12
群馬県内のホテルの部屋で社殿の前に仕掛けたカメラの画像を尊はじっと睨んでいた。
何も変化のない粗い画像があるだけだ。カレンダーを見ると、明日は十一月二十日になる。ネバタマ様が動き出すと言われている。
そもそも、ネバタマ様の目的は何なのか?考えれば考えるほどわからない。
昔は神隠しという現象があった。
神隠しの主な犠牲者が女子どもであったことから、人身売買や口減らしなどが、いつの間にか怪異による現象にすり替えられたと言われている。つまり、神隠しなる現象は怪異でも何でもない。ただ、人はそこに不可思議さを付け加えることによって、恐怖心を煽り、注意を促すのだ。
だから、そういった怪異の言い伝えが、人の注意を喚起して、災難を未然に防ぐ役割になった。
尊は仮眠をとるため、ベッドに仰向けになり、目を閉じた。そのうちに知らず眠気が襲ってきた。
尊は一軒の教会の前にいた。
季節は春ぐらいだろうか。春の日差しが眩しかった。
尊は自分の服装を見て驚いた。全身黒のタキシードだった。どういうことだ?
タキシードで目の前は教会。俺はまだ結婚する気はないぞ。
すると、前方から真っ白いウェディングドレスを身に纏った女性が小走りに駆けよってきた。顔を見た瞬間、背筋が凍った。従姉妹の潤子だった。
潤子からは香しい香りがした。普段、香水もつけないし、化粧すらしない従姉妹が、この時は初めて女に見えた。
「何ぼうっと突っ立ってるの?さあ、行きましょう。わたしたちの門出なんだから」
潤子は尊の腕をとり、教会にグイグイ引っ張って行く。尊はされるがまま、教会の中に入っていく。
目の前には祭壇があり、黒い衣装の牧師が待ち構えていた。
尊は引きずられるまま、祭壇の前まで歩かされた。
おいおい、本当に潤子と結婚してしまうのか。幼い頃は年上のお姉さんとしか見ていなかったのに...。
牧師は二人を見て、永遠の愛を誓いますかと、型通りの台詞を言う。
「誓います」
潤子は迷いなく言った。
牧師は満足そうに頷くと、尊に目を向けた。
「あ、その、まだ、誓えないかな...」
潤子の視線と牧師の視線が尊の顔に集中する。そんな目で見ないでくれよ。俺は悪いことは何もしていない。
「どうして、誓いますって言えないのよ!牧師さんを怒らせるなんて、もう、信じられない!」
潤子は咬みつきそうな勢いで尊を罵った。滅多に感情を露わにしない彼女には珍しいことだった。
「そんなに怒らなくても...」
牧師は直立不動のまま、じっと尊を見下ろしていたが、だんだん怒りで顔全体が歪んできた。いや、怒りからではなく、なんだか顔の中の異物が動き回っているかのようだった。
やがて、牧師の顔が二つに割れて、中から白い物体が飛び出してきた。まるで包丁でスイカを真っ二つに切るような鮮やかな形で、顔を歪めさせた白い物体が姿を現わした。
あっと思って、尊は潤子を庇うように倒れ込んだ。
潤子は尊の肩にしがみつき、だから言ったじゃない!と泣きわめく。
白い物体は牧師という宿主から抜け出し、尊の足元まで這いよって来た。
口から糸のようなものを吐き出して、尊の脚を包もうとしている。尊の頭の中で、ネバタマ様が浮かぶ。
ネバタマ様は人目につかない場所で活動するのではなかったのか。とりあえず逃げなければ。潤子、逃げるぞ!
尊が立ち上がろうとしたが、それよりも早く、蚕のような物体は口から吐き出した糸を器用に尊の両脚に巻き付けた。
「潤子、助けてくれ!」
蚕は容赦なく、すぐに尊の全身を包み始めた。俺は死ぬのか。それもタキシードをおめかしした状態で。
ああ、やだ。やだ。助けてくれ!
