4
財糸村。名前の由来は養蚕業でひと財産築いた生糸長者が村を自治していたことから名前がついた。
生糸産業は戦中、戦後から日本経済を飛躍的に向上させてきた。
女工哀史や、ああ野麦峠に代表されるように、村の近くにある富岡製糸場の過酷な労働環境が問題視さえされた。搾取する側とされる側の資本主義の悪しき縮図がそこに見えた。
車の助手席には麻奈が、運転席には尊がいた。
カーナビといった大層なものはなかったので、ナビゲーションは麻奈に任せた。
麻奈は人間カーナビのように的確に道案内をする。やはり俺は人を見る目があると、尊は自画自賛した。
「ああ野麦峠は観たことがあるかい?だいぶ古い映画だけど」
尊は訊いた。
「はい。子どもの頃に。今でこそ、働き方改革が叫ばれてますけど、資本家の精神は今も昔もまったく変わっていないと思います」
「ああ。そうだね。富岡製糸場は世界遺産にはなりはしたけど、僕らは決して、女工たちの汗と涙を忘れてはいけない」
「まるで小学校の先生みたいですね」
「たまにはいいこと言わないと。麻奈ちゃんに馬鹿にされてしまうからね」
「先生、わたしは馬鹿にしているつもりはありません。わたしが世の中で一番嫌いなことは、わたしよりも無能な上司につくことです。つまり先生はわたしよりも多少は賢いということです」
「君がうちに来てから初めて褒めてもらえた。いや、嬉しいね。この日のことは忘れないよ」
片道二時間かけて、財糸村に到着した。
「先生、ところで泊まる場所はあるんでしょうか?」
麻奈が気になったことを訊いた。
「あるだろう。なかったら車中泊だけど」
「え?調べてなかったんですか?」
麻奈が非難するような視線を向けてきた。先程の高評価が崩れる音が耳元でした。
「とりあえず、行こうか。どこかに村役場があるはずだ」
尊はリュックを背負い、ひたすらに前を歩いた。
途中、スマホを出してアンテナの状態を調べた。一本も立たず、スマホはここでは無用の長物だとわかった。
歩くこと二十分。ようやく前方から三人連れが見えた。どうやら家族連れらしい。地元の人間ではないとひと目でわかった。
母親と父親に挟まれて歩いている少女だけは元気よくはしゃいでいた。母親の方は田舎道に慣れないせいか、うつむき加減で、父親は終始、彼女に気を遣っていた。
一瞬、微笑ましい家族に見えるが、どこか違和感があった。特に妻の方はちっとも楽しそうではなかった。
尊は通り過ぎる際に会釈をした。向こうも会釈を返した。まず、都会では見られない行動だ。
「こんな辺鄙な村にも訪ねて来る人たちがいるんですね」
差別的な発言だと思いながらも、尊はそうだなと頷いた。
しばらく悪路を歩いていると、木造の建物が見えてきた。古めかしい立て看板には「財糸村役場」と記されていた。
ここは文明から取り残されたようだ。扉も自動ではなかった。都会にいれば、扉が自動で開くのは当たり前だという感覚がある。その当たり前がここでは当たり前でないと尊は思った。
文明にすっかり慣れきったわたしたちは、こういうところに来て、文明のありがたさに感謝してしまう。
フロントには厳つい顔をした初老の男性職員が資料を読んでいた。ざっと見回しても、職員の数は数名ほど。ただ来訪者もなく、紙を捲る音だけがした。
まるで活気のない村役場は、財糸村の現状を反映しているみたいだ。
「あのう、財糸村の郷土史について、窺いたいのですが...」
尊は低姿勢でフロントの職員に訊ねた。職員は目障りだと言わんばかりに顔をしかめる。
接客態度は非情に悪い。都会でこんな態度をとったら市民から苦情の電話やら苦情の投書が舞い込むだろう。
「郷土史だって?あなたたち、そんなこと訊いてどうするの?」
言葉遣いも酷い。ここではわたしたちの常識は通用しないと尊は痛感した。
「わたしは都市伝説を研究しています。大学からの依頼でして」
職員は値踏みするように尊と麻奈の全身を観察しだした。ここまで人から見られた経験がなかったので、尊はくすぐったくなった。
「まあ、いいでしょう。ですが、わたしが言うのもなんですが、財糸村はあなた方、余所者には冷たいし、おそらく気分を害することも多々、直面するでしょう」
役場の職員が村の悪口を言うのも、違和感があった。まるで村を忌み嫌っている職員がなんだか気の毒に思ってきた。
「村社会が外から来たものには冷たいのはよく知っています。だから、僕たちは何があっても動じません」
「それはご立派ですね。じゃあ、資料室へ案内しましょう。過去十年の新聞の縮刷版も揃っています。ただし、インターネット環境はないので」
もとより期待はしていなかった。
こういうことを想定して麻奈を連れて来たのだ。
彼女は世界文学全集をたった三日で読破したのだ。その集中力と速読の能力は折り紙付きだ。
資料室の前に立つと、職員は言った。
「おトイレは地下一階にあります。ただし男女兼用なんで。それから、基本的に飲み食いは自由ですが、必ずゴミは持ち帰ってください。それでは、何かありましたら、内線電話005におかけください。基本、役場は四時に閉まりますので、それまでに退室をお願いします」
職員は最後まで慇懃無礼だった。
