寝ずの番


 三沢康介は一大決心をした。
 サラリーマン生活を三十年、休まず通勤電車に乗って、取引先に向かい、営業成績もそこそこ良かった。社長賞も一度だけもらった。良き先輩、同僚にも恵まれ、不満は特になかった。
 家庭でも、気立てのいい妻に、利発な娘。絵に描いたような理想的な家族。これで不満があったら罰があたる。
 だけど、康介は物足りなさを感じていた。このまま大人しく定年を迎え、がっぽり退職金をもらって、定年後は妻と日本各地を旅行するのも悪くはない。だけど、先が見えている。
 康介自身があまり、冒険をしないタイプだった。昔から石橋を叩いて渡る性格で、自分で無理だと思ったら、それ以上は行かない。その性格が功を奏して、今のところ、危険な目にあったことはない。
 ただ、人間、ぬるま湯に浸かっていると、少しばかり熱い湯に入りたくなるものだ。
 康介は電車の中づり広告で、週刊誌の見出しに目が行った。
「今こそ、快適移住生活。定年後の田舎で旗揚げしてみませんか?」
 移住かあ。康介は今の住居は気に入っていた。
 3LDKの間取りは家族三人でも、十分すぎるほど広い。
 タワーマンションのちょうど中間に位置している部屋は遠く東京湾を見渡せる。夏の花火大会でも、ベランダから鑑賞は可能で、ローンも完済していたので、何も心配はない。
「移住するって、三沢、何か、あったのか?」
 同僚の山本大祐が心配そうに訊いた。
 それもそのはずで、移住するには今の会社を退職しなければならない。まだ定年まで十年もある。大祐は時期尚早だと言わんばかりの表情だ。
 それでも、康介は遅すぎると考えていた。
 移住ブームに火がついたのはほんの数年前。馬車馬のように働くことが美徳だった時代は終わりを告げていた。これからはワークライフバランスの時代で、労働時間と余暇の時間をバランスよく取ることが、人々の共通認識になった。
 だから、康介もその波に乗っかったのだ。時代に取り残されない生き方をしなければ、きっと後悔すると思った。
 妻の百合子は今更、田舎に住むのに難色を示したが、娘の睦美は田舎と聞いて、目を輝かせた。
 康介にも百合子にも、田舎の故郷はなかった。都会の真ん中で生まれ、そこで青春を謳歌し、仕事もビル街と来ている。田舎への羨望がないと言えば嘘になる。
 百合子が折れてさえくれれば、計画を前に進められる。睦美がおそらく、康介の援護射撃をしてくれるだろう。
「あなた、田舎に行って何をするつもり?」
 百合子は至極当然のことを訊いた。
「決まってるだろう。自給自足の生活さ。食品会社で営業一筋の俺に任せろ。飢えさせることはしない」
「そういうのって、結局、家庭菜園がしたいんでしょう?」
「馬鹿言うな。規模が違うよ。田圃だよ。そこに苗を植えたり、稲を刈ったりして食料を作る。余ったら安く村人に提供する」
「あなた、じゃあ、タワマンは手放すの?」
「タワマンは資産価値が目減りしているからな。動くなら今のうちさ」
 康介は移住先も、場所もすでに決めていた。
 場所は財糸村という。一時期、養蚕業で栄えた村だった。群馬の山間にあるが、少しばかり歩けば、私鉄沿線の駅まで出られる。
 半分田舎、半分都会だから、完全な田舎というわけではない。それでも、百合子は気が重そうだ。
「ねえ、タヌキやキツネに会えるかな?」
 睦美はロマンチックなことを訊いた。やっぱり子どもは視点が違うと、康介は感心した。
 野を駆け回り、自然に身を任せる教育は都会の学校では不可能だ。その貴重な体験をさせてやるのも、親心というものだ。
「タヌキもキツネも、クマさんも、みんな睦美の友達になってくれるよ」
「わあい。動物とお友だちになれるなんて、いいなあ」
 無邪気な娘を横目に、百合子は降参のポーズをとった。
 康介と睦美の息の合った連携プレーは、百合子の堅い心の壁を崩した。

