小日向に龍興寺という禅寺がある。かなり急勾配の坂を登りきった先にあり、徳川綱吉が母・桂昌院のために建立した護国寺からも近い場所にあった。
この日、吉保は一人の尼僧と会うために、およそ二月ぶりにこの寺を訪れた。
問題の尼僧は、一人、仏の前で祈りをささげていた。尼といっても髪は下ろしていない。まだ若い。事実、二十二歳にして表情にはあどけなさも見え隠れしていた。
「殿!」
吉保の姿に気づくと、すぐに走り寄って胸に抱きつく。
「この二月、あまりに長うございました。よもや染子のことをお忘れかと……」
「忘れておるわけがあるまい。わずか二月ではあるまいか」
「いえ、殿には二月でも、私にとっては二年に感じられるほど長いのでございます」
女の名は飯塚染子といった。京の出自で、一時期は江戸城大奥にもいた。今こうして禅寺にいるのには、それなりの理由があった。
「殿、染子はこの二月ほど、仏と対話しながら考えていたことがございます。人は死んだら、一体どうなるのでしょう?」
と、染子は何事かを憂えるように言った。その有様には、また奇妙な色気があった。
「なぜ、そのようなことを聞く?」
「恐ろしいのです。あのおり、刺客の白刃が私めがけて振り下ろされた際の光景が、幾度も夢に出てきて……」
染子は、かすかに目に涙を浮かべながら言った。華奢な体つきをしている。もしこの女人が、今の桂昌院のような地位に座ることとなっても、恐らくその重圧に耐えきれないのではあるまいか。
それほど染子は可憐な存在だった。ひと目見て強い印象を与えるほどの華美さを持つ女ではない。だが、静かに対座すると、不思議と視線を離しがたい気配をまとっていた。
やや面長の顔立ちに、白磁を思わせるきめ細やかな肌。血の気は薄いが、それがかえって尼僧という立場にふさわしい清澄さを際立たせている。眉は細く柔らかく弧を描き、切れ長の目は伏せられているときでさえ、内に秘めた感情の揺らぎを隠しきれない。強く見返すことはなく、どこか遠慮がちでありながら、ふとした瞬間に芯の強さをのぞかせる眼差しであった。
鼻筋はすっと通り、口元は小さく整っている。笑みを浮かべれば少女のようなあどけなさが表れ、沈黙のうちに祈りを捧げているときには、年齢以上に成熟した憂いが漂う。その二面性こそが、見る者の心を惑わせる所以であった。
体つきは華奢で、肩や腕は驚くほど細い。風が吹けば折れてしまいそうな儚さを感じさせる一方で、その内奥には、愛する者のためなら身を焼く覚悟すら秘めているように見えた。
そのくせ閨でのこととなると、別の染子が目ざめた。あまりにも激しく乱れる様は吉保を驚かせ、また喜ばせた。その点、正室の定子などは、どんな時でも毅然として女としての品位を崩さなかった。

染子は京に生まれた。元々は下級貴族の娘であったといわれる。宮中では、今の大奥総取締・右衛門佐に仕えていたこともあったという。右衛門佐が江戸へ赴いた後は、近衛家の姫君・熙子に仕えることとなった。
やがて熙子は、後に六代将軍となる甲府宰相・徳川綱豊のもとへ嫁ぐことになり、その際、染子も共に江戸に赴いた。ところが、綱豊のいる桜田館での生活にもようやく慣れたころ、かつて仕えていた右衛門佐からの誘いにより、江戸城大奥に上がることとなった。
ほどなくして、染子を信じられない事件がおそった。主である右衛門佐の伝言を伝えるため、将軍のもとを訪ねた際、あやまって将軍の手が付いたのである。以前から将軍綱吉は、右衛門佐の傍らに常に寄り添う染子に、不思議な魅力を感じていた。そして染子は妊娠した。
これは綱吉にとっても、将軍家にとっても決して表沙汰にできぬ事態であった。
染子は外聞をはばかり、密かに大奥を出て上総国市袋村という場所で綱吉の子を産むこととなった。ここは吉保の母の実家である。染子の出産の面倒は、すべて吉保が責任をもつこととなった。染子と吉保の間に心の絆が芽生えたのは、染子が市袋村にいる間のことだった。
