ばりばりと音を立てて、包装紙は破かれた。
昼休み。始業式の翌日、九日。燦々と照る太陽が木漏れ日をつくる四月。購買で買った牛乳パンが、学校裏のベンチにて開けられる。近くに人はいない。外で昼を食べる生徒は中庭か屋上かで二分されていて、古びたベンチ二つと、渋い品揃えの自動販売機と、「物静かな特待生くん」がいるところには誰も寄ってこない。
だから物静かな特待生くんー名を白崎泰兎と言うーは蟻の行列を見ながらパンを齧っていた。その群れを見るか、時折やってくるスズメにパンの欠片を寄越すかしかやることがないからだ。
骨を丈夫にするには、カルシウムを摂る必要がある。カルシウムを摂るには、牛乳を摂る必要がある。背を伸ばしたいという思いからつながったこの食事も、彼はとっくに飽きていた。列に遅れ必死に追いつこうとしている一匹を眺める。すると、不意に地面が暗くなった。
「なあ」
いや、影ができた、という方が正しい。アンナチュラルな現象である。そんなことを考えながら、頭上から降りかかってきた声に向かって、泰兎は顔をあげた。
「俺にベンキョウ、教えてくれねえ?」
「……」
この状況を理解するまでに三秒。誰なんだろうと推測するのに六秒。わからないという結論が出るのに一秒。計十秒の沈黙の間に、彼の問いへの答えを用意することはできなかった。
「ベンキョウ。キョウカショモクモク読んでペンでカリカリするあれ。教えてほしいんだけど」
聞こえていないと思ったのか、無視されたと思ったのか、どっちだろうと関係ないと言わんばかりに、彼はもう一度問いを投げかけてきた。長い足を見事なまでに開脚し、視線を合わせてくる。泰兎は座っているのにだ。瞳から伝わる圧に、泰兎は負けてしまった。
「だ、誰…ですか?」
面倒臭い雰囲気を感じたものの、この学校に入って誰かから話しかけられたのは初めてであったため、嬉しさの方が上回り、泰兎は彼と会話することを試みた。
「三組の雪岡狼。トクイなのはケンカ。苦手なのはそれ以外」
ユキオカロウ。後の不穏な言葉は置いておいて、泰兎はその名前を知っていた。
名前を聞いたのは反応を確かめるためであった。こちらの問いかけに対してどう出るか、それだけで相手の性格は何となく探ることができる。
なぜ知っていたのか、簡単である。彼があまりにも有名すぎるからだ。
もともとこの高校には不良が多い。それを取り締まるために生徒会やら教師やらがあの手この手を使っているが、それすらも跳ね除ける規格外に強い人物は数名いる。生徒たちは彼らを恐れ、「狂人会」という俗称を付けていた。それを泰兎は耳にしていたから、平然ぶっていても内心は震えていた。
「かっこいい、名前ですね」「次」
「…はい?」
「俺がジコショーカイしただろ。次はそっちの番」
えぇ…。泰兎は心底困惑した。先程から一回もまともなキャッチボールができていないように思えた。
それでも狼の言動に従ったのは、彼がその狂人会の一員であるからだけではない。狼が有無を言わせない見た目をしていたからだ。百八十は優に超えているであろう図体と地毛とは思えない青々とした髪。加えてこの目つき。見た目で判断することは良くないが、狼はこの外見すらも利用して自分の意のままとしているのだろう。一連のやりとりを通してそう感じた。
「白崎泰兎です。一組です。…よろしく」
「どうやって書くのタイトって」
「えっと…安泰の泰の字に、兎です」
「アンタイ……よくわかんねえけど、ウサギね。おぼえた」
変に覚えられていないだろうか。泰兎は心配しつつも、狼が話しかけてきた理由でもある本来の目的を尋ねた。
「それで、えっと、勉強を教えてほしいんですよね。なんで、僕に?」
「ない」
「ない?」
「理由なんてない」
「…」
泰兎はひどく困っていた。どうやったらこの場から逃げ出せるんだろうかと、そんなことすら考えていた。
泰兎の周りにいるのは賢い人間ばかりだ。常に冷静沈着。相手の気持ちを慮って、発言をする行動をする。そんな人とばかり接していた泰兎にとって、狼はイレギュラーな存在だった。
