『日が暮れる前に帰らなきゃ……』
都会のど真ん中で焦りながら早足で進む。
慣れないスクランブル交差点では行き交う人の肩がぶつかりよろめく。
そしてふと気づく。
『あれっ…、ここって本当にイケブクロ?』
何度か来たことがあるはずの[イケブクロ]。当然今居る場所もそのつもりだった。ところが見渡すと全く知らない景色だったのだ。
商業施設も街中に流れる賑やかな音楽も、初めてでは無いはずなのに。
歩き回っているうちにどっか知らない街に来てしまったのだろうか。
足を止め茫然とした。
今朝方、ふとした思い付きで家を飛び出し、行き当たりばったりで電車に乗り込んだ。
家出だった。
母親と口論になりムカついて、色んなことが嫌になりその場の勢いで思いついたのだ。スマートフォンもお財布も置いてきていた。
ちょっとした反抗で、一度はやってみたかったっていうのもあって、それにすぐ帰るつもりだったから。
まさかこの歳で迷子になるなんて。
『ほんと、なんでスマホ置いてきたんだろう…』
今更だがものすごく馬鹿げたことをしたと酷く後悔した。
恥を忍んで交番でも何でも手段はあったはずだが、この時の私はパニックになっていて、とりあえず早く[イケブクロ駅]に行かなければという考えしかなくなっていた。
知っている駅にさえ行けば何とかなるだろうと。
道なんて分からないがひたすら人混みの中を進んだ。途中イベントでもあったのか、アニメキャラのTシャツを着た集団がどっと押し寄せ、もみくちゃにされる始末。やっと過ぎ去ったと思うのも束の間、次はやたら露出の激しいメイド服や、水着に近い面積の少ない服を着た女性の集団に出くわす。街中を堂々と歩く彼女達はさも当たり前かのようで、むしろ楽しげであった。
そして彼女達目当てだろうか、男性達が群がり始めたのを横目に、急いでその場を離れた。
悪寒が走った。
こんなことが街中で起こるなんて異様ともいえる状況。夜の繁華街ならおかしくはないのかもしれないが、今はまだ夕方くらい。
それにやっぱりいつもと何かが違う。
だんだんと受け入れがたい現実を感じ始め、恐怖さえ覚えるようだった。
『ここって、一体どこなの?』
じわりじわりと変わりつつある空の色を見ながら呟いた。
人混みが少なくなった路地で見つけたのは坂道。迷ってる暇などないと、急いで登った。
坂の途中では横脇に体育館があり、そして校舎らしき建物もあった。
なぜかほっとしていた。自分と歳が近い子がいる、そんな安易な理由。
今日は休日でもあって、生徒は少ないはず。それでも制服姿の子をちらほら見かけた。
坂を登っていると、頂上に見えてきたのは駅舎。生徒達はそれぞれ駅に入って行き、追いかけるように私も向かった。
駅に辿り着くなり、切らした息をそのままに膝から崩れ落ちそうになった。
そこは駅名が無かったからだ。
正確には無いのではなく、“読めない”のだ。ちゃんと文字で書かれているはずなのにどうしてだか知らない文字だった。
またしても理解に苦しむ。
『私、どうしちゃったんだろう』
改札も存在しない駅。
路線図の案内もやはり読めない文字しかなく、目眩すら覚える。
近くにいた制服姿の女子高生に、恐る恐る声を掛けてみることにした。
「あの、ちょっといいですか。……この駅はイケブクロですか?」
機械的にくるりとこちらに向くと、彼女が口を開く。
「⋯さあ?」
表情一つ変えずに放ったのはそれだけ。彼女は再び正面に向き直る。
「……えっ?」
思わず食い気味に身を乗り出し、目をパチクリさせる。
どこを見ているのか、その女子高生はぼうっとただ真正面を見つめている。
これ以上聞くのはどうも抵抗を感じて断念した。
そもそも、普通に電車に乗ってこの街に来たはずなのに、ぐにゃぐにゃと記憶が歪められていくかのように、どうやって電車に乗ってきたのかを思い出せない。
乗った駅は?降りた駅は?