染子は無事に嫡男・太郎を出産した。太郎は実は、将軍の隠し子だったのである。
しかし出産の喜びもつかの間、何者ともわからぬ刺客の白刃が染子を襲った。その場は、吉保と配下の侍たちがしっかりと染子を守り、事なきを得た。吉保には、刺客を差し向けた黒幕が誰なのか、薄々わかっていた。
ここで吉保は一計を案じた。綱吉に、染子が刺客の手にかかり命を落としたと嘘の報告をしたのである。そして太郎は、表向きは吉保の子として育てられることとなった。
「よもや、そなた――由希というおなごを存じておるか?」
吉保には、一つの疑念があった。
「どちら様ですか? その方は」
「知らぬならよい。いいか、よく聞け。人は死んだ後も魂は残る。これは確かなことだ。――いや、確かなものなど世に一つとしてない。そなたも、そしてわしも、今の世に生きたという確証はないのやもしれぬ」
「それでは、私がこの世に生まれ、生きて、殿を愛したということは、夢や幻でございましょうや?」
と、染子は吉保の言葉を半分は理解できずに聞き返した。
「わからぬ。ただ、人の縁だけは次の世も、その次の世も続く。たとえ今の世で、そなたとわし、この先いかなることがあろうと……」
「それでは次の世も、その次の世も、殿を愛してもよろしゅうございますか?」
「もちろんじゃ。必ずまた会おうぞ」
そのように優しい言葉をかけながらも、吉保はある異変に気づいていた。染子の背後にある襖が、染子も気づかぬうちに、いつの間にか開いていたのである。
吉保が染子のもとを辞去すると、そこに由希が立っていた。吉保はすでにわかっていた。由希がいたとしても、吉保のほかには誰にも見えないのである。現に背後に小姓が控えているが、まるで由希の存在に気づいていない。
「よいか、そなたにこれだけは申しておく。もし染子に何事かあれば、わしは腹切って果てて、魂は未来永劫そなたに祟るであろう」
と、吉保は恐ろしい顔で言った。
この日、吉保は一人の尼僧と会うために、およそ二月ぶりにこの寺を訪れた。
問題の尼僧は、一人、仏の前で祈りをささげていた。尼といっても髪は下ろしていない。まだ若い。事実、二十二歳にして表情にはあどけなさも見え隠れしていた。
「殿!」
吉保の姿に気づくと、すぐに走り寄って胸に抱きつく。
「この二月、あまりに長うございました。よもや染子のことをお忘れかと……」
「忘れておるわけがあるまい。わずか二月ではあるまいか」
「いえ、殿には二月でも、私にとっては二年に感じられるほど長いのでございます」
女の名は飯塚染子といった。京の出自で、一時期は江戸城大奥にもいた。今こうして禅寺にいるのには、それなりの理由があった。
「殿、染子はこの二月ほど、仏と対話しながら考えていたことがございます。人は死んだら、一体どうなるのでしょう?」
と、染子は何事かを憂えるように言った。その有様には、また奇妙な色気があった。
「なぜ、そのようなことを聞く?」
「恐ろしいのです。あのおり、刺客の白刃が私めがけて振り下ろされた際の光景が、幾度も夢に出てきて……」
染子は、かすかに目に涙を浮かべながら言った。華奢な体つきをしている。もしこの女人が、今の桂昌院のような地位に座ることとなっても、恐らくその重圧に耐えきれないのではあるまいか。
それほど染子は可憐な存在だった。ひと目見て強い印象を与えるほどの華美さを持つ女ではない。だが、静かに対座すると、不思議と視線を離しがたい気配をまとっていた。
やや面長の顔立ちに、白磁を思わせるきめ細やかな肌。血の気は薄いが、それがかえって尼僧という立場にふさわしい清澄さを際立たせている。眉は細く柔らかく弧を描き、切れ長の目は伏せられているときでさえ、内に秘めた感情の揺らぎを隠しきれない。強く見返すことはなく、どこか遠慮がちでありながら、ふとした瞬間に芯の強さをのぞかせる眼差しであった。
