いつもとは異なる二人の距離に、泰兎はいささか趣を感じ、自然と口角が上がった。不意に、頭がぐらりと揺れる。鈍器で殴られたかのような、鈍い衝撃が泰兎を襲う。自分の意思では体を操作できず、泰兎は微笑みながら、ゆっくりと後ろに倒れていった。狼の必死な呼びかけが届いたかは定かではない。最後に眼が映したものは、染み一つない綺麗な天井であった。
「ん……んん……」
唸りのような低い声を出して、泰兎は目を覚ました。光に慣れようと瞼が瞬きを繰り返す。曖昧な意識のまま泰兎は頭を右に回し、窓の外を見やった。
「……ん? えっええっ!?」
泰兎は豆鉄砲を食った鳩のように、大きく目を見開いた。そうなるのも仕方がなかった、空はすでに橙色になっており、遠くの方は藍がかっていた。日暮れが近づいているということは寝起きでも分かった。
「お、やっと起きたか」
狼は呑気に声をかけ、泰兎の元へと近づいた。泰兎はそんな拍子の狼に、ひどく申し訳なさを感じた。自分ばっかり迷惑をかけているような、そんな気がしていた。
「っごめん、僕すごい寝ちゃってた、ほんとごめん」
謝ったところで状況が良くなる訳でもないが、泰兎はとにかく必死に謝罪をした。そんな泰兎を狼は聞こえていないかのように受け流し、机にカップを置いた。一つ消えていると気づいたのはその後だった。
「ほら。結局飲まなかっただろ、冷めてたから温めてきたぜ。ちゃんと飲め」
「あ、ああ、うん。いただきます」
カップから立ち上る湯気が、狼の声によってゆらりと揺れる。意固地になっていた分を取り返さないと、と泰兎は一息で飲み干した。喉を通る瞬間、これまでに感じたことのないような充足感が体を駆け巡った。
「……おいしい」
ぽつりと言葉がこぼれる。だろ?と得意げに笑う狼の顔に、泰兎は神々しささえ感じた。
「改めてになるけどさ。本当に、ごめん。せっかく家に呼んでくれたのに、ほんのちょっとしか、教えられなくて」
「……じゃあ、補習は追加だな」
「え、」
恭しく正座をする泰兎に、そんな思いがけないことを言うものだから、泰兎はその一言では理解ができなかった。
「誰が今日だけって言ったんだよ。一日で全部理解できるほど俺は有能じゃねえし、喋りすぎちまった自覚はあるからな。明日も同じ時間に集合、でいいよな?」
「……う、うん! 頑張る!」
泰兎は溢れんばかりの笑みを浮かべた。何をだよ、と狼は呆れつつもはにかんで笑った。その頬にできたえくぼに、泰兎は吸い込まれそうだった。心の臓がきゅうっと締め付けられるような、それでいて温かくなるようなーー
そこから二人はしばらく雑談を交わした。華奢なシャンデリアの光が、長い影を作っていた。
***
「化学……三十八点。歴史……四十二点。古文……え、二十九点!?」
「……すげえ難しかったんだよ」
答案返却日の次の日、昼休み。泰兎は狼に答案を持ってくるようあらかじめ請求し、こうして結果を確認していた。
「まあ確かに、国語は現代文ばっかやって古文はあっさりで終わらせちゃったもんね……全部を均等にやるんじゃなくて、何個かに絞った方がいいと思って。実際、現代文は五十四点取れてるし。すごいよ狼くん」
スケジュールの組み方、効率の良い教え方など、自分にも反省点はたくさんある、と感じている。それに勉強期間も、余裕を持ってあと二週間、いや三週間は欲しかった。
だが、それらを加味した上でも、狼の伸び具合は想定外だった。もともとの約束は”赤点を回避する”というもの。怪しい教科はいくつかあるものの、全体的に見れば大成功と言っていいのではないだろうか。泰兎はうっすらとそんな気がしていた。
「あ、これで最後だね。あと見てないのは……英語か。英語はすごい頑張ったもんなあ……取れててほしい」
泰兎はゆっくりと紙を裏返す。透けた赤文字が見えないよう目を細めながら、ゆっくりと、ゆっくりと裏返し、右上の数字を確認する。
「……え、えっ、ろ、六十二点!?!? え、え、すごい! すごいよ!」
枠をはみ出して書かれている数字に、泰兎は今日一番の大声を出した。
「えな、なんでこんなに取れたの? 今回の英語ダントツで難しくて、平均点もたしか四十点台だったのに」
「まあそりゃ、自分でもやったからな、勉強」
「……ほんとに?」
泰兎の目は少し潤んでいた。まさか、狼が自習をしていただなんて。こんな結果を誰が予想できただろう。泰兎は感極まり、紙を握りしめたまま、狼に力強く抱きついた。
「うわ、おい、何すんだよ」
「……だって、だって嬉しいんだもん。最初は勉強なんて嫌いだ、って言ってたのに、こんな風になると思わなくて」
「……そうかよ」
しばらくそのままの体勢でいたが、急に狼が離れろ! と慌てたため、泰兎は惜しみながら腕を離した。
「なんでこれで終わりみてえな空気作ってんだよ」
勝手に今日が最終回だとばかり思っていた泰兎に、狼は貧乏ゆすりをしながら不機嫌そうに尋ねた。
「え、だって試験は終わったし、結果も良かったし……終わ、ったんじゃないの?」
「あるだろうが。期末試験が」
「……は?」
泰兎はぽかんと口を開ける。彼との契約は中間試験までだったはずだ、と過去の記憶を必死に引っ張り出そうとする。そのうち、あれ、そうだったっけ、とついに脳が錯覚を覚え出した。
「担任がすげえ喜んだんだよ。何でこんな点数取れたんだーって、泣くわ踊るわ。でも雪岡のことだから、どうせまぐれなんだろとか、カンニングしたのか? って疑いもされちまってよ。七月の期末試験でもう一回同じ点数取ってみろって言われちまったんだ。あのクソ教師、カツラだってバラしちまおうかな」
狼は舌打ちを混ぜながら事の顛末を話した。泰兎はそれに対して何も反応できなかった。
「……完全に、終わったと思ったのに……」
「すまねえ。明日からよろしく」
狼は軽い謝罪を挟んであっさりと話を終えた。やっと駒が進んだと思ったらまた振り出しに戻った、というような気がして、泰兎は
「はい……」
とただ頷くことしかできなかった。