思い出そうとすると、強い痛みが頭に走る。
『どうやって、ここに来たんだっけ⋯⋯だめだ。何も思い出せない』
──1番ホームに電車が参ります
構内アナウンスが流れ、困惑している間に電車が到着してしまった。
『乗る?乗らない?でも、これ逃したら次いつ電車来るか分からない』
バクバクと心臓が早鐘を打ち、緊迫した面持ちで葛藤する。
周囲の学生達は次々と電車に乗り込んでいく。
そうこうしている間に車掌が合図をし、いよいよ電車が発車してしまう時間。
『もう、いいやっ!』
大きい一歩で電車に乗り込む。すると、私が乗った瞬間、先に乗っていた学生達が数人電車を降りてしまった。
『な、なんで?』
そして狼狽える私を尻目に、まるで遊んでいるかのように、電車を降りたり乗ったりを繰り返した。最近ではこういうのが流行っているのだろうか。
だったら正気じゃない。さすがに悪戯が過ぎる気がした。悪質だ。
誰も注意しないことからも、日常的に行われている可能性がある。それとも、本当は私の反応を見て楽しんでいるのかも。何も知らないから、と。
にやにやした彼女等の不気味な笑みが、そう物語っているようだった。
駅名さえ、ここがどこかさえ知らない、場違いな私。
ただ一人。
── 出発します
アナウンスが流れるギリギリまで学生達の危険な行為は続いていた。
ガタンゴトンッ
行く先も知らない電車がゆっくり走り出す。
『あれ、あれ?……ちょっと待って』
学生達のおかしな行動に気を取られ、本当におかしい状況にやっと気づく。
自分が今手で掴んでいる手すりは、横に長く伸びていて、しかもその1本だけ。通常の吊革も座席すらも無い。他の乗客ももちろん長い手すりの棒を利用している。
『こんな電車、初めてだ』
とりあえずこれしかないのだから、掴んでいるしかない。
頭で整理しようにも、まずどこから始めればいいのかと、ぐるぐると思考は絡まった糸ようだ。
冷静さや考える時間さえも奪うように、アナウンスが再び流れた。
─── ここから先は大変揺れますので、しっかり手すりにお掴まり下さい
どきりと心臓が痛い程に鳴る。
掴んでいる手には冷や汗がじわりと伝う。
ヒューッ
どこからともなく冷たい風が入り込み、それが合図かのように車体はガタンと左右に大きく揺れ始めた。風もどんどん入り込み、それはすっかり暴風となった。
何もかも、全部がおかしい。紛れもなくそれが事実だ。
今この電車はどこを走っているのか、確認しようにも吹き荒れる風で窓の外は確認できない。頼りない手すりにしがみつくのがいっぱいいっぱいだ。
もしかしたら、振り落とされるかもしれない。そんな恐怖心が襲う。
今はもうこの状況をどうにか乗り切るしかなかった。
ゴウゴウと唸る風の中、アナウンスが流れた。
私が聞いた中でこれが最後のアナウンスだった。
─── ごくまれに、途中で降りるご乗客様がいらっしゃいますが、それはあまりお勧めしません。もし、下車されても再びご乗車することになるのですから……。もちろんお体が回復されてからですが。その点、よくご理解をお願い致します。
『はあ?な、何言ってんのっ』
いつもの電車なら有り得ない事を淡々と言っている。
そしてこの時、選択肢は一つしかないことを無残にもはっきり告げられたのだ。
最早諦めるしかないのか、そう思い始めた頃、風は止み揺れも収まった。
手すりからゆっくり体を離し、窓の方を向く。
しっかり窓は閉められていた。
窓の外は真っ白な光に覆われていて、まるでさっきまでの暴風が嘘のよう。それに何だか春の日差しの中のように暖かい。
『ああ、そっか、そうだったのか……』
ゴールが見えたような、正解が分かったような、そんな気分だった。
こじれる思考の中で頭の隅っこに追いやっていた、信じたくない、おかしな世界の仮説。
「……ははっ、ケンカなんてするんじゃなかった。何であんなこと言ったんだろう。何で家出しちゃったんだろう。……今日の夕飯何だったかな」