鼻筋はすっと通り、口元は小さく整っている。笑みを浮かべれば少女のようなあどけなさが表れ、沈黙のうちに祈りを捧げているときには、年齢以上に成熟した憂いが漂う。その二面性こそが、見る者の心を惑わせる所以であった。
体つきは華奢で、肩や腕は驚くほど細い。風が吹けば折れてしまいそうな儚さを感じさせる一方で、その内奥には、愛する者のためなら身を焼く覚悟すら秘めているように見えた。
そのくせ閨でのこととなると、別の染子が目ざめた。あまりにも激しく乱れる様は吉保を驚かせ、また喜ばせた。その点、正室の定子などは、どんな時でも毅然として女としての品位を崩さなかった。

染子は京に生まれた。元々は下級貴族の娘であったといわれる。宮中では、今の大奥総取締・右衛門佐に仕えていたこともあったという。右衛門佐が江戸へ赴いた後は、近衛家の姫君・熙子に仕えることとなった。
やがて熙子は、後に六代将軍となる甲府宰相・徳川綱豊のもとへ嫁ぐことになり、その際、染子も共に江戸に赴いた。ところが、綱豊のいる桜田館での生活にもようやく慣れたころ、かつて仕えていた右衛門佐からの誘いにより、江戸城大奥に上がることとなった。
ほどなくして、染子を信じられない事件がおそった。主である右衛門佐の伝言を伝えるため、将軍のもとを訪ねた際、あやまって将軍の手が付いたのである。以前から将軍綱吉は、右衛門佐の傍らに常に寄り添う染子に、不思議な魅力を感じていた。そして染子は妊娠した。
これは綱吉にとっても、将軍家にとっても決して表沙汰にできぬ事態であった。
染子は外聞をはばかり、密かに大奥を出て上総国市袋村という場所で綱吉の子を産むこととなった。ここは吉保の母の実家である。染子の出産の面倒は、すべて吉保が責任をもつこととなった。染子と吉保の間に心の絆が芽生えたのは、染子が市袋村にいる間のことだった。
染子は無事に嫡男・太郎を出産した。太郎は実は、将軍の隠し子だったのである。
しかし出産の喜びもつかの間、何者ともわからぬ刺客の白刃が染子を襲った。その場は、吉保と配下の侍たちがしっかりと染子を守り、事なきを得た。吉保には、刺客を差し向けた黒幕が誰なのか、薄々わかっていた。
ここで吉保は一計を案じた。綱吉に、染子が刺客の手にかかり命を落としたと嘘の報告をしたのである。そして太郎は、表向きは吉保の子として育てられることとなった。
「よもや、そなた――由希というおなごを存じておるか?」
吉保には、一つの疑念があった。
「どちら様ですか? その方は」
「知らぬならよい。いいか、よく聞け。人は死んだ後も魂は残る。これは確かなことだ。――いや、確かなものなど世に一つとしてない。そなたも、そしてわしも、今の世に生きたという確証はないのやもしれぬ」
「それでは、私がこの世に生まれ、生きて、殿を愛したということは、夢や幻でございましょうや?」
と、染子は吉保の言葉を半分は理解できずに聞き返した。
「わからぬ。ただ、人の縁だけは次の世も、その次の世も続く。たとえ今の世で、そなたとわし、この先いかなることがあろうと……」
「それでは次の世も、その次の世も、殿を愛してもよろしゅうございますか?」
「もちろんじゃ。必ずまた会おうぞ」
そのように優しい言葉をかけながらも、吉保はある異変に気づいていた。染子の背後にある襖が、染子も気づかぬうちに、いつの間にか開いていたのである。
吉保が染子のもとを辞去すると、そこに由希が立っていた。吉保はすでにわかっていた。由希がいたとしても、吉保のほかには誰にも見えないのである。現に背後に小姓が控えているが、まるで由希の存在に気づいていない。
「よいか、そなたにこれだけは申しておく。もし染子に何事かあれば、わしは腹切って果てて、魂は未来永劫そなたに祟るであろう」
と、吉保は恐ろしい顔で言った。