「先生、先生、しっかりしてください!」
尊が目を覚ますと、そこには見慣れたホテルの部屋だった。傍らには不安そうな顔をした助手の麻奈がいた。
「ああ、麻奈ちゃん、どうしてここに?」
尊は全身に汗をかいていた。まだ胸が高鳴っており、呼吸を整える。
「先生、すんごいうなされてましたね。大丈夫ですか?あ、水飲みますよね」
麻奈は冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出して、尊に渡す。尊はキャップを開けるのももどかしく、一気に呷った。
「落ち着いた。ありがとう」
「先生、ちょっとこの件にのめり込み過ぎじゃないですか?」
「君こそ、なぜここへ?」
「もちろん、わたしは先生の助手なんで、手助けに来ました。ほら、交代でカメラを監視した方が効率がいいでしょう」
麻奈はにっこりと微笑む。どうして夢の中の花嫁が彼女じゃなかったのだろう。
「しかしね、君、大学は大丈夫かな?単位を落としたらどうするつもりなんだい?」
「わたしは単位は十分にとっているから。それに大学の講義はわたしには退屈で。先生の助手やってる方が楽しいし、勉強にもなる」
「そりゃ、嬉しいが、男女二人が同じ部屋というのも、どうかな?」
「先生はジェントルマンでしょう」
まったく警戒心のないお嬢さんだ。
「まずは先生、お風呂に入ってください。そんなに汗かいてたら気持ち悪いでしょう」
言われるがまま、尊はバスルームへ向かった。
「おまえ、正気なのか?」
康介がビールを飲んでいると、百合子が小声でネバタマ様のことを話し始めた。睦美の耳を気にしてか、声を絞ったが、康介は酔いもあって、素っ頓狂な声をあげた。
「正気よ。わたしね、嘘ついてるかどうかわかるもの。お婆さんの言っていることは本当よ」
「今泉って人も、ネバタマ様が子どもを攫ったって、わけのわからないことを言ってたな。みんな、本当におかしい。正常なのは俺だけなのか」
「康介さん、実際にこの村では何人もの子どもがいなくなっているの。偶然にしては出来すぎているわ」
「別に子どもがいなくなる事例なんて山ほどあるじゃないか。そんな村の婆さんが言うことに耳を貸す必要はない」
康介はビールをグッと呷り、一息ついた。
「でもあなた、移住してきた家族の子どもが立て続けにいなくなっているのよ。明日から約一週間、ネバタマ様が活動する期間なんだって。だから、わたしたちが睦美を守らないと...」
「百合子、多分、慣れない土地に来たばかりだから疲れてるんだよ。村長の家政婦なんて辞めたらどうだ?」
「わたしが気が触れたとでも言いたいの?わたしね、知ってるのよ。あなたが浮気していたこと」
すると、康介の赤ら顔が一瞬だけ青くなる。
「浮気だって?この俺が?」
「顔に書いてあった。わたし、我慢してたけど、言わせてもらうわ。あなたは我が家の大黒柱だから、好き勝手にやらせてたけど、もうあなたは会社を辞めたからただの人。我慢することもない」
「百合子、一体どうしたんだ?」
「わたしとあなたが留守中に、あなたの浮気相手が家を訪ねて来たそうじゃない。その時、家にいたのは睦美だけだった。睦美は喘息の症状が出て、吸入器を与えて、その人が助けてくれたらしいわ。その浮気相手には感謝している。まだ浮気相手とは続いているの?」
「いや。別れは告げた。百合子、すまない。出来心でズルズルと不倫関係を続けてた。でも誓って言うよ。もう浮気はしないよ」
「だったら、明日からわたしと交代で、睦美の寝ずの番をして。わたしに誠意を見せて」
康介は諦めたように、わかったよと言った。
部屋に戻ると、大祐が荷物をまとめていた。
「どうしたの?」と沙穂が訊いた。