「クラスでつるんでる奴らが、タイトのことをトクタイセイって話してた。頭いいんだろ、トクタイセイって」
「それだけ、ですか」
「うん。それだけ」
非常に単純な理由。そんな子供の思いつきのような発想を実際に行動に移す人に、泰兎は初めて会った。
泰兎は頷こうとしていた。それしか選択肢がなかった。YESと言うことによって自分に与えられる労力と、NOと言うことによって襲いかかってくる悲劇。どちらがより重たいのか、天秤に乗せずとも分かっていた。
だが少し、ほんの少しである。彼の中に我儘という感情が芽生えた。いつもならありえないことだ。ただ、狼だって自分にこんな我儘を言ってきてるじゃないか。自分だって言って構わないのではないか。そんな悪魔の囁きが、泰兎の耳にはハッキリと聞こえた。僕が勉強を教えるのなら。
代わりに、喧嘩を、教えてほしい。
恥ずかしくて誰にも言ってこなかった悩み。悩みであり願い。泰兎は強くなりたかった。喧嘩という物理的なもの、単純な体の大きさ、何もかも認めてあげられる心の広さ。全てを包含した「強さ」というものを、泰兎はずっと手に入れたかった。
「いいぜ」
天使の声ーではなかった。目の前にいる大男から発せられたものだ。
「いいぜ…? な、何がですか?」
「いや何がって。今言ったことだよ。ケンカ、教えてやる」
「ケンカ、教えてやる……うえええええ!? え、なんで!? 声出てました!?」
「ああ」
終わった。と、泰兎は単にそう思った。なんだってこの口は大事な時に自我が生えてしまうのか。「誰にも言ってこなかった悩み」というのは一番の親友に打ち明けるからこそ許されるのであって、初対面の人間に話していいことではない。流行の波に乗ろうと数々の漫画を読んで唯一得られた知識だ。それすらも今、朽ち果ててしまった。
「まあたしかに、俺のヨーボーだけをずっと聞いてもらうのもフビョードーだしな。乗ったぜ」
「いや、あの、ちょっと待っ…!」
一体どこから僕は声を出してたんですか。口から出かかった嘆きの問いも、立ち上がった狼にはついぞ聞くことが出来なかった。
「明日もここに来るから。忘れんなよ?」
そう言って開いていた足を閉じ背を向けて歩き出す狼を、泰兎はただ見つめる。
「あ、あと」
はたと足を止める。やけにエモーショナルな動きでゆっくりと振り向き、こう付け足した。
「呼び方は狼くんでよろしく。ケーゴもキンシね。じゃ」
終わった。と、泰兎は再びそう思った。掲げた右手をひらひらと振り、ブレザーのポケットに入れて今度こそ狼は歩いていく。呆然としながら口に入れた牛乳パンは、おそろしいほどに何の味もしなかった。
翌日。四限の終了と昼休みの到来を知らせる鐘が鳴り終わらないうちに、泰兎は教室を出た。手に「中間試験対策プリント」と書かれた分厚い紙束を持ちながら。購買で人混みに揉まれている時も、手の力を緩めることはなかった。貴重な睡眠時間を削って作ったものだ。付け焼き刃とは言え、必ず満足しました、ありがとうございますと言わせてやる。徹夜が生み出す奇天烈な情緒を育みながら、ズンズンと裏庭へ闊歩した。彼が来るまで腹ごしらえでもしていよう、などと考えながら重い扉を開け、左に曲がる。お馴染みのベンチには先客がいた。奴だ。
「よお」
「…」
「なんだそのビミョーなカオは」
「してませんよ」
「ません?」
「うっ……してないよ」
「よし」
左手でベンチを二回叩く。ここに座れという合図だ。選択の余地などなしに、泰兎は隣に腰を下ろした。
「どうせ来ないとか思ったんだろ。さっきのカオでわかるぜ」
「うん。正直」
ハッ、と狼は細かく笑った。
「ヤクソクはやぶらねえよ。俺から言ったことだしな」
シャツの第一ボタンを開けた状態で言われても説得力が無いなあ。泰兎はそんなことを思った。もちろん声には出さなかった。深呼吸を一つして、泰兎は本題に入った。
「作ってきました…きたよ」
まだ慣れないタメ口の恥ずかしさを隠すように、押し付けるようにして狼の太腿に紙束を置く。
