寝ずの番

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「十二年前に娘が村で行方不明になりました」
 年老いた婦人は目頭にハンカチをあて、涙を堪えていた。
「不妊治療の末にやっと授かった子なのに...。この世に神様がいるなら、訊きたいわ。どうしてわたしなの?」
 先ほどから依頼人の婦人はハンカチをくしゃくしゃにしながら、涙ながらに訴えた。
「大丈夫ですか?あまり、興奮なさらずに」
 尊はどうしていいかわからず、オロオロするだけだ。
 今日はゼミ合宿のため、頼りになる高宮麻奈が不在だ。こんなところで泣かれても困る。
「探偵さん、あの村では良からぬ噂が流れています。外から来た子どもを攫って、闇の組織に人身売買したり、外国へ労働力として斡旋したり...。警察はまったくあてになりません。ですから、探偵さんのような方に相談するしかないのです」
 婦人は次に哀しみから怒りに表情を変えた。
「わかりました。わたしも大学教授からの依頼で財糸村へ行って来ました。ただ、あなたのおっしゃるような、バックに人身売買の組織があるというようなことは考えにくいですね。あの村は限界集落で、ほとんどがご高齢の人たちばかりです。犯罪に関わっているような方は見当たりません」
「探偵さん、それではわたしがおかしなことを話していると考えてらっしゃるのですか?それはあんまりです。一人娘は現に、あの村から忽然と姿を消してしまったのですよ!どうして、わたしの話を誇大妄想だとか言って、一蹴してしまうのでしょう?」
「奥様、別に奥様がデタラメをおっしゃっているとは思ってません。ただ、財糸村の子どもの行方不明は事件性がないというだけで。だから警察も本腰を上げないと思います」
 婦人は深呼吸をした。涙を流し過ぎて、すっかりアイシャドウが崩れている。
「わかりました。でも、探偵さん、こうしている間にも、財糸村では新たな子どもの犠牲者が出るはずです。新たな犠牲者が出てからでは遅いんです」
「ええ。でも、ご安心を。知り合いに刑事がおりまして。それとなく財糸村での子どもの失踪事件を話してみました。その件についても調査に協力すると請け負ってくれました。だから、分かり次第、ご報告させてください」 

 沙穂は有給休暇をとって、財糸村へ向かうことにした。
 地図を広げて、財糸村の位置を確認する。群馬県と栃木県の境目にある曰く付きの村は、今では限界集落だ。
 どうして、こんな陸の孤島のような村にあの人は移住したのかしら? 
 考えれば考えるほどわからない。都会での生活の方が何倍も快適なはずなのに、敢えて田舎の生活を選ぼうとする人の気持ちがわからない。確かに都会と違って田舎は時間の流れが緩やかで、都会の喧騒から逃れたい人にはいい環境だ。だからといって、死ぬまで住み続けるとなると、やはり二の足を踏んでしまう。
 以前、聞いたことを沙穂は思い出した。娘の睦美ちゃんが喘息の気があり、空気の新鮮な場所で過ごさせたいと。つまり、康介にとってわたしより、娘、そして家族の方が大事だということだ。
 所詮は火遊びだったのかもしれない。だけど、康介は火遊びでも、沙穂にとっては火遊びでは済まされない。本気だった。
 枕元で奥さんと離婚してと、何度も懇願した。すると、彼は君には若くて相応しい相手が現れるから、歳をとった俺なんてやめた方がいいとはぐらかした。
 今考えれば、卑怯な男。だけど、その卑怯な男を愛せずにはいられない。きっと病気なんだ。この病気は医師にさえ治せない。やはり、わたしたちは結ばれなければならない。そのためには多少の強引さも必要だ。
 沙穂は意を決して、康介に会いに行く気になった。山本大祐にはケジメをつけるためだと言ったが、そんなつもりはない。彼をわたしのものにするんだ!
 長いこと電車に揺られて、沙穂は財糸村の近くの私鉄の駅に降り立った。駅員が若い一人の女性客が珍しいのか、チラチラ視線を寄越す。
 案内図で財糸村の位置を確認する。深い山間にある村は駅から相当離れていた。やれやれ、確かに陸の孤島だ。 
 空気は都会と違って澄んでいる。時間の流れもストップモーションをかけたみたいに穏やかだ。
 沙穂は駅員に財糸村までの最短ルートを訊いた。
「あの村へ?あそこは何もありませんよ」
 駅員が不審そうに言った。
「観光ではありません。ある方に会いに行くんです。タクシーは拾えますか?」
「タクシーは走ってないけど、こちらから手配はできます。少し割高になりますけど、どうしますか?」
 沙穂はタクシーを呼んでもらった。