「ごめん。父さんが危篤状態になって。だから、東京に戻らなくてはならなくなった。埋め合わせはするよ」
沙穂にキスをすると、大祐は大慌てで部屋を後にした。
やっと邪魔者がいなくなった。
自然と、沙穂は鼻歌を口ずさみ始めた。
デスクの上の便箋にボールペンで手紙を書いた。睦美は小学生なので難しい言葉や漢字は使わず手紙を完成させた。
「ネバタマ様は過去に五人の子どもを攫って行ったということだな」
過去の新聞記事の縮刷版のコピーをテーブルに並べた。女の子が二人、男の子が三人だ。
「先生、もしかしたら、ネバタマ様って、鬼子母神なのかもしれませんね」
「鬼子母神て、子どもを食べてしまう、あれ?」
「そうです。釈迦の守護神の一人で、たくさんの子を持っていたけれど、その子たちに栄養をつけさせるために人間の子どもたちを攫ったって。やがて自身の子どもを釈迦に隠されて、半狂乱になって嘆き悲しみ、その様子を見ていた釈迦から人間の子どもたちを失った親の悲しみがわかったかと諭され、仏教に帰依したって神様です」
「なかなかいい点をついてるね。そうだ。鬼子母神だよ。だけど、ネバタマ様ってのは蚕の化身なんだろう?」
「でも先生、誰もネバタマ様を見たことがないって言うじゃありませんか。なら、蚕の化身だと決めつけるのは時期尚早だと思います」
「そうだな」
尊はスマホの画像に何の変化もないことを認め、何か飲むかい?と訊いた。
「いいえ。先生、先にベッドに入っててください。わたしがしばらく、画像を見ています」
「いいのか?じゃあ、お言葉に甘えて、ひと眠りしてくるよ」
尊は隣の部屋に消えた。その後、いびきが聞こえた。いびき、なんとかならないものか。
麻奈は体操をしながら、スマホの画像を観察していると、画面の右横で何かが動いた影を捉えた。
麻奈はスマホに顔を近づけた。錯覚ではない。確かに何かが動いた気配があった。
麻奈はしばらく画像を睨んでいたが、画面はただ社殿を映しているだけだった。
「わあい。お姉さんと出かけられるなんて、嬉しいなあ」
深夜一時、沙穂は睦美の手を握っていた。睦美には手紙で綺麗なお星さまを見に行こうと書き、待ち合わせ場所を指定した。
その場所で待っていると、睦美はパジャマにダウンコートを羽織ってやって来た。
走って来たのか、息を切らしながら睦美が到着した。
「お姉さん、ネバタマ様出ないよね?」
沙穂はしゃがんで、睦美と同じ目線になると言った。
「ネバタマ様は人が起きている時は活動しないの。だから、姿を見せることはないの。さ、行こう」
康介はスマホのLINEの画像を開いていた。
今日から一週間、百合子と交代で寝ずの番をすることになった。
百合子は気づいていた。康介はいつかはバレるとは覚悟していたので、それほどショックではなかった。ただ、これから先、康介は百合子には頭が上がらない。家庭でのパワーバランスも変わっていくだろう。
先日、沙穂が大祐といっしょに康介を訪ねて来た。沙穂は明らかにやつれていた。最後のお別れどころか、康介を諦めないと言い放った。
だから、康介は彼女とLINEの交換をして、とにかく家には二度と来ないように念押しした。
返信はなかった。既読はついていた。返信がないことが不気味だったが、あれから音沙汰がないから、彼女もケジメをつけたのだろう。
やはり会社を早期退職したことは正解だった。
あのまま会社にいたら、沙穂と心中する運命にあったかもしれない。これからは女には用心だ。
康介は沙穂のLINEのアカウントを躊躇なく消した。
一時間ばかり経ってから睡魔が襲ってきた。
康介は立ち上がり、コップに水を注いで飲んだ。田舎の水は都会のそれとは違って甘い味がした。