「時間がなかったから基礎部分しかまとめられなかったけど、国数理社英、五科目あるから。それさえ頭に入れておけば赤点は免れるんじゃないかな」
どうだ、と少し自信を滲ませながら簡単に説明をする。さぞ感動しているだろう、というかそうじゃないとこちらに対する対価がない、と思いながら狼の顔を覗き見た。彼は固まっていた。
「聞いてる?」
「…あ、ああ。わりい。ほんとに作ってくるとは思わなくてよ」
狼は呆気に取られていた。泰兎としてはただ狼が怖かったという、作った理由はそれだけなのだが、狼にはそれが分からなかった。
「…今まで、ヤクソクをやぶられたことの方が多かったからな。今回だって俺が勝手にたのんだことだし、どうせなんもしてこねえ、なんならもう来ねえんじゃねえかって思ったよ。だからイガイに思ったってだけだ。あんがとよ」
(あれ…? そうじゃん)
無骨な感謝の言葉を受け取りながら、泰兎の思考は一人歩きしていた。
(作ってこいなんて一言も言われてないじゃん。教えてほしい、って言われただけで、ただ心得を聞きたかっただけなのかもしれないし。それなのにこんな厚すぎるプリントなんか作ってきて…重いな、僕)
「おい、何ぼーっとしてんだよ」
狼の声にハッと意識をもとに戻す。やけに不思議がった顔を向けられて、泰兎は気づけば口を開いていた。
「……僕の方こそ、来ないと思ってたよ。本当に。今までにこういう機会が無かったっていうのもそうだけど…今日みたいに、勝手に自分で解釈して行動に走っちゃうってとこが僕の悪い癖なんだ。相手はそれを望んでないかもしれないのに……ほんとに勝手に、全部が相手のためになると思っちゃって。…そういう人間だから、周りもあまり関わろうとしない」
一度話し出すと、今までの躊躇いは何だったのかと疑うほどにスラスラと言葉が溢れ出てきた。
「今日のことだって…狼くんも言ってたけどさ。作ってこいなんて言われてないんだよね。勉強を教えてほしいと、明日もここに来るからと、忘れるなよだけで、それだけの台詞から僕は勝手に想像して、ああ作った方が良いのかなって」「うれしいよ」
制御できなくなっていた泰兎の口を止めたのは、狼だった。
「イガイに思っただけでイヤなんて一回も言ってねーし何ならうれしいし。俺のために何かしてくれる人がいたんだ、って」
彼の言葉を聞き逃すまいと、泰兎は必死に耳を傾けた。
「良いんじゃねえの、そのセイカクのままで。やらないぜんよりやるぎぜん、みたいなのあるだろ。わかんねえけど」
やらない善よりやる偽善。その言葉の存在を泰兎はもちろん知っていた。が、人に励ましとして言われたのは初めてであった。特段心が弾む言葉、という訳ではないが、意味を知らない人間から掛けられたそれには、不思議と力を感じた。
「そうだね。そう思うことにするよ」
ありがとう、と真正面から感謝を伝える。おー、という気の抜けた返事をしながら狼はプリントをパラパラと捲る。その仕草に、これまでの言動に、勝手に抱いていた印象の皮が少し剥がれる音がした。
(……思っていたより、怖くないのかもしれない。それどころじゃない。知ってる人が少ないだけで、本当は優しくて、器が広くて、すごく格好良い)
まだ知り合って一日しか経っていないというのに、泰兎はすでに狼の潜在的な一面に気付き、触れていた。荒々しいけれどどこか温かい。静かな温もりを感じていた、そんな時だった。
「すまん…………ぜんぶ、わかんねえ」
「へ?」
狼はばつが悪そうな顔をしながら、そう泰兎に告げた。狼は全てのページを見終わっていた。その上で、分からないと言っている。
「わ、分からない? どこら辺が、とかじゃなくて、ぜ、全部?」
「……ああ」
そう、試験対策、それ以前の問題であった。狼は高校生として当たり前!と言われるような知識さえ、持ち合わせていなかったのである。
「そ、そんな……」
この学校のレベルは平均よりも低い。泰兎はそれを十分に理解した気でいた。
