寝ずの番

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 結局、沙穂にはきっぱりと別れを告げてきた。
 自分ではこの退職と移住を機に、ケジメをつけたつもりだったが、返って沙穂の心に火をつけてしまったようだ。
「あなたは絶対に報いを受けるわ。いい。あなたなんか、村の女といい仲になって、性的不能になるわ」
 最後の捨て台詞は康介の腹に響いた。
 雨はすっかり止んでいた。

 社内で荷物をまとめて、引継ぎ作業を終えると、来客があると女子社員から告げられた。
 すでに取引先には退職の挨拶回りを済ませたばかりだが、まだ済ませていないところでもあっただろうか。
 ロビーに降りてみると、見知らぬ中年男性がソファに座っていた。康介を認めると、立ち上がって頭を下げた。
「突然お邪魔してすみません。わたし、今泉と申します。あの、三沢さんで間違いないでしょうか?」
「はい。どのようなご用件でしょうか?」
「今すぐ、移住をおやめください」
 康介は耳を疑った。今何て?
「あの、あなた突然、何を言い出すんですか?」
「だから、わたしは三沢さんに移住を考え直してほしいんです」
「今泉さん、わたしは忙しいので失礼します。あなたに構っている暇はありませんので」
 康介が踵を返そうとした時、今泉は先ほどとは違った声質で呼び掛けた。
「ネバタマ様って知ってますか?」
 康介は足を止めた。
「ネバタマ様?」
「ネバタマ様は皆が寝静まった時を見計らって、子どもを攫うようです。三沢さんには一人娘さんがいましたね?」
「おまえ、なぜうちの家庭のことを知ってるんだ?おまえ、何者だ?」
「わたしはしがないセールスマンです。わたしは財糸村に三年前に移住しました。一人息子がいました」
「いました?過去形ですね」
「財糸村で息子はネバタマ様に攫われてしまったのです。そして、息子は戻らなくなりました。わたしは三沢さんに、わたしと同じ思いをしてほしくはないのです」
 一体、この男は気でも触れてしまったのだろうか。男の顔は真剣で鬼気迫るものがあった。
「今泉さん、お子さんがいなくなったのは、事件に巻き込まれたからではないですか?」
「いいえ。姿が神隠しのように消えてしまったんです。もし、誘拐なら犯人からの接触があるでしょう。それがないとなると、これは人為的なものではありません」
「その、ネバタマ様ですか。その怪物が人を攫ったところを見た人はいるんですか?」
「ああ、やっぱり一から説明しないといけませんね。あの、会社が終わり次第、ここへ来ていただけませんか?わたしはいつまでも待ってますから」
 今泉は康介にプレッシャーをかけてきた。いつまでも待っているなんて、狂気の沙汰だ。
 今泉は名刺を渡し、一礼して辞去した。

 結局、康介は指定された喫茶店に足を運んだ。
 同期からの最後の飲み会を断った。別に無理をして会いに行く必要はなかったのに、今泉の話が気になって、気づいたら、約束の場所にいた。
 今泉はあれから、長い間、待っていたらしく、灰皿に吸い殻が溜まっていた。
「コーヒーでいいですか?」
「お構いなく。話を聞きに来ただけですから」
 康介は席に着くと、メモ帳を広げた。
「わたしを信じてくださるのですね」
「わたしはあなたが信頼できると踏みました。長年営業をやっていると、人を騙そうとか、嘘をついているとか直感的にわかってしまうんです」
「ハハ。さすが勤続四十年は伊達じゃないわけですね。わかります。わたしもサラリーマンなんで。すっかり会社色に染まってしまいました」
「時間もないので、早速本題に入りましょう」

 康介は想像でネバタマ様のイラストを描いてみた。睦美からは芋虫みたいだと言われた。
「何それ、ダンゴムシ?」
 睦美は目敏く、康介の手帳を盗み見た。まだ小学生だった睦美には難しい漢字が読めなかったので、ネバタマ様に関する情報は理解できなかったようだ。
「あ、ダメだよ。パパの手帳見たら。恥ずかしいなあ」
「パパ、絵は下手だね」
「パパに似ないでよかったね。睦美は絵が上手いからな。移住したらいろいろな虫や動物の絵が描けるぞ」
「わあい。お花も描けるよね」
「ああ、何でもな」
 百合子が睦美にお風呂に入るように声をかけた。睦美は大人しく、浴室へスキップして行った。
 百合子は険しい顔をしていた。
 康介は今泉という男が村へ移住を考え直すように進言してきた話をしたばかりだ。
「ねえ、その今泉って人、信頼できるの?」
「俺は信頼できると思う。ただ、ネバタマ様ってのは眉唾物だな。ただ、俺は彼が本当に僕ら家族のことを心配していることはわかった」
「なんで赤の他人がそんなこと、言うの?そもそも、わたしたちが移住しようがしまいが、その人には関係ないじゃない」
「だからさ。利害関係にない人がわざわざ警告してくることが腑に落ちない。ふつうに考えれば老婆心。悪く言えばお節介だけどな」
 百合子は冷蔵庫から瓶ビールを取り出して、グラスに注いで康介の前に置いた。
「つまりさ、今から移住しようとしている村には変質者が暮らしてるってことじゃないかな」
「え、だったら財糸村の移住は考えた方がいいわ」
「馬鹿言うな。都会にだって変質者の一人や二人はいるさ。最近、この付近でも子どもに猥褻な行為をしようとした男が捕まったそうじゃないか」
 康介はビールを呷った。
「都会は人の目があるけど、村はほとんだ、見て見ぬふりするっていうじゃない。わたし、聞いたことがあるわ。村の中で事件を起こしても、村人たちが口裏を合わせて、犯人を隠匿したりするって」
「いつの時代の話をしているんだよ。今は令和だぞ。町も村も時代とともに変わっていってる。変な情報に振り回され過ぎだよ」
 釈然としない百合子は突然、康介からグラスを掠め取り、ビールを飲んだ。
「わたしは睦美が喜んでいたから泣く泣く賛成したまでよ。今更都会を離れて片田舎に引っ越すなんて、近所の人たちから変な目で見られてるわ」
「いいかい。都会には都会の良さがあるように、田舎には田舎の良さがある。百合子はマイナスに考えすぎだよ。確かにネバタマ様ってのはよくわからないけど、結局は人が作った妄想だ」
 どこまでいっても、康介は楽観的だ。
「なあに、心配するな」
 康介は百合子の肩を抱き寄せようとした。だが、百合子は機嫌が悪いのか、身体をずらした。
「おい、どうしたんだ?」
「やめてよ。あの子が見たら、どうするの?」
「そんなこときにするな。今の小学生はマセてるからな。ちょいとイチャイチャしたくらいじゃ、何とも思わないさ」
「ごめん。あの子が呼んでる」
 百合子は立ち上がると、浴室へ向かった。
 浴室では睦美がまだ、きらきら光るを歌っていた。
 百合子は洗濯機に康介のワイシャツを入れようと思い、襟ぐりを見た。微かだが、口紅の跡がついていた。