時計は三時を示していた。
「康介さん、康介さん、ちょっと起きて!睦美がいないのよ!ネバタマ様に攫われたわ!」
康介はテーブルの上に突っ伏したまま眠ってしまったようだ。
百合子の半狂乱の声が現実に引き戻した。窓からは夜明けの光が差し込んでいた。
「あなた、何で徹夜しなかったの?もう!眠くなったらわたしを起こしてくれればいいのに!」
康介は睦美の寝室に向かった。
ベッドは空だった。康介はベッドの上に手を載せた。ベッドはひんやりしていた。睦美が部屋からいなくなってだいぶ時間が経っていた。
「ああ、そうだ。警察だ!えっと、確か駐在所があった」
康介は着の身着のまま、サンダルをつっかけて走り出した。後ろから百合子が何かを叫んでいたが、構わず走った。
「そりゃ、もしかすると、外にでも散歩に出かけたんじゃないかな?」
駐在所の巡査は眠そうな顔をしながら呑気に言った。
「睦美が勝手に外へ散歩なんかしません。とにかく、信じたくはないけど、ネバタマ様が睦美を攫って行ったんだ!」
「ひとまず落ち着きましょう。もしかしたら、ひょっこり帰って来るかもしれませんよ」
康介は巡査の胸倉を掴みたい衝動に駆られた。まったく暖簾に腕押しだ。限界集落のおまわりなんて、クソの役にも立たない。
「調書とりますんで名前と住所をお願いします」
康介はとりあえず深呼吸をし、椅子に座ろうとした時、駐在所に中年の村人が飛び込んできた。
村人はそこに康介がいないかのように叫んだ。
「幼い女の子が木の下で横たわってる!あと、若い女の人が崖下に転落しとる!」
現場は欝蒼とした雑木林の開けた場所だった。
睦美は木に頭をぶつけて、そのまま気を失ったらしく、低体温症に陥っており、呼吸が浅くなっていた。すぐに救急車に乗せるべく、村人たちが睦美を運んで行った。
崖下には若い女性が横たわっていた。
駐在所の巡査と村人が縄梯子を使って、崖下に降りて、女性の生死を確認した。
巡査は上にいる村人たちに向かって、腕をバツ印に交差させた。女性の死亡が確認された。
死亡した女性は東京から来ていた二宮沙穂だとわかった。なぜ沙穂が睦美といっしょに林の中にいたのか、わからなかった。ただ一つ言えることは沙穂と睦美は面識があったということだ。
となると、睦美を連れ去ったのは沙穂なのか。俺が一方的に別れを切り出したことへの復讐のつもりだったのか。
そう言えば、大祐はどうしたのだろう?彼女といっしょに行動を共にしていたはずだが...。
百合子はすっかり憔悴しきっていた。康介が話しかけても上の空だった。
康介は警察署まで事情聴取に向かった。
群馬県内のホテルの部屋で社殿の前に仕掛けたカメラの画像を尊はじっと睨んでいた。
何も変化のない粗い画像があるだけだ。カレンダーを見ると、明日は十一月二十日になる。ネバタマ様が動き出すと言われている。
そもそも、ネバタマ様の目的は何なのか?考えれば考えるほどわからない。
昔は神隠しという現象があった。
神隠しの主な犠牲者が女子どもであったことから、人身売買や口減らしなどが、いつの間にか怪異による現象にすり替えられたと言われている。つまり、神隠しなる現象は怪異でも何でもない。ただ、人はそこに不可思議さを付け加えることによって、恐怖心を煽り、注意を促すのだ。
だから、そういった怪異の言い伝えが、人の注意を喚起して、災難を未然に防ぐ役割になった。
尊は仮眠をとるため、ベッドに仰向けになり、目を閉じた。そのうちに知らず眠気が襲ってきた。
尊は一軒の教会の前にいた。
季節は春ぐらいだろうか。春の日差しが眩しかった。
尊は自分の服装を見て驚いた。全身黒のタキシードだった。どういうことだ?