泰兎は生まれつき頭が良かった。中学こそ公立に通ったが、教師からも難関校を薦められる程には優秀であった。しかしそれを蹴って、この高校を受験し、今の特待生という肩書きを手に入れた。わざわざそうする理由が彼にはあった。
だからこそ…嫌味な言い方になってしまうが、泰兎には「勉強が出来ない人」を理解することが出来なかった。
(どうしよう)
泰兎の計画は完璧であった。いや、狼に絡まれている時点で初めから完璧ではないのだが、その”バグ”すらも乗り越えて、受け入れた上での計算をしていた。狼がここまで自分とかけ離れているとは思っていなかった。
「すまん。せっかく、作ってくれたっていうのに」
表情に罪悪感が滲み出ている。例えるなら、そう、恋人が亡くなったことを知り、悲壮感を巡らせながら病院に駆けつけてくる漫画の主人公のような、そんな感じだ。少し大袈裟ではないか?と泰兎は思った。淡々と詰め寄ってきたり、かと思えば感情を露わにしたり、掴みどころが無さすぎるだろうとまで。
「……分かった。大丈夫だよ。もっと基礎的なところから始めようか。そのプリントは狼くんに渡すし、今日のよりも簡単にしたもの、明日また持ってくるよ」
無理しているのではないか、と思った人も少なくないだろう。狼だってそう思っている。
しかしこの泰兎、不安や焦りなどは抱えているものの、嫌という感情は全く持っていなかった。友達と呼べる存在がいないため放課後、休日ともに基本暇であるし、何よりこうした一連のやり取りを通して、
(なんか……なんか友達っぽい……!)
と思っているのである。
狂人会の一員だと恐れられる人間を相手にしてもそう思ってしまう。それぐらい、泰兎は友情というものに飢えていた。
しかしこれはあくまで泰兎の中で完結している感情であり、狼にこの旨を伝えてはいない。そのため、
「……お前、いい奴だな」
「ん? ごめん、何か言った?」
「いや。何でもねえ」
泰兎の狼に対する印象の変化と同じぐらい、いやそれよりもっと、狼の泰兎に対する好感度が上がったことは、泰兎は知る由もなかった。
昼休み。始業式の翌日、九日。燦々と照る太陽が木漏れ日をつくる四月。購買で買った牛乳パンが、学校裏のベンチにて開けられる。近くに人はいない。外で昼を食べる生徒は中庭か屋上かで二分されていて、古びたベンチ二つと、渋い品揃えの自動販売機と、「物静かな特待生くん」がいるところには誰も寄ってこない。
だから物静かな特待生くんー名を白崎泰兎と言うーは蟻の行列を見ながらパンを齧っていた。その群れを見るか、時折やってくるスズメにパンの欠片を寄越すかしかやることがないからだ。
骨を丈夫にするには、カルシウムを摂る必要がある。カルシウムを摂るには、牛乳を摂る必要がある。背を伸ばしたいという思いからつながったこの食事も、彼はとっくに飽きていた。列に遅れ必死に追いつこうとしている一匹を眺める。すると、不意に地面が暗くなった。
「なあ」
いや、影ができた、という方が正しい。アンナチュラルな現象である。そんなことを考えながら、頭上から降りかかってきた声に向かって、泰兎は顔をあげた。
「俺にベンキョウ、教えてくれねえ?」
「……」
この状況を理解するまでに三秒。誰なんだろうと推測するのに六秒。わからないという結論が出るのに一秒。計十秒の沈黙の間に、彼の問いへの答えを用意することはできなかった。
「ベンキョウ。キョウカショモクモク読んでペンでカリカリするあれ。教えてほしいんだけど」
聞こえていないと思ったのか、無視されたと思ったのか、どっちだろうと関係ないと言わんばかりに、彼はもう一度問いを投げかけてきた。長い足を見事なまでに開脚し、視線を合わせてくる。泰兎は座っているのにだ。瞳から伝わる圧に、泰兎は負けてしまった。
「だ、誰…ですか?」
面倒臭い雰囲気を感じたものの、この学校に入って誰かから話しかけられたのは初めてであったため、嬉しさの方が上回り、泰兎は彼と会話することを試みた。
「三組の雪岡狼。トクイなのはケンカ。苦手なのはそれ以外」
