青春の方程式

 気持ちのいい風が吹いている。軽やかな落ち葉は踊るように空を舞い、地面へと着地する。雲はゆっくりと流れ、今太陽に覆い被さった。平和という言葉が似合うこの情景に、場違いなものが、いる。



「タイト、ジュクゴって何だ」「タイト、ルートって何だ」「タイト、バクマツって何だ」

「……今は……! 聞か、ないで……!」



 誤った持ち方で鉛筆を握りプリントと睨めっこをする狼と、スクワットに必死で簡単な質問にすら答えられていない泰兎。その異様すぎる光景に、木の枝に止まったばかりの小鳥が、驚くべき速さで彼方へと飛んでいった。

 二人は何故こうなったのか。それは一週間前まで遡る。



***



「持って……来たよ……!」



 軽く昨日の倍の厚さはあるであろう束を必死に抱え、腰を曲げながらやって来た泰兎。そんな泰兎を待っていたのは、彼とは正反対のもの。だらんと体を伸ばしてベンチに居座っている狼と、その手に握られている一枚の紙切れだった。いつもなら泰兎も座るのだが、なるべく体を動かすな!と本能がそう告げている気がして、立ったままでいた。かろうじて狼と向き合うような体制は取る。膝と膝がくっつきそうな近さに、泰兎は密かに四限の体育を恨めしく思った。



「すげえな。一日でこんな作ったのか」

「まあね……! 自分の、復習にもなるし……そんなことより、早く持って……!」



 これ以上は限界だと体が悲鳴を上げる瀬戸際で、泰兎は狼に束を手渡した。ずしっ、と音が鳴りそうなぐらいであったが、狼は軽々と片手に乗せ、もう片方の手でぺらりとした紙切れを寄越した。



「ん」

「ん……?」



 何だこれは、と脳が思考する前に、その紙は泰兎の手の中に収まっていた。無理やり押し付けられたと言っていい。

 ノートの一ページを破ったのであろう中途半端な形と、それを助長するような雑な二つ折り。恐る恐る、泰兎は開いた。



 腹筋50回

 スクワット50回

 プランク1分×3回

 腕立て伏せ30回



 紙には、罫線をことごとく無視した大きな字で、そう書いてあった。



「何、これ」



 泰兎はすぐに尋ねた。



「俺が毎日やってる筋トレのメニュー。を、タイトの体格を考えてシューセイしてみた」



 狼はすぐに答えた。あまりにも率直だったため、泰兎はその二言では理解できなかった。



「えぇっと……僕のために、書いてきてくれた、ってこと?」

「ああ。そこにかいてあるの毎日やれば、とりあえず筋肉つくと思うぜ。ムリにとは言わねえけど」

「……」



 泰兎は少しの間呆けていた。狼がそんなことをしてくる人間とは、とても思えなかったからだ。何が彼に変化をもたらしたのか、泰兎は素直に聞いてみることにした。



「こういうの、書くんだね。意外。てっきり、俺は拳で教えるぜ、って言うと思ってた」

「あ?あー……それはその、タイトが、かいてきたから……な」

「え……」



 俺も真似してみたんだよ。俺もやらねえとって思ったからな。

 狼は口にしなかったが、そんなことを言いたいんだろう、と泰兎にはその”続き”が透けて見えた。泰兎は別に見返りを求めて作った訳では無いのだが、狼の行動には人情や漢気のようなものが沁みていてかっこいいなと思ったため、有り難く受け取ることにした。



「ありがとうね。続けるよ、毎日」

「いいんじゃね」



 頭をがしがしと掻く狼の耳は、ほんのり色づいていた。それを目ざとく見つけた泰兎の頬も少し染まる。何だかこそばゆい空気に、狼は早々に白旗をあげた。



「よし」



 声を出しながら膝に手をつき立ち上がる。そのまま両手を腰へと回し、堂々とした仁王立ちで泰兎を見下ろす。二人の距離は、狼が立ったことにより一段と近くなった。強請りにも見えるこの状況で



「殴ってみろ」



 なんて言われたものだから、泰兎は困惑や恐怖などという感情をもはや感じなかった。



「……こうやって、喧嘩に誘っているのか「ちげえよ」 



 違う次元へと飛びそうになった泰兎の思考は狼によって即座に止められる。



「どんぐらい力があんのか、筋肉があんのか。殴る時のフォーム、手の大きさ、骨の形。話きくよりも、ジッサイに体で示した方がわかりやすいんだよ」



 と、いかにもな不良節を漂わせつつ、狼なりの教え方を泰兎に語った。

 そういうことならと、泰兎の拳に力が入る。少しでも強く見せたいという年頃の男子ならではの考えがはたらき、向こうの掛け声も待たず不意打ちを狙って、狼の腹に一撃を入れた。ぽむち、という音が似合う可愛らしい突きだった。



「……まじか」



 少しの間の後、狼は小さな声でそう呟いた。彼は全くもって微動だにしていない。卑怯とはいえ、腹に直撃させたのだ、彼の筋肉と体幹の強靭さだけが理由になる訳では、ない。



「うぅ……!」



 恥ずかしさ、情けなさ、諸々の感情が押し寄せ、泰兎は立つこともままならずうずくまった。実は泰兎、去年の身体測定で女子の平均よりも低い数値を出したことに衝撃を受け、半年もの間握力やら腕力やらを鍛えていたのだ。それらが意味を成さなかったことにも、同時に落胆していた。