タキシードで目の前は教会。俺はまだ結婚する気はないぞ。
すると、前方から真っ白いウェディングドレスを身に纏った女性が小走りに駆けよってきた。顔を見た瞬間、背筋が凍った。従姉妹の潤子だった。
潤子からは香しい香りがした。普段、香水もつけないし、化粧すらしない従姉妹が、この時は初めて女に見えた。
「何ぼうっと突っ立ってるの?さあ、行きましょう。わたしたちの門出なんだから」
潤子は尊の腕をとり、教会にグイグイ引っ張って行く。尊はされるがまま、教会の中に入っていく。
目の前には祭壇があり、黒い衣装の牧師が待ち構えていた。
尊は引きずられるまま、祭壇の前まで歩かされた。
おいおい、本当に潤子と結婚してしまうのか。幼い頃は年上のお姉さんとしか見ていなかったのに...。
牧師は二人を見て、永遠の愛を誓いますかと、型通りの台詞を言う。
「誓います」
潤子は迷いなく言った。
牧師は満足そうに頷くと、尊に目を向けた。
「あ、その、まだ、誓えないかな...」
潤子の視線と牧師の視線が尊の顔に集中する。そんな目で見ないでくれよ。俺は悪いことは何もしていない。
「どうして、誓いますって言えないのよ!牧師さんを怒らせるなんて、もう、信じられない!」
潤子は咬みつきそうな勢いで尊を罵った。滅多に感情を露わにしない彼女には珍しいことだった。
「そんなに怒らなくても...」
牧師は直立不動のまま、じっと尊を見下ろしていたが、だんだん怒りで顔全体が歪んできた。いや、怒りからではなく、なんだか顔の中の異物が動き回っているかのようだった。
やがて、牧師の顔が二つに割れて、中から白い物体が飛び出してきた。まるで包丁でスイカを真っ二つに切るような鮮やかな形で、顔を歪めさせた白い物体が姿を現わした。
あっと思って、尊は潤子を庇うように倒れ込んだ。
潤子は尊の肩にしがみつき、だから言ったじゃない!と泣きわめく。
白い物体は牧師という宿主から抜け出し、尊の足元まで這いよって来た。
口から糸のようなものを吐き出して、尊の脚を包もうとしている。尊の頭の中で、ネバタマ様が浮かぶ。
ネバタマ様は人目につかない場所で活動するのではなかったのか。とりあえず逃げなければ。潤子、逃げるぞ!
尊が立ち上がろうとしたが、それよりも早く、蚕のような物体は口から吐き出した糸を器用に尊の両脚に巻き付けた。
「潤子、助けてくれ!」
蚕は容赦なく、すぐに尊の全身を包み始めた。俺は死ぬのか。それもタキシードをおめかしした状態で。
ああ、やだ。やだ。助けてくれ!
「先生、先生、しっかりしてください!」
尊が目を覚ますと、そこには見慣れたホテルの部屋だった。傍らには不安そうな顔をした助手の麻奈がいた。
「ああ、麻奈ちゃん、どうしてここに?」
尊は全身に汗をかいていた。まだ胸が高鳴っており、呼吸を整える。
「先生、すんごいうなされてましたね。大丈夫ですか?あ、水飲みますよね」
麻奈は冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出して、尊に渡す。尊はキャップを開けるのももどかしく、一気に呷った。
「落ち着いた。ありがとう」
「先生、ちょっとこの件にのめり込み過ぎじゃないですか?」
「君こそ、なぜここへ?」
「もちろん、わたしは先生の助手なんで、手助けに来ました。ほら、交代でカメラを監視した方が効率がいいでしょう」
麻奈はにっこりと微笑む。どうして夢の中の花嫁が彼女じゃなかったのだろう。
「しかしね、君、大学は大丈夫かな?単位を落としたらどうするつもりなんだい?」
「わたしは単位は十分にとっているから。それに大学の講義はわたしには退屈で。先生の助手やってる方が楽しいし、勉強にもなる」
「そりゃ、嬉しいが、男女二人が同じ部屋というのも、どうかな?」
「先生はジェントルマンでしょう」
まったく警戒心のないお嬢さんだ。
「まずは先生、お風呂に入ってください。そんなに汗かいてたら気持ち悪いでしょう」
言われるがまま、尊はバスルームへ向かった。
「おまえ、正気なのか?」
康介がビールを飲んでいると、百合子が小声でネバタマ様のことを話し始めた。睦美の耳を気にしてか、声を絞ったが、康介は酔いもあって、素っ頓狂な声をあげた。