ユキオカロウ。後の不穏な言葉は置いておいて、泰兎はその名前を知っていた。
名前を聞いたのは反応を確かめるためであった。こちらの問いかけに対してどう出るか、それだけで相手の性格は何となく探ることができる。
なぜ知っていたのか、簡単である。彼があまりにも有名すぎるからだ。
もともとこの高校には不良が多い。それを取り締まるために生徒会やら教師やらがあの手この手を使っているが、それすらも跳ね除ける規格外に強い人物は数名いる。生徒たちは彼らを恐れ、「狂人会」という俗称を付けていた。それを泰兎は耳にしていたから、平然ぶっていても内心は震えていた。
「かっこいい、名前ですね」「次」
「…はい?」
「俺がジコショーカイしただろ。次はそっちの番」
えぇ…。泰兎は心底困惑した。先程から一回もまともなキャッチボールができていないように思えた。
それでも狼の言動に従ったのは、彼がその狂人会の一員であるからだけではない。狼が有無を言わせない見た目をしていたからだ。百八十は優に超えているであろう図体と地毛とは思えない青々とした髪。加えてこの目つき。見た目で判断することは良くないが、狼はこの外見すらも利用して自分の意のままとしているのだろう。一連のやりとりを通してそう感じた。
「白崎泰兎です。一組です。…よろしく」
「どうやって書くのタイトって」
「えっと…安泰の泰の字に、兎です」
「アンタイ……よくわかんねえけど、ウサギね。おぼえた」
変に覚えられていないだろうか。泰兎は心配しつつも、狼が話しかけてきた理由でもある本来の目的を尋ねた。
「それで、えっと、勉強を教えてほしいんですよね。なんで、僕に?」
「ない」
「ない?」
「理由なんてない」
「…」
泰兎はひどく困っていた。どうやったらこの場から逃げ出せるんだろうかと、そんなことすら考えていた。
泰兎の周りにいるのは賢い人間ばかりだ。常に冷静沈着。相手の気持ちを慮って、発言をする行動をする。そんな人とばかり接していた泰兎にとって、狼はイレギュラーな存在だった。
「クラスでつるんでる奴らが、タイトのことをトクタイセイって話してた。頭いいんだろ、トクタイセイって」
「それだけ、ですか」
「うん。それだけ」
非常に単純な理由。そんな子供の思いつきのような発想を実際に行動に移す人に、泰兎は初めて会った。
泰兎は頷こうとしていた。それしか選択肢がなかった。YESと言うことによって自分に与えられる労力と、NOと言うことによって襲いかかってくる悲劇。どちらがより重たいのか、天秤に乗せずとも分かっていた。
だが少し、ほんの少しである。彼の中に我儘という感情が芽生えた。いつもならありえないことだ。ただ、狼だって自分にこんな我儘を言ってきてるじゃないか。自分だって言って構わないのではないか。そんな悪魔の囁きが、泰兎の耳にはハッキリと聞こえた。僕が勉強を教えるのなら。
代わりに、喧嘩を、教えてほしい。
恥ずかしくて誰にも言ってこなかった悩み。悩みであり願い。泰兎は強くなりたかった。喧嘩という物理的なもの、単純な体の大きさ、何もかも認めてあげられる心の広さ。全てを包含した「強さ」というものを、泰兎はずっと手に入れたかった。
「いいぜ」
天使の声ーではなかった。目の前にいる大男から発せられたものだ。
「いいぜ…? な、何がですか?」
「いや何がって。今言ったことだよ。ケンカ、教えてやる」
「ケンカ、教えてやる……うえええええ!? え、なんで!? 声出てました!?」
「ああ」
終わった。と、泰兎は単にそう思った。なんだってこの口は大事な時に自我が生えてしまうのか。「誰にも言ってこなかった悩み」というのは一番の親友に打ち明けるからこそ許されるのであって、初対面の人間に話していいことではない。流行の波に乗ろうと数々の漫画を読んで唯一得られた知識だ。それすらも今、朽ち果ててしまった。
「まあたしかに、俺のヨーボーだけをずっと聞いてもらうのもフビョードーだしな。乗ったぜ」
「いや、あの、ちょっと待っ…!」
