母・桂昌院の四十九日を過ぎる頃から、綱吉の乱心はいよいよひどくなった。側近くに仕える者の中には、朝、家族と水盃を交わしてから出仕する者さえいた。
そしてついに、天下のご意見番を自他共に認める水戸光圀公が、意見言上のため江戸城を訪れる。
「恐れながら上様、上様は『平家物語』の冒頭を存じておりまするか?」
と光圀公は、年のわりによく通る声で言う。
「おごれる者久しからず、ただ春の夜の夢のごとしか……余を風の前の塵と申すつもりか?」
綱吉は、うるさそうに返答した。
この後、光圀と綱吉の間には、かなり激しいやり取りが交わされた。ときおり光圀が声を荒げ、綱吉もまた声を荒げる場面もあり、居並ぶ幕閣の面々は肝を冷やす。
そしてついに、光圀公は言った。
「これ以上、上様が間違った政を行うなら、ここに居並ぶ幕閣の面々とて、わかりませぬぞ」
「何を馬鹿な!」
この言葉に、幕閣の面々は一斉に顔色を変えた。しかし光圀公は、少しも動じる様子を見せない。
「上様、どうか百年後、二百年後のことを思われよ。そして、己がいかように思われているか、とくと考えなされよ」
最後は落ち着いた様子で、そう言った。
*
その夜、綱吉は珍しく御台所・鷹司信子を夜の相手として指名した。
「まったくもって疲れたわい。四半刻(およそ三十分)も説教されてしまった。水戸の爺、早くくたばればよいものを」
と、綱吉は苦笑しながら言う。
「それにしても……わしは、まことに百年後、二百年後の民に、何と思われておろうのう? やはり暴君、暗君と散々に言われておるのかのう?」
綱吉はしばし遠くを見つめ、沈黙した。
「歴史などというものは、しょせん記す者が作るものでござりまする。その者の筆次第で、暗君も名君とされ、また名君が馬鹿殿とされることさえありまする」
「ほう……さすが京のおなごは、言うことが違うのう」
「されば都は、王朝時代の藤原一族の御代より、平家が滅び、南朝もはかなく潰えました。足利幕府も滅び、戦国の世に至っても、支配者は幾度も交代いたしました。わかっておるのです、都人は。永遠に咲き続ける花などなきことを……」
信子は、珍しく笑みさえ浮かべて言った。
「ほう。では徳川も、いずれ滅びると、そなたは申すか?」
「そういえば、そろそろ都では、葵祭りの季節でございまするなあ」
将軍がかすかに怒りを露わにしたため、信子は話をそらした。
「ご存じですか、殿。王朝の昔、『源氏物語』に描かれた、葵祭りでの女同士の争いの逸話を?」
これは『源氏物語』に描かれた有名な物語である。光源氏の正室・葵の上は、賀茂祭(葵祭り)での光源氏の舞を一目見ようと、牛車で現地へ赴く。そこで光源氏の愛人である六条御息所と、車の場所を巡って争いとなった。
結局、御息所の車は強制的に退かされ、供の者たちから乱暴を受け、車も散々に破損する。この時の屈辱から、御息所は生霊となり、やがて葵が光源氏の子を宿すと、腹の子もろとも葵を呪い殺してしまうのである。
「上様、殿方はいつの世でも戦をいたします。そして必ず、勝つ者と負ける者が現れまする。なれど、おなごとて、いつの世でも争いまする。殿方の寵愛を得るために……。そして、いつの世でも、負けた者ほど無念なものはござりませぬ」
「何を申したいのじゃ、そなた?」
その時、将軍ははっきりと、信子から殺気を感じた。次の瞬間、小男の将軍に、信子は体重をかけてきた。
「汝にはわかりますまいて、負けた者の無念など! 上様、そして右大臣・藤原家里様。今宵こそ、我が無念……晴らしてくれん!」
「何を申しておるのじゃ、そなたは?」
将軍はしばし困惑した。ところがこの時、将軍の心の奥底から、何者かの声が響いた。
「逃げるのだ! とにかく逃げよ!」
将軍は危険を察知した。しかし、もう遅かった。信子は凄まじい力で首を締め上げる。
「やめよ、御台! 乱心したか!」
ようやくそれを振り払い、外へ出ようとしたその時、突如として天井から白布がするすると降りてきて、将軍の首に巻きついた。
そのまま将軍は、首吊り自殺の体となった。その光景を見ながら、信子はカラカラと笑い声をあげる。いや、そこにはすでに、十二単に身を包んだ見慣れぬ女が立っていた。
やがて将軍は、ぐったりとした。その時だった。鈍い音とともに、烏帽子を被り、紫の束帯に身を包んだ何者かが、将軍の体から抜け出すようにして地に伏した。
「お久しゅうござりまするなあ……右大臣・藤原家里様」
由希は、蛇のような目で言った。
「よせ、由希! これは何の真似じゃ!」
「私はそなたを信じた! なれど、そなたはことごとく裏切った。この無念、いかで晴らさんや!」
由希は、ものすごい剣幕で叫んだ。
「今こそ、そなたの魂を、この中に永久に封じ込めてくれん!」
そう言うと由希は、かつて家里から贈られた御守を取り出した。
「よせ! やめろ!」
家里の叫びも虚しく、突如として眩い光が走り、家里の姿は消えた。そして、由希の姿もまた消え失せた。
*
……天井から吊るされていた将軍は、そのまま誰からも発見されることなく、やがて白布が切れた。地に伏した将軍は、かすかに動いた。
「俺は……まだ生きているのか……?」
次の瞬間、将軍は激しく咳き込み、続いて吐血した。
突如、扉が開く。そこには見慣れぬ初老の男が立っていた。胸に縫い込まれた葵の紋は、その男が徳川家の人間であることを示していた。
「助けてくれ! 頼む!」
とっさに将軍綱吉は、初老の男に助けを求めた。しかし男は、その光景に衝撃を受けたのか、すぐに扉を閉めてしまった。
「誰かある!」
大音声をあげると、夜ではあったが、大奥の女中たちが数人集まってきた。
「上様、いかがいたされました?」
「その扉の先に、血まみれの男が倒れておった」
上様と呼ばれた男は、真っ青な顔で言った。
奥女中たちが扉を開くも、そこには布団が敷かれているだけで、誰もいなかった。
「そんな馬鹿な! 余は、確かに見たのじゃ!」
「上様、ここのところ諸外国とのこともあり、お疲れなのでありましょう。第一、ここは江戸城大奥。男が倒れていたとなれば、それだけで大事にござります」
言われてみれば、確かにその通りであった。ようやく上様と呼ばれた男も冷静になった。
しかし次の瞬間、「上様」の視線は、見慣れぬ黒紋付を着た女が正座しているのを捉えた。
「あれは何者じゃ!」
上様が叫び、一同も振り向いたが、その時には女の姿は消えていた。
*
大奥開かずの間伝説
(幕府の正式な発表によれば、五代将軍・綱吉の死因は麻疹とされている。しかし、綱吉が御台所・信子に殺されたという噂は、幕府滅亡の時まで、奥女中たちの間で語り継がれることとなった。
そして、綱吉の死からおよそ百五十年後。綱吉が殺されたという宇治の間の前で、徳川十二代将軍・家慶は、黒紋付を着た老女が、こちらに深々と頭を下げているのを見かける。
見覚えのない顔であったため、供の者に誰かと尋ねると、家慶以外の者には、誰一人その老女の姿は見えていなかった。そして家慶が振り返った時には、老女の姿はすでに消えていた。
将軍家慶の死は、それからわずか数日後のことであったという。)