自嘲気味に笑うとポロッと涙が零れたのだった。
窓から注ぐ暖かい光をはずっと続き、そして電車内に吹く暴風も無く、ただただ穏やかに時間は流れていった。
都会のど真ん中で焦りながら早足で進む。
慣れないスクランブル交差点では行き交う人の肩がぶつかりよろめく。
そしてふと気づく。
『あれっ…、ここって本当にイケブクロ?』
何度か来たことがあるはずの[イケブクロ]。当然今居る場所もそのつもりだった。ところが見渡すと全く知らない景色だったのだ。
商業施設も街中に流れる賑やかな音楽も、初めてでは無いはずなのに。
歩き回っているうちにどっか知らない街に来てしまったのだろうか。
足を止め茫然とした。
今朝方、ふとした思い付きで家を飛び出し、行き当たりばったりで電車に乗り込んだ。
家出だった。
母親と口論になりムカついて、色んなことが嫌になりその場の勢いで思いついたのだ。スマートフォンもお財布も置いてきていた。
ちょっとした反抗で、一度はやってみたかったっていうのもあって、それにすぐ帰るつもりだったから。
まさかこの歳で迷子になるなんて。
『ほんと、なんでスマホ置いてきたんだろう…』
今更だがものすごく馬鹿げたことをしたと酷く後悔した。
恥を忍んで交番でも何でも手段はあったはずだが、この時の私はパニックになっていて、とりあえず早く[イケブクロ駅]に行かなければという考えしかなくなっていた。
知っている駅にさえ行けば何とかなるだろうと。
道なんて分からないがひたすら人混みの中を進んだ。途中イベントでもあったのか、アニメキャラのTシャツを着た集団がどっと押し寄せ、もみくちゃにされる始末。やっと過ぎ去ったと思うのも束の間、次はやたら露出の激しいメイド服や、水着に近い面積の少ない服を着た女性の集団に出くわす。街中を堂々と歩く彼女達はさも当たり前かのようで、むしろ楽しげであった。
そして彼女達目当てだろうか、男性達が群がり始めたのを横目に、急いでその場を離れた。
悪寒が走った。
こんなことが街中で起こるなんて異様ともいえる状況。夜の繁華街ならおかしくはないのかもしれないが、今はまだ夕方くらい。
それにやっぱりいつもと何かが違う。
だんだんと受け入れがたい現実を感じ始め、恐怖さえ覚えるようだった。
『ここって、一体どこなの?』
じわりじわりと変わりつつある空の色を見ながら呟いた。
人混みが少なくなった路地で見つけたのは坂道。迷ってる暇などないと、急いで登った。
坂の途中では横脇に体育館があり、そして校舎らしき建物もあった。
なぜかほっとしていた。自分と歳が近い子がいる、そんな安易な理由。
今日は休日でもあって、生徒は少ないはず。それでも制服姿の子をちらほら見かけた。
坂を登っていると、頂上に見えてきたのは駅舎。生徒達はそれぞれ駅に入って行き、追いかけるように私も向かった。
駅に辿り着くなり、切らした息をそのままに膝から崩れ落ちそうになった。
そこは駅名が無かったからだ。
正確には無いのではなく、“読めない”のだ。ちゃんと文字で書かれているはずなのにどうしてだか知らない文字だった。
またしても理解に苦しむ。
『私、どうしちゃったんだろう』
改札も存在しない駅。
路線図の案内もやはり読めない文字しかなく、目眩すら覚える。
近くにいた制服姿の女子高生に、恐る恐る声を掛けてみることにした。
「あの、ちょっといいですか。……この駅はイケブクロですか?」
機械的にくるりとこちらに向くと、彼女が口を開く。
「⋯さあ?」
表情一つ変えずに放ったのはそれだけ。彼女は再び正面に向き直る。
「……えっ?」
思わず食い気味に身を乗り出し、目をパチクリさせる。
どこを見ているのか、その女子高生はぼうっとただ真正面を見つめている。
これ以上聞くのはどうも抵抗を感じて断念した。
そもそも、普通に電車に乗ってこの街に来たはずなのに、ぐにゃぐにゃと記憶が歪められていくかのように、どうやって電車に乗ってきたのかを思い出せない。
乗った駅は?降りた駅は?