一体どこから僕は声を出してたんですか。口から出かかった嘆きの問いも、立ち上がった狼にはついぞ聞くことが出来なかった。
「明日もここに来るから。忘れんなよ?」
そう言って開いていた足を閉じ背を向けて歩き出す狼を、泰兎はただ見つめる。
「あ、あと」
はたと足を止める。やけにエモーショナルな動きでゆっくりと振り向き、こう付け足した。
「呼び方は狼くんでよろしく。ケーゴもキンシね。じゃ」
終わった。と、泰兎は再びそう思った。掲げた右手をひらひらと振り、ブレザーのポケットに入れて今度こそ狼は歩いていく。呆然としながら口に入れた牛乳パンは、おそろしいほどに何の味もしなかった。
翌日。四限の終了と昼休みの到来を知らせる鐘が鳴り終わらないうちに、泰兎は教室を出た。手に「中間試験対策プリント」と書かれた分厚い紙束を持ちながら。購買で人混みに揉まれている時も、手の力を緩めることはなかった。貴重な睡眠時間を削って作ったものだ。付け焼き刃とは言え、必ず満足しました、ありがとうございますと言わせてやる。徹夜が生み出す奇天烈な情緒を育みながら、ズンズンと裏庭へ闊歩した。彼が来るまで腹ごしらえでもしていよう、などと考えながら重い扉を開け、左に曲がる。お馴染みのベンチには先客がいた。奴だ。
「よお」
「…」
「なんだそのビミョーなカオは」
「してませんよ」
「ません?」
「うっ……してないよ」
「よし」
左手でベンチを二回叩く。ここに座れという合図だ。選択の余地などなしに、泰兎は隣に腰を下ろした。
「どうせ来ないとか思ったんだろ。さっきのカオでわかるぜ」
「うん。正直」
ハッ、と狼は細かく笑った。
「ヤクソクはやぶらねえよ。俺から言ったことだしな」
シャツの第一ボタンを開けた状態で言われても説得力が無いなあ。泰兎はそんなことを思った。もちろん声には出さなかった。深呼吸を一つして、泰兎は本題に入った。
「作ってきました…きたよ」
まだ慣れないタメ口の恥ずかしさを隠すように、押し付けるようにして狼の太腿に紙束を置く。
「時間がなかったから基礎部分しかまとめられなかったけど、国数理社英、五科目あるから。それさえ頭に入れておけば赤点は免れるんじゃないかな」
どうだ、と少し自信を滲ませながら簡単に説明をする。さぞ感動しているだろう、というかそうじゃないとこちらに対する対価がない、と思いながら狼の顔を覗き見た。彼は固まっていた。
「聞いてる?」
「…あ、ああ。わりい。ほんとに作ってくるとは思わなくてよ」
狼は呆気に取られていた。泰兎としてはただ狼が怖かったという、作った理由はそれだけなのだが、狼にはそれが分からなかった。
「…今まで、ヤクソクをやぶられたことの方が多かったからな。今回だって俺が勝手にたのんだことだし、どうせなんもしてこねえ、なんならもう来ねえんじゃねえかって思ったよ。だからイガイに思ったってだけだ。あんがとよ」
(あれ…? そうじゃん)
無骨な感謝の言葉を受け取りながら、泰兎の思考は一人歩きしていた。
(作ってこいなんて一言も言われてないじゃん。教えてほしい、って言われただけで、ただ心得を聞きたかっただけなのかもしれないし。それなのにこんな厚すぎるプリントなんか作ってきて…重いな、僕)
「おい、何ぼーっとしてんだよ」
狼の声にハッと意識をもとに戻す。やけに不思議がった顔を向けられて、泰兎は気づけば口を開いていた。
「……僕の方こそ、来ないと思ってたよ。本当に。今までにこういう機会が無かったっていうのもそうだけど…今日みたいに、勝手に自分で解釈して行動に走っちゃうってとこが僕の悪い癖なんだ。相手はそれを望んでないかもしれないのに……ほんとに勝手に、全部が相手のためになると思っちゃって。…そういう人間だから、周りもあまり関わろうとしない」
一度話し出すと、今までの躊躇いは何だったのかと疑うほどにスラスラと言葉が溢れ出てきた。
「今日のことだって…狼くんも言ってたけどさ。作ってこいなんて言われてないんだよね。勉強を教えてほしいと、明日もここに来るからと、忘れるなよだけで、それだけの台詞から僕は勝手に想像して、ああ作った方が良いのかなって」「うれしいよ」