 財糸村の入り口には朽ち果てた看板が立っていた。かろうじて村の名前が読める。先ほどの駅員といい、タクシーの運転手といい、沙穂を奇異な目で見ていた。こんな場所を訪ねる物好きがいるものだと言わんばかりの目だ。
 それは会社で感じる女子社員の目と近い。隠れて不倫をしたところで、バレるのは時間の問題だった。女子社員の間では、わたしたちの不倫は筒抜けだったらしい。
 だから、康介は会社を去ってしまったのか?いや、沙穂を見捨てるわけがない。何かやんごとない事情があったのだ。
 都合のいい考えが人工衛星のように回る。
 大祐が手帳に記した住所まで行く間、沙穂は何度も躓きそうになる。
 子どもの声がどこからかした。案外、過疎化が進んでいる割に家族連れが多いのかもしれない。
 数人の子どもたちが沙穂を認めるなり、異星人でも発見したように動かなくなる。やはり、地元の人間ではないので、都会のけばい匂いを振りまいているのかもしれない。子どもたちはすぐに沙穂に興味を失くして去って行った。
 すっかり足腰も痛くなった。どこかで休みたくても、腰かける場所もなかった。
 仕方なく木の幹に寄りかかっていると、前の叢がガサガサ揺れた。
 沙穂は一瞬だけ悲鳴を上げそうになる。
 叢から顔を出したのは、あどけない顔をした少女だった。少女と目が合った瞬間、少女が見知った顔だとわかった。康介さんの娘の睦美ちゃんだ。 
 睦美ちゃんは沙穂を見るなり、突然こんにちはと挨拶をした。本当にいい子だ。あの不埒な男の子どもだとは思えない。
「あなた、睦美ちゃんよね。わたしね、お父さんと同じ会社にいたの」
「え、そうなんだ。じゃあ、お父さんのお友だちだ」
「うーん。友だちってわけでもないんだけど。あ、お父さんに会いたいんだけど、お家まで案内してくれるかな?」
 睦美はしばらく、沙穂の顔を見ていたが、ようやく沙穂を悪い人ではないと判断したのか、請け負った。
 沙穂は睦美の手を握った。睦美は抵抗することなく、握り返した。

 家は木造の平屋だった。後ろには欝蒼とした森が見えた。まるで童話に登場するような家。
「ねえ、お父さんを呼んできてくれる?」
 沙穂は中腰になって頼んだ。
「あ、あのね、お父さんは街に買い物に行ってて。お母さんは家政婦の仕事に行ってるの」
 ということは睦美以外、誰もいない。これはいろいろ聞きだすチャンスかもしれない。
 沙穂は遠慮なく、家にあがった。
 中はまだダンボールの山が積みあがっていた。
 整理されていない状況にもかかわらず、妻が家政婦の仕事に行っているなんて、本末転倒ではないか。まず自分の家の整理の方が先ではないか。案外、奥さんはズボラなのかもしれない。
「二宮さんは麦茶でいいですか?」
 睦美は冷蔵庫を開けていた。
「あ、いいのよ。それよりさ、お父さん、元気?」
「うん。会社辞めて引っ越ししたら、とっても元気になった」
 そうか。わたしから離れて、清々しい気持ちになったということか...。
 こんなこと訊くんじゃなかったと思った。 
「お姉さん、なんか元気ないね。お腹すいてるの?」
 そう言えば、沙穂は朝から何も食べていなかった。空腹を今更ながら感じた。
「睦美ちゃんは、どう?」
「お母さんがオムレツを作ってくれたから」
 沙穂は百合子の顔を思い出した。良妻賢母を絵に描いたような女だ。
「ねえ、本当はお父さんは、睦美ちゃんの喘息を治すために、田舎に引っ越したのよ。睦美ちゃんはお父さんに愛されてるのね」
「うん。お姉さん、でもね、ネバタマ様が怖いよ」
「ネバタマ様?何それ」
「お父さんとお母さんが話してた。ネバタマ様が来て子どもをさらって行くって。わたし、お化けとか見たことないけど、なんだか夜中におトイレに行けなくなった」
 そういえば、インターネットでこの村について調べていた時、ネバタマ様という蚕の神様が祀られている記事を見つけた。
 沙穂はお化けや幽霊など信じない。康介のような論理的な考えをしている人間がそんな戯言を信じるだろうか。
 そんなことをぼんやり考えていると、突然、睦美が胸を押さえて、激しく呼吸しだした。見ると、顔面が蒼白になっており、ふいごのような音が喉から漏れ聞こえた。
「睦美ちゃん、大丈夫?どうしたの?」
 睦美は何も答えず、苦しいのか、テーブルの上の麦茶の入ったグラスを倒した。麦茶はテーブルの上に広がった。
「睦美ちゃん、しっかりして。喘息なのね。吸入器はどこにあるの?」
 睦美はまるで首を絞められているかのように、息も絶え絶えで、それに応える余裕はなかった。
 沙穂はあらゆる引き出しを開けては吸入器を探した。
 睦美は床の上に横臥し、手足をばたつかせた。このままでは死んでしまう。
 沙穂は吸入器を見つけると、睦美を抱き起こして、吸入器を睦美の口に咥えさえた。睦美はゆっくり吸入器を吸い、乱れた呼吸がだんだん正常になっていくのがわかった。
「ああ、よかったあ。大丈夫?」
 顔色を取り戻した睦美は力なく頷いた。