  送別会の日
 外は生憎の雨だった。
 営業部の一同が広い個室のある居酒屋をキープしてくれた。
 主役はもちろん康介だが、康介はこういう会が苦手だった。涙もろいのだ。おふくろから男が涙を見せるのは、子どもが生まれた時と、親を見送る時だけにしろと言われていた。だが、今夜に限っては涙を堪えられそうにない。
 一同は酒を飲みながら、康介との思い出や、康介直伝の営業トークの披露など、時間が経つにつれ、場が盛り上がった。
 幹事は同期の山本大祐で、俺が社長賞を取る前に辞められるとなったら、俺は定年まで社長賞は取れないなあと零した。なぜなら、三沢、おまえがいたからこそ、俺は頑張れたと言い、大祐は皆の前で熱い抱擁を交わした。
 すでに康介の涙腺は緩みきっていた。堤防が決壊しそうで、そのことばかりが気になって、大祐のジョークが耳に入らなかった。
 そんな心の余裕がない中でも、入社三年目の二宮沙穂には応える余裕があった。不思議だが、彼女に見つめられると、背筋がピンと張り詰め、涙が潮が引くように乾く。
 沙穂とは男女の仲だった。営業部に入りたての彼女の教育係になったことが始まりだった。
 頭の回転が速い沙穂は、康介の営業術をすぐにマスターした。
 身体の関係を持ったのは、彼女が入社してから一年後だった。
 飲み会の二次会で、帰る方向が同じという理由でタクシーに相乗りした。途中、沙穂が気分が悪いと言って、仕方なくホテルで休憩をとった。そこはラブホテルで、康介が彼女をベッドに寝かせた途端、ベッドがゆっくりと回転し、驚いた。止めようと思っても、スイッチがどこにあるかわからず、慌てた。
 その慌てぶりが沙穂には仕事のできる男としてのギャップのせいか、腹を抱えて笑い出した。
 それからは、社内では秘密にメールを交換し合い、たまに逢瀬を重ねて肌を合わせた。
 罪悪感はあった。娘も幼稚園にあがって、子育ては百合子に丸投げだった。今でこそ、子育ては夫婦の共同作業だと言われているが、百合子は不平一つ言わず、家を守った。
「こんなことしてたら、わたしたち、罰があたるね」
 行為が終わった後、沙穂は服を着ながらポツリと言った。
「まさか、二宮は変な宗教でもやっているのかい?」
「全然。無宗教だよ。課長は?」
「やってないよ。それから、ここでは役職で呼ばなくてもいいから」
「そういうわけにはいかないわ。だって名前で呼んだりしたら、社内で呼び掛けそうだもの」
「そうか。君は案外、用心深いんだな」
「課長も用心深いよね。でも、そういう人って、無理をしないから事件や事故に巻き込まれにくいんだって」
 沙穂がズボンを穿いたところだった。
 社内で見る彼女がホテルの部屋にいる不思議さにいつまでも康介は慣れない。だから、普段着を見たことがない康介にとって、彼女のスーツ姿は妙にそそるのだ。
「課長、うちの会社って、どうしてスーツ着用なんでしょうね?」
「社長の方針らしい。それに俺たちの部署は人に会ってナンボのとこだ。第一印象がものを言うからね」
「そうだね。でも、わたしの勝負服を見られて、課長も満更でもないでしょう。わたし、オフィスに居る時、課長の視線が痛いもの」
「俺はちゃんと仕事はしてるぞ。仕事とプライベートは分別がついているつもりだよ」

 逢瀬は数回だったが、彼女の誕生日には洒落た店を予約し、食事を楽しんだ。
「奥さんや娘さんには申し訳ないわ」
 食事中、沙穂が言った。
「申し訳ないなら、解消するかい?」
「違うの。営業先を周っている最中に、娘さんの睦美ちゃんを見かけたの」
 おそらく、デスクの上にある家族写真を見て、睦美を知っていたのだろう。
 家族揃ってディズニーランドに行った時に撮った写真だ。不倫相手に家族を見られるのも、具合が悪い。
「君には恋人がいないのかい?」
「いたら、不倫なんてしない」
「愚問だったね」
「睦美ちゃんて、奥さんより課長にそっくりね。わたしさ、好奇心で睦美ちゃんの跡をつけたの。わたし、探偵の真似事をするの、好きなの」
「それで、君は何が言いたいんだ?」
「睦美ちゃん、交番に行って、落とし物を届けたわ。課長は倫理に反することをしてる。親はなくても子は育つって、見せつけられた。だから、わたし、こんなことしているのが申し訳なくて」
「いい大人が子どもに諭されてるってか。わかった。しばらく距離を置こう」

 あれ以来、二人は会社の外では会わなくなった。そして、突如、舞い込んだ移住の話。きっと沙穂にしてみれば、寝耳に水だっただろう。
 メールで「わたしに愛情がなくなったの?」と質されたが、康介は曖昧な返事で誤魔化した。
 結局、康介にとっては単なる火遊びに過ぎなかった。家に帰れば、百合子や睦美が笑顔で迎えてくれる。やっぱり不倫はダメだと気付いた。
 この冷却期間は康介を立ち直らせるにはいい機会だった。
 送別会の帰り、沙穂は先回りをして、康介を待ち構えていた。
「移住先、わたしにメールしてくれる?」
 沙穂は甘えるように言った。
 雨は激しさを増していた。
「沙穂、それはできない。もう君との関係は清算したい。いい人、見つけろよ」
「課長、わたし、課長しかいないんです」
 哀願するような目に康介は心を動かされそうになったが、毅然とした。
「すまない。僕には家族がいる。その家族を守る義務がある。それに今はもう、課長じゃない」
 沙穂は傘を放り出して、康介に抱きついた。康介は逆さになって雨に打たれている彼女の傘を不思議な気持ちで見ていた。