制御できなくなっていた泰兎の口を止めたのは、狼だった。
「イガイに思っただけでイヤなんて一回も言ってねーし何ならうれしいし。俺のために何かしてくれる人がいたんだ、って」
彼の言葉を聞き逃すまいと、泰兎は必死に耳を傾けた。
「良いんじゃねえの、そのセイカクのままで。やらないぜんよりやるぎぜん、みたいなのあるだろ。わかんねえけど」
やらない善よりやる偽善。その言葉の存在を泰兎はもちろん知っていた。が、人に励ましとして言われたのは初めてであった。特段心が弾む言葉、という訳ではないが、意味を知らない人間から掛けられたそれには、不思議と力を感じた。
「そうだね。そう思うことにするよ」
ありがとう、と真正面から感謝を伝える。おー、という気の抜けた返事をしながら狼はプリントをパラパラと捲る。その仕草に、これまでの言動に、勝手に抱いていた印象の皮が少し剥がれる音がした。
(……思っていたより、怖くないのかもしれない。それどころじゃない。知ってる人が少ないだけで、本当は優しくて、器が広くて、すごく格好良い)
まだ知り合って一日しか経っていないというのに、泰兎はすでに狼の潜在的な一面に気付き、触れていた。荒々しいけれどどこか温かい。静かな温もりを感じていた、そんな時だった。
「すまん…………ぜんぶ、わかんねえ」
「へ?」
狼はばつが悪そうな顔をしながら、そう泰兎に告げた。狼は全てのページを見終わっていた。その上で、分からないと言っている。
「わ、分からない? どこら辺が、とかじゃなくて、ぜ、全部?」
「……ああ」
そう、試験対策、それ以前の問題であった。狼は高校生として当たり前!と言われるような知識さえ、持ち合わせていなかったのである。
「そ、そんな……」
この学校のレベルは平均よりも低い。泰兎はそれを十分に理解した気でいた。
泰兎は生まれつき頭が良かった。中学こそ公立に通ったが、教師からも難関校を薦められる程には優秀であった。しかしそれを蹴って、この高校を受験し、今の特待生という肩書きを手に入れた。わざわざそうする理由が彼にはあった。
だからこそ…嫌味な言い方になってしまうが、泰兎には「勉強が出来ない人」を理解することが出来なかった。
(どうしよう)
泰兎の計画は完璧であった。いや、狼に絡まれている時点で初めから完璧ではないのだが、その”バグ”すらも乗り越えて、受け入れた上での計算をしていた。狼がここまで自分とかけ離れているとは思っていなかった。
「すまん。せっかく、作ってくれたっていうのに」
表情に罪悪感が滲み出ている。例えるなら、そう、恋人が亡くなったことを知り、悲壮感を巡らせながら病院に駆けつけてくる漫画の主人公のような、そんな感じだ。少し大袈裟ではないか?と泰兎は思った。淡々と詰め寄ってきたり、かと思えば感情を露わにしたり、掴みどころが無さすぎるだろうとまで。
「……分かった。大丈夫だよ。もっと基礎的なところから始めようか。そのプリントは狼くんに渡すし、今日のよりも簡単にしたもの、明日また持ってくるよ」
無理しているのではないか、と思った人も少なくないだろう。狼だってそう思っている。
しかしこの泰兎、不安や焦りなどは抱えているものの、嫌という感情は全く持っていなかった。友達と呼べる存在がいないため放課後、休日ともに基本暇であるし、何よりこうした一連のやり取りを通して、
(なんか……なんか友達っぽい……!)
と思っているのである。
狂人会の一員だと恐れられる人間を相手にしてもそう思ってしまう。それぐらい、泰兎は友情というものに飢えていた。
しかしこれはあくまで泰兎の中で完結している感情であり、狼にこの旨を伝えてはいない。そのため、
「……お前、いい奴だな」
「ん? ごめん、何か言った?」
「いや。何でもねえ」
泰兎の狼に対する印象の変化と同じぐらい、いやそれよりもっと、狼の泰兎に対する好感度が上がったことは、泰兎は知る由もなかった。
