元禄怪奇余話~時をこえた復讐

……由希は強制的に右大臣・藤原家里の妾にされたとはいえ、衣食に困ることはなく、表向きには恵まれた暮らしを与えられていた。だがそれは、籠の中の鳥に与えられる餌と変わらぬものである。家里もまた、外目には由希に優しく振る舞っていた。その微笑の奥にあるのが、所有の意識であることを、由希は肌で感じ取っていた。

 ところが、由希が十九を迎えた年のことであった。桜の花びらが風にちぎれ、庭の白砂を血のように染めはじめる頃、惨事は起きた。

 ある晩、家里は由希の体を弄ぶように抱き、満足すると何事もなかったかのように寝床へ入った。夜半、日付が変わろうとする頃、腹の奥に鈍い違和感を覚え、家里は舌打ちして起き上がる。隣では、由希が身を縮めるように眠っている。吐息は浅く、悪夢に囚われているかのようであった。

 蝋燭の弱々しい炎を頼りに厠を済ませ、部屋へ戻ろうとしたその時――。

 廊下に、女房が一人、膝を折り、うつむいたまま座していた。髪は乱れ、顔は影に沈んでいる。家里は眉をひそめた。

「そなたは新入りか? 名は何と申す」

 女房は答えぬ。沈黙が、じっとりと空気を腐らせる。家里が苛立ち、再び声を張った瞬間だった。

「我が名は――汝の手により、無実の罪で隠岐へ流された、藤原義介なり!」

 女房が顔を上げた。白目が剥き、口元は歪み、もはや人のものではない。

「今こそ、その血と命をもって無念を晴らしてくれん!」

 絶叫とともに、女房は刃を振り上げた。月光を受けた刃が白く光り、次の瞬間、家里の視界を切り裂く。家里は反射的に身を引いたが、こめかみを掠め、皮膚が裂けた。熱い血が頬を伝い、床に滴り落ちる。

「誰か! 誰かおらぬか!」

 叫びは闇に吸われ、応える声はない。足がもつれ、家里は無様に転倒した。見下ろす女房の顔は、怒りと怨嗟に歪み、まさに般若であった。

 刃が振り下ろされる――。

「――危ない!」

 肉を裂く鈍い音。生温かい血が噴き上がり、女房の顔面を赤黒く染めた。

 しかし斬られたのは家里ではない。家里を庇い、身を投げ出した由希の太ももに、刃は深々と突き立っていた。骨に当たる感触が、女房の腕を震わせる。

 由希は声にならぬ悲鳴をあげ、床に崩れ落ちる。血は畳を濡らし、指の間から止めどなく溢れた。

「狼藉者!」

 ようやく駆けつけた者たちが女房を押さえつけた時、すでに女房は泡を吹き、白目を剥いたまま事切れていた。口元には、歪んだ笑みが残されていた。

 時は平安。死者の怨霊が人の身に憑き、恨みを果たそうとすることは、誰もが心の奥で恐れている現実であった。

 座が阿鼻叫喚に包まれる中、血塗れの由希は、人形のように家里の部屋へ運び込まれた。

「……由希の様子は、どうなのじゃ」

 血の匂いが残る部屋で、家里は医師に尋ねた。命に別状はない――その言葉に、家里は安堵の息をつく。ほどなく由希は目を覚ました。

「大事ないそうじゃ。しばらく養生すれば、元に戻ると申しておる」

 由希は、虚ろな目で家里を見つめる。その瞳の奥に宿るものを、家里は見ようとしなかった。

「では余は、政務がある。失礼する」

 立ち去ろうとした背に、か細い声が縋りつく。

「……もう、行かれるのですか」

 振り返った瞬間、由希の体が縋るように覆いかぶさった。血の匂いと、恐怖と、執着が混じり合う。

「梅妃様のもとへ……」

「違う。政だ」

「恐ろしいのです……。私は、本当に助かったのでございましょうか。もし、あの時死んでいたら……私の魂は、どこへ行くのでしょう」

「不吉なことを言うな!」

「……では、もし私が死んだら。魂だけでも、あなた様のおそばにいても……?」

 涙に濡れた由希の瞳を前に、家里は言葉を失った。

「……たとえ死んでも、余はそなたを離れぬ」

 甘言。だが由希は、その言葉に全てを賭けた。

「ならば……証を……」

 家里は懐からお守りを取り出し、由希に握らせる。

「そなたの魂と、余の魂は一つじゃ」

 由希はそれを胸に抱き、深く息を吸った。
 
 もちろんまだ幼い由希は、権力者の言葉の裏表などまだしらない。