寝ずの番

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「二宮くん、おはよう」
 営業2課の山本大祐が廊下で声をかけてきた。
 沙穂は振り返ると、軽く会釈をした。
「風邪引いてたって聞いたから心配したよ。もう大丈夫なの?」
「ご迷惑かけました」
「迷惑なんて、そんな。2課は1課とは違って公共施設が対象だからね。1課ほどノルマは厳しくないからね。でも、困った時はお互い様さ」
 山本大祐は確か、康介と同期だったはずだ。社内でも二人は馬が合って、オフの時も外出していた仲だと聞いた。
 康介の送別会でも幹事を買って出たほどだ。
 沙穂は彼を利用できないかと思った。大祐は沙穂に好意を寄せていた。営業部の飲み会でも、大祐の視線を感じていた。大祐は特定の恋人はおらず、社内でもうだつが上がらなかった。デキる康介に比べて、男性としての魅力も今一つだった。
 もちろん、沙穂も彼にはまったく興味がなかった。康介が会社を辞めてから、これ幸いと、やたら沙穂にまとわりつくようになった。
 さりげなく大祐は沙穂の肩に手を置いて、数回ポンポンと軽く叩いた。その瞬間、沙穂は身を捩らせた。
「あの、今夜、空いてますか?」
 沙穂は絞り出すように声を発した。
 その一言が意外だったのか、大祐はキツネにつままれたような顔をした。
「あ、ああ。スケジュールは空いているよ」
 大祐は笑いを噛みしめるような表情で答えた。
「ああ、よかった。実は山本さんに相談があるんです。よく行く居酒屋でいいですか?」
「もちろん。そうだ。個室を予約しておくよ。あそこなら人目につかない」
 大祐の鼻息が聞こえてきそうだ。早くもオスの本能を全開させている。
「じゃあ、お願いします」
 沙穂は一礼すると、颯爽と部署のある部屋に入った。何かを得るためには多少の犠牲はつきものだ。康介の居場所を彼は知っているだろう。その情報を引き出すには、まず彼を篭絡するしかない。康介に会えるなら、沙穂はプライドも何もかも捨てる覚悟はあった。
 それだけ康介に執着している自分が沙穂は好きだった。好きな人を追いかけているのは、昔ハマった韓流スターを追いかけている気分だった。

 居酒屋で腹を満たしている間、沙穂と山本大祐は互いにプライベートなことを話した。沙穂は大祐のプライベートなんてちっとも興味がなかった。だが、まずは打ち解けないことには始まらない。
 そのうちに大祐は酒の酔いに任せてこんなことを言い出した。
「康介なんてやめろ。次は俺にしといた方がいい。不倫で幸せになった奴なんていない」
 ギョロっとした爬虫類を思わせる目は沙穂には嫌悪感しかなかった。だが、ここまで来て怯むわけにはいかない。
「あの、そろそろ出ましょうか」
 沙穂が伝票を持とうとすると、大祐がその手を掴んだ。まったくデリカシーの欠片もない男だ。今この瞬間、沙穂は心が揺らいだ。やはりこの男から情報を引き出すのは無理があったのかもしれない。
 嫌な予感は当たった。康介の住所を教える代わりに、関係を強要してきた。それはある程度、沙穂の中では想定の範囲内だった。
 大祐は欲求不満だったのか、ベッドの上では理性を失っていた。
 行為が終わった後、大祐はタバコを吸いながら、今度はいつ会えるかを訊いた。
「近いうちに連絡する。ねえ、康介さんの住所、教えてよ」
「言っておくが、あいつには奥さんがいる。娘もいる。そして何より奥さんを愛している。会いに行ったところで、傷つくのは二宮くんだよ」
「そんなこと、先刻承知だわ。ただ、ちゃんとケジメをつけたいだけ」
 大祐は納得したのか、タバコの火を消すと、カバンから手帳を出し、そこに住所を走り書きした。
「ありがとう」と沙穂は心にもないことを言った。
「いや。俺の方こそ、ありがとうだ。俺さ、二宮くんが入社してきた時から、お近づきになりたいと思ってたんだ。やっと夢が叶ったよ」
 沙穂はベッドの下の衣服を拾いながら、すでに心は康介で占められていた。