寝ずの番

                       5
 二宮沙穂は会社にまだ、微熱が続いているので休む旨を伝えた。有給はあと三日はあるので、まだ給与面で心配する必要はなかった。
 1DKの部屋は殺風景で、物が少なかった。沙穂は洋服や化粧品などは無駄遣いだと思っていた。極力お金を貯めて、一軒家を買いたいと思っていた。そして、その家で大好きな人との生活を夢見ていた。
 叶わない夢だと心のどこかで理解はしていた。でも、夢を見ることは平等だ。それにお金もかからない。
 ただし、夢が破れた時、その代償は大きい。今まで風邪ひとつ引いてこなかった沙穂は、康介と別れてから、すっかり生気を失った。
 恋が上手く行っている間はいい。それが仕事の原動力になったり、私生活に潤いを与える。だけど、その歯車が狂ってしまったら、途端に仕事に無気力になり、私生活もスカスカになってしまう。
 理屈ではなかった。その最悪なところに沙穂は落ちてしまった。這い上がるには、やはり復縁しかないのだろうか。若い男はダメだ。沙穂には康介くらいの男性でないと物足らないのだ。
 先日、康介とその妻と娘が三人揃って出かけるところに出くわした。沙穂は咄嗟に電柱の陰に身を潜ませた。
 康介は終始ニコニコ顔だった。沙穂の前では見せたことのない恵比寿様のような笑顔がいじらしい。沙穂はその場で地団駄を踏んだほどだ。
 マグマのように負のエネルギーが蓄積していく度に沙穂は過呼吸のように苦しくなる。
 そして、いつしかその負のエネルギーは妻と娘に向かった。
 沙穂は母子家庭に育った。母親は父親からの暴力に耐えきれず離婚し、沙穂を引き取った。母親は沙穂には最低限の教育を受けさせた。今ある地位は母親のお陰だ。
 だから、沙穂も母親のような女性になりたかった。そのためには良き伴侶を得なければならなかった。
 その理想とする伴侶はすでに人のものだ。この運命の出会いを喜ぶべきか、恨むべきか。沙穂は激しく混乱した。
 沙穂のスマホの待ち受け画面は未だ、康介のポートレートだ。
 女々しいとは女という文字を使用するが、この当て字は的を射ているかもしれない。
 ある日、沙穂は康介のマンションの近くのスーパーで買い物客を装い、母娘を目撃した。仲睦まじく母娘は肩を並べて、陳列棚を歩いていた。
「お肉よりもお魚にしましょう。お魚の方が身体にいいのよ」
 母親は娘に言った。
「ええー、睦美はお肉の方がいいなあ」
「あら、お魚も美味しいわよ」
「だって、お魚は骨がたくさんあるから、食べにくいもの」
 沙穂はその会話を耳に入れながらも、苦々しい思いに駆られた。母親はわたしにはこんな優しくなかった。母親は父親に虐げられていたせいか、女は生きる術を身につけて、男に依存しない生き方ができるようになりなさいと言われ、厳しく育てられた。
 人は生まれながらに平等なんて、とんだ嘘だ。
 沙穂は決心した。康介さんを自分のものにして、この母娘を地獄に突き落としてやろうと。
 一瞬、自分がそんな気持ちになったことに沙穂は戸惑いを覚えたが、もう沙穂を止めるものはなかった。