財糸村。名前の由来は養蚕業でひと財産築いた生糸長者が村を自治していたことから名前がついた。
生糸産業は戦中、戦後から日本経済を飛躍的に向上させてきた。
女工哀史や、ああ野麦峠に代表されるように、村の近くにある富岡製糸場の過酷な労働環境が問題視さえされた。搾取する側とされる側の資本主義の悪しき縮図がそこに見えた。
車の助手席には麻奈が、運転席には尊がいた。
カーナビといった大層なものはなかったので、ナビゲーションは麻奈に任せた。
麻奈は人間カーナビのように的確に道案内をする。やはり俺は人を見る目があると、尊は自画自賛した。
「ああ野麦峠は観たことがあるかい?だいぶ古い映画だけど」
尊は訊いた。
「はい。子どもの頃に。今でこそ、働き方改革が叫ばれてますけど、資本家の精神は今も昔もまったく変わっていないと思います」
「ああ。そうだね。富岡製糸場は世界遺産にはなりはしたけど、僕らは決して、女工たちの汗と涙を忘れてはいけない」
「まるで小学校の先生みたいですね」
「たまにはいいこと言わないと。麻奈ちゃんに馬鹿にされてしまうからね」
「先生、わたしは馬鹿にしているつもりはありません。わたしが世の中で一番嫌いなことは、わたしよりも無能な上司につくことです。つまり先生はわたしよりも多少は賢いということです」
「君がうちに来てから初めて褒めてもらえた。いや、嬉しいね。この日のことは忘れないよ」
片道二時間かけて、財糸村に到着した。
「先生、ところで泊まる場所はあるんでしょうか?」
麻奈が気になったことを訊いた。
「あるだろう。なかったら車中泊だけど」
「え?調べてなかったんですか?」
麻奈が非難するような視線を向けてきた。先程の高評価が崩れる音が耳元でした。
「とりあえず、行こうか。どこかに村役場があるはずだ」
尊はリュックを背負い、ひたすらに前を歩いた。
途中、スマホを出してアンテナの状態を調べた。一本も立たず、スマホはここでは無用の長物だとわかった。
歩くこと二十分。ようやく前方から三人連れが見えた。どうやら家族連れらしい。地元の人間ではないとひと目でわかった。
母親と父親に挟まれて歩いている少女だけは元気よくはしゃいでいた。母親の方は田舎道に慣れないせいか、うつむき加減で、父親は終始、彼女に気を遣っていた。
一瞬、微笑ましい家族に見えるが、どこか違和感があった。特に妻の方はちっとも楽しそうではなかった。
尊は通り過ぎる際に会釈をした。向こうも会釈を返した。まず、都会では見られない行動だ。
「こんな辺鄙な村にも訪ねて来る人たちがいるんですね」
差別的な発言だと思いながらも、尊はそうだなと頷いた。
しばらく悪路を歩いていると、木造の建物が見えてきた。古めかしい立て看板には「財糸村役場」と記されていた。
ここは文明から取り残されたようだ。扉も自動ではなかった。都会にいれば、扉が自動で開くのは当たり前だという感覚がある。その当たり前がここでは当たり前でないと尊は思った。
文明にすっかり慣れきったわたしたちは、こういうところに来て、文明のありがたさに感謝してしまう。
フロントには厳つい顔をした初老の男性職員が資料を読んでいた。ざっと見回しても、職員の数は数名ほど。ただ来訪者もなく、紙を捲る音だけがした。
まるで活気のない村役場は、財糸村の現状を反映しているみたいだ。
「あのう、財糸村の郷土史について、窺いたいのですが...」
尊は低姿勢でフロントの職員に訊ねた。職員は目障りだと言わんばかりに顔をしかめる。
接客態度は非情に悪い。都会でこんな態度をとったら市民から苦情の電話やら苦情の投書が舞い込むだろう。
「郷土史だって?あなたたち、そんなこと訊いてどうするの?」
言葉遣いも酷い。ここではわたしたちの常識は通用しないと尊は痛感した。
「わたしは都市伝説を研究しています。大学からの依頼でして」
職員は値踏みするように尊と麻奈の全身を観察しだした。ここまで人から見られた経験がなかったので、尊はくすぐったくなった。
「まあ、いいでしょう。ですが、わたしが言うのもなんですが、財糸村はあなた方、余所者には冷たいし、おそらく気分を害することも多々、直面するでしょう」
役場の職員が村の悪口を言うのも、違和感があった。まるで村を忌み嫌っている職員がなんだか気の毒に思ってきた。
「村社会が外から来たものには冷たいのはよく知っています。だから、僕たちは何があっても動じません」
「それはご立派ですね。じゃあ、資料室へ案内しましょう。過去十年の新聞の縮刷版も揃っています。ただし、インターネット環境はないので」
もとより期待はしていなかった。
こういうことを想定して麻奈を連れて来たのだ。
彼女は世界文学全集をたった三日で読破したのだ。その集中力と速読の能力は折り紙付きだ。
資料室の前に立つと、職員は言った。
「おトイレは地下一階にあります。ただし男女兼用なんで。それから、基本的に飲み食いは自由ですが、必ずゴミは持ち帰ってください。それでは、何かありましたら、内線電話005におかけください。基本、役場は四時に閉まりますので、それまでに退室をお願いします」
職員は最後まで慇懃無礼だった。