「正気よ。わたしね、嘘ついてるかどうかわかるもの。お婆さんの言っていることは本当よ」
「今泉って人も、ネバタマ様が子どもを攫ったって、わけのわからないことを言ってたな。みんな、本当におかしい。正常なのは俺だけなのか」
「康介さん、実際にこの村では何人もの子どもがいなくなっているの。偶然にしては出来すぎているわ」
「別に子どもがいなくなる事例なんて山ほどあるじゃないか。そんな村の婆さんが言うことに耳を貸す必要はない」
康介はビールをグッと呷り、一息ついた。
「でもあなた、移住してきた家族の子どもが立て続けにいなくなっているのよ。明日から約一週間、ネバタマ様が活動する期間なんだって。だから、わたしたちが睦美を守らないと...」
「百合子、多分、慣れない土地に来たばかりだから疲れてるんだよ。村長の家政婦なんて辞めたらどうだ?」
「わたしが気が触れたとでも言いたいの?わたしね、知ってるのよ。あなたが浮気していたこと」
すると、康介の赤ら顔が一瞬だけ青くなる。
「浮気だって?この俺が?」
「顔に書いてあった。わたし、我慢してたけど、言わせてもらうわ。あなたは我が家の大黒柱だから、好き勝手にやらせてたけど、もうあなたは会社を辞めたからただの人。我慢することもない」
「百合子、一体どうしたんだ?」
「わたしとあなたが留守中に、あなたの浮気相手が家を訪ねて来たそうじゃない。その時、家にいたのは睦美だけだった。睦美は喘息の症状が出て、吸入器を与えて、その人が助けてくれたらしいわ。その浮気相手には感謝している。まだ浮気相手とは続いているの?」
「いや。別れは告げた。百合子、すまない。出来心でズルズルと不倫関係を続けてた。でも誓って言うよ。もう浮気はしないよ」
「だったら、明日からわたしと交代で、睦美の寝ずの番をして。わたしに誠意を見せて」
康介は諦めたように、わかったよと言った。
部屋に戻ると、大祐が荷物をまとめていた。
「どうしたの?」と沙穂が訊いた。
「ごめん。父さんが危篤状態になって。だから、東京に戻らなくてはならなくなった。埋め合わせはするよ」
沙穂にキスをすると、大祐は大慌てで部屋を後にした。
やっと邪魔者がいなくなった。
自然と、沙穂は鼻歌を口ずさみ始めた。
デスクの上の便箋にボールペンで手紙を書いた。睦美は小学生なので難しい言葉や漢字は使わず手紙を完成させた。
「ネバタマ様は過去に五人の子どもを攫って行ったということだな」
過去の新聞記事の縮刷版のコピーをテーブルに並べた。女の子が二人、男の子が三人だ。
「先生、もしかしたら、ネバタマ様って、鬼子母神なのかもしれませんね」
「鬼子母神て、子どもを食べてしまう、あれ?」
「そうです。釈迦の守護神の一人で、たくさんの子を持っていたけれど、その子たちに栄養をつけさせるために人間の子どもたちを攫ったって。やがて自身の子どもを釈迦に隠されて、半狂乱になって嘆き悲しみ、その様子を見ていた釈迦から人間の子どもたちを失った親の悲しみがわかったかと諭され、仏教に帰依したって神様です」
「なかなかいい点をついてるね。そうだ。鬼子母神だよ。だけど、ネバタマ様ってのは蚕の化身なんだろう?」
「でも先生、誰もネバタマ様を見たことがないって言うじゃありませんか。なら、蚕の化身だと決めつけるのは時期尚早だと思います」
「そうだな」
尊はスマホの画像に何の変化もないことを認め、何か飲むかい?と訊いた。
「いいえ。先生、先にベッドに入っててください。わたしがしばらく、画像を見ています」
「いいのか?じゃあ、お言葉に甘えて、ひと眠りしてくるよ」
尊は隣の部屋に消えた。その後、いびきが聞こえた。いびき、なんとかならないものか。
麻奈は体操をしながら、スマホの画像を観察していると、画面の右横で何かが動いた影を捉えた。
麻奈はスマホに顔を近づけた。錯覚ではない。確かに何かが動いた気配があった。
麻奈はしばらく画像を睨んでいたが、画面はただ社殿を映しているだけだった。
「わあい。お姉さんと出かけられるなんて、嬉しいなあ」
深夜一時、沙穂は睦美の手を握っていた。睦美には手紙で綺麗なお星さまを見に行こうと書き、待ち合わせ場所を指定した。