思い出そうとすると、強い痛みが頭に走る。
『どうやって、ここに来たんだっけ⋯⋯だめだ。何も思い出せない』
──1番ホームに電車が参ります
構内アナウンスが流れ、困惑している間に電車が到着してしまった。
『乗る?乗らない?でも、これ逃したら次いつ電車来るか分からない』
バクバクと心臓が早鐘を打ち、緊迫した面持ちで葛藤する。
周囲の学生達は次々と電車に乗り込んでいく。
そうこうしている間に車掌が合図をし、いよいよ電車が発車してしまう時間。
『もう、いいやっ!』
大きい一歩で電車に乗り込む。すると、私が乗った瞬間、先に乗っていた学生達が数人電車を降りてしまった。
『な、なんで?』
そして狼狽える私を尻目に、まるで遊んでいるかのように、電車を降りたり乗ったりを繰り返した。最近ではこういうのが流行っているのだろうか。
だったら正気じゃない。さすがに悪戯が過ぎる気がした。悪質だ。
誰も注意しないことからも、日常的に行われている可能性がある。それとも、本当は私の反応を見て楽しんでいるのかも。何も知らないから、と。
にやにやした彼女等の不気味な笑みが、そう物語っているようだった。
駅名さえ、ここがどこかさえ知らない、場違いな私。
ただ一人。
── 出発します
アナウンスが流れるギリギリまで学生達の危険な行為は続いていた。
ガタンゴトンッ
行く先も知らない電車がゆっくり走り出す。
『あれ、あれ?……ちょっと待って』
学生達のおかしな行動に気を取られ、本当におかしい状況にやっと気づく。
自分が今手で掴んでいる手すりは、横に長く伸びていて、しかもその1本だけ。通常の吊革も座席すらも無い。他の乗客ももちろん長い手すりの棒を利用している。
『こんな電車、初めてだ』
とりあえずこれしかないのだから、掴んでいるしかない。
頭で整理しようにも、まずどこから始めればいいのかと、ぐるぐると思考は絡まった糸ようだ。
冷静さや考える時間さえも奪うように、アナウンスが再び流れた。
─── ここから先は大変揺れますので、しっかり手すりにお掴まり下さい
どきりと心臓が痛い程に鳴る。
掴んでいる手には冷や汗がじわりと伝う。
ヒューッ
どこからともなく冷たい風が入り込み、それが合図かのように車体はガタンと左右に大きく揺れ始めた。風もどんどん入り込み、それはすっかり暴風となった。
何もかも、全部がおかしい。紛れもなくそれが事実だ。
今この電車はどこを走っているのか、確認しようにも吹き荒れる風で窓の外は確認できない。頼りない手すりにしがみつくのがいっぱいいっぱいだ。
もしかしたら、振り落とされるかもしれない。そんな恐怖心が襲う。
今はもうこの状況をどうにか乗り切るしかなかった。
ゴウゴウと唸る風の中、アナウンスが流れた。
私が聞いた中でこれが最後のアナウンスだった。
─── ごくまれに、途中で降りるご乗客様がいらっしゃいますが、それはあまりお勧めしません。もし、下車されても再びご乗車することになるのですから……。もちろんお体が回復されてからですが。その点、よくご理解をお願い致します。
『はあ?な、何言ってんのっ』
いつもの電車なら有り得ない事を淡々と言っている。
そしてこの時、選択肢は一つしかないことを無残にもはっきり告げられたのだ。
最早諦めるしかないのか、そう思い始めた頃、風は止み揺れも収まった。
手すりからゆっくり体を離し、窓の方を向く。
しっかり窓は閉められていた。
窓の外は真っ白な光に覆われていて、まるでさっきまでの暴風が嘘のよう。それに何だか春の日差しの中のように暖かい。
『ああ、そっか、そうだったのか……』
ゴールが見えたような、正解が分かったような、そんな気分だった。
こじれる思考の中で頭の隅っこに追いやっていた、信じたくない、おかしな世界の仮説。
「……ははっ、ケンカなんてするんじゃなかった。何であんなこと言ったんだろう。何で家出しちゃったんだろう。……今日の夕飯何だったかな」
自嘲気味に笑うとポロッと涙が零れたのだった。
窓から注ぐ暖かい光をはずっと続き、そして電車内に吹く暴風も無く、ただただ穏やかに時間は流れていった。