「そんなんでめげてたら始まんねえぜ」



 狼は落ち込む泰兎に声をかける。



「自分の力が今どれぐらいなのか、それを知った時点で昨日よりか強くなってるよ、タイトは」



 彼なりの真摯な励ましが、泰兎の心を幾分か軽くさせた。伏せていた顔を上げると同時に、狼はほらよ、と泰兎の目の前に紙パックを差し出した。おいしい牛乳、と書いてあった。



「好きなんだろ。おとといも昨日も食ってたから」



 今も持ってるしな、と狼は泰兎のブレザーのポケットを指差す。そこには透明な”ギザギザ”が見え隠れしていた。泰兎は思わず”それ”を取り出す。少し潰れた”それ”からはクリームがはみ出ていた。

 やっぱり、と言う狼に、泰兎はありがと、と素っ気なく感謝を伝える。もたもたと袋からストローを取り出し、刺して、吸い込む。不覚にも、今までで一番甘さを感じた。手に持っていたはずのパンがいつの間にか食べられていることも知らずに、泰兎は夢中になって牛乳を飲んだ。



***



(そんな……時も、あったな……!)



 太腿を小刻みに震わせながら、泰兎はつい二週間前の出来事を思い出していた。苦しさのあまり、脳が勝手に意識を過去へと向けていたようだ。現実に戻ったと同時に五十回目に辿り着き、泰兎はすぐさま膝に手をついてゼエゼエと息を切らした。

 学校でスクワットをしている理由。それは、一言で言うならば、”RTA”を狙った結果、である。出来るものは学校で終わらせてしまいたい、と効率を優先してしまった成れの果て。狼に指示してもらったメニューの中で、唯一外でも出来るものがこれだった。他人の目などは気にしていられない。泰兎はとにかく必死だった。



「こっちも終わったぞ」



 息を整え終わった泰兎に、狼はプリントを注視したまま声をかけた。眉間に皺を寄せながら。



「ほんと?じゃあすぐ採点しちゃうね」



 泰兎はそう告げ、シャツの胸ポケットから赤いボールペンを取り出し狼の隣に座った。プリントを自分の足に置き、模範解答も見ずにスラスラとペンを動かしていく。相変わらず罰は多いままだった。丸が二割、三角が一割弱、といったところであろうか。



(あんまり、正答率上がらないなあ)



 泰兎は心の中でため息をついた。先週から始めたこの泰兎お手製小テスト作戦。各教科を満遍なく、計三十問を毎日解かせているのだが、一向に成績が上がる兆しはない。泰兎はポケットからスマホを散り出し、カレンダーに今日の点数を記録した。四月二十四日、九点。



「……狼くん、提案なんだけどさ」



 泰兎は体を右に向け、狼を見上げた。



「ゴールデンウィークに、勉強会、しない?」



 もちろん予定が無ければなんだけど、と後付けした上で、泰兎は計画を持ちかけた。

 泰兎はかなり焦っていた。正直言って、このままではまずい。試験まであと一ヶ月を切っている今、どうにか正答率を四割まで引き上げたい。欲を言うなら、五割まで。

 そこで考えついたのが勉強会作戦だった。半強制的ではあるが、勉強しか出来ない環境を狼に与えることで得られる効果は、きっと大きいだろう。自分も同時に勉強することができるし、何より一度に集中して教えるというやり方は、泰兎の性分に合っていた。俄然泰兎の目がやる気に燃える。



「いや、やるっつったって、どこでやんだよ」



 泰兎をちらりと横目で見ながら、狼は素朴な疑問を呈した。相変わらず長い足を地面につけ、靴底で落ち葉を軽く擦っている。

 想像していた返答と違ったがために、泰兎は思わずぽかんとした顔を向けてしまった。



「え、ここでだよ?図書館開いてるでしょ?あ、他の人が気になるんだったら、空いてる教室でもいいけど」「開いてねえよ」

「……え?」

「知らねえのか?この高校はゴールデンウィークとか、夏休みとか冬休みとか、そういう長期休暇の時は一切開けてねえ。図書館もだ。ケイビの人がいなくなるからとか何とかで、俺みてえな奴が悪さしないように、ってのが見解?らしいぜ」

「そ、そうだったんだ……」



 あっさりと話す狼に対して、泰兎は動揺していた。知らない情報が多すぎて自分に嫌気がさす。きっとこの件だって、普通に友達がいて放課後を学校で過ごしていたのなら、当たり前に知っていたのだろう、普通にいたなら。



(……たしかに、去年は図書館なんて、授業でしか行かなかったもんな。放課後になったら逃げるようにして家に帰ってたし……なんか、なんだろう、ちょっと胸が……苦しい)



 理由は分からず、でも確かに心の中に、鈍い痛みがあった。ちくちくと心を蝕んでいくようで、だんだん呼吸がしづらくなる。助けを求めるように、狼の目に視線を向けた時だった。



「あ、じゃあよ」



 狼の口が開かれ、思いもよらぬアイデアが飛び出してくる。



「俺の家でやんのはどうだ?」

「え…………え?」



 泰兎の眉が八の字に吊り下がる。異様な空気に、野次馬のように先ほどの鳥が舞い戻ってきた。