その場所で待っていると、睦美はパジャマにダウンコートを羽織ってやって来た。
走って来たのか、息を切らしながら睦美が到着した。
「お姉さん、ネバタマ様出ないよね?」
沙穂はしゃがんで、睦美と同じ目線になると言った。
「ネバタマ様は人が起きている時は活動しないの。だから、姿を見せることはないの。さ、行こう」
康介はスマホのLINEの画像を開いていた。
今日から一週間、百合子と交代で寝ずの番をすることになった。
百合子は気づいていた。康介はいつかはバレるとは覚悟していたので、それほどショックではなかった。ただ、これから先、康介は百合子には頭が上がらない。家庭でのパワーバランスも変わっていくだろう。
先日、沙穂が大祐といっしょに康介を訪ねて来た。沙穂は明らかにやつれていた。最後のお別れどころか、康介を諦めないと言い放った。
だから、康介は彼女とLINEの交換をして、とにかく家には二度と来ないように念押しした。
返信はなかった。既読はついていた。返信がないことが不気味だったが、あれから音沙汰がないから、彼女もケジメをつけたのだろう。
やはり会社を早期退職したことは正解だった。
あのまま会社にいたら、沙穂と心中する運命にあったかもしれない。これからは女には用心だ。
康介は沙穂のLINEのアカウントを躊躇なく消した。
一時間ばかり経ってから睡魔が襲ってきた。
康介は立ち上がり、コップに水を注いで飲んだ。田舎の水は都会のそれとは違って甘い味がした。
時計は三時を示していた。
「康介さん、康介さん、ちょっと起きて!睦美がいないのよ!ネバタマ様に攫われたわ!」
康介はテーブルの上に突っ伏したまま眠ってしまったようだ。
百合子の半狂乱の声が現実に引き戻した。窓からは夜明けの光が差し込んでいた。
「あなた、何で徹夜しなかったの?もう!眠くなったらわたしを起こしてくれればいいのに!」
康介は睦美の寝室に向かった。
ベッドは空だった。康介はベッドの上に手を載せた。ベッドはひんやりしていた。睦美が部屋からいなくなってだいぶ時間が経っていた。
「ああ、そうだ。警察だ!えっと、確か駐在所があった」
康介は着の身着のまま、サンダルをつっかけて走り出した。後ろから百合子が何かを叫んでいたが、構わず走った。
「そりゃ、もしかすると、外にでも散歩に出かけたんじゃないかな?」
駐在所の巡査は眠そうな顔をしながら呑気に言った。
「睦美が勝手に外へ散歩なんかしません。とにかく、信じたくはないけど、ネバタマ様が睦美を攫って行ったんだ!」
「ひとまず落ち着きましょう。もしかしたら、ひょっこり帰って来るかもしれませんよ」
康介は巡査の胸倉を掴みたい衝動に駆られた。まったく暖簾に腕押しだ。限界集落のおまわりなんて、クソの役にも立たない。
「調書とりますんで名前と住所をお願いします」
康介はとりあえず深呼吸をし、椅子に座ろうとした時、駐在所に中年の村人が飛び込んできた。
村人はそこに康介がいないかのように叫んだ。
「幼い女の子が木の下で横たわってる!あと、若い女の人が崖下に転落しとる!」
現場は欝蒼とした雑木林の開けた場所だった。
睦美は木に頭をぶつけて、そのまま気を失ったらしく、低体温症に陥っており、呼吸が浅くなっていた。すぐに救急車に乗せるべく、村人たちが睦美を運んで行った。
崖下には若い女性が横たわっていた。
駐在所の巡査と村人が縄梯子を使って、崖下に降りて、女性の生死を確認した。
巡査は上にいる村人たちに向かって、腕をバツ印に交差させた。女性の死亡が確認された。
死亡した女性は東京から来ていた二宮沙穂だとわかった。なぜ沙穂が睦美といっしょに林の中にいたのか、わからなかった。ただ一つ言えることは沙穂と睦美は面識があったということだ。
となると、睦美を連れ去ったのは沙穂なのか。俺が一方的に別れを切り出したことへの復讐のつもりだったのか。
そう言えば、大祐はどうしたのだろう?彼女といっしょに行動を共にしていたはずだが...。
百合子はすっかり憔悴しきっていた。康介が話しかけても上の空だった。
康介は警察署まで事情聴取に向かった。

