寝ずの番

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 村の近くには小学校があった。都会の小学校とは違い、校舎は木造の平屋。校舎の後ろには欝蒼とした雑木林が拡がっていた。
 小学校はいいとしても、問題は中学、高校はこの村の外れにあるということだ。つまり越境しなければならない。
 とりあえず、睦美は三年生なので、後三年の猶予がある。
 睦美はそんなことはどこ吹く風で、小学校を気に入った。
 たまに校庭に鹿やイノシシが出るんですよと、婦人の校長はあっけらかんと言った。
「でも、都会の学校とは違って、自然があふれているから情操教育にはいいと思います」
「そうですねえ。まるで小津安二郎の映画にでも出てきそうな学校ですね」
 百合子は言った。すると校長は破顔した。
「子どもはのびのびと育てないと。都会の学校にはカーストのような階級があって、下位の生徒たちはいじめられたりしますでしょう。ストレスが大人以上に多いところにいたら、ろくな大人になれません。それに引き換え、ここはストレスのない学校生活を送れます」
 校長は太鼓判を押した。確かに長閑で都会の学校と比べても、時間の流れが違う。だけど、あまりのびのびさせても、社会に出た時に、競走の渦に巻き込まれて埋没してしまうのではないかと心配になる。
「校長先生、ネバタマ様って、なんですか?」
 百合子は思い切って、気になることを訊ねた。
 すると、校長は今まで穏やかに微笑んでいた表情を一瞬、凍りつかせた。
「まあ、やっぱり、みんな移住してきた方はその噂を耳にするようですね。奥様、それは都市伝説みたいなものでして。実際には存在しません」
「校長も見たことはないんですか?」
「わたしだけではなく、村の誰もありません。だから、わたしが思うに、勝手に噂が作った怪物だと思います。奥様、あまり真剣に取り合わない方がいいですよ」
 百合子は気が楽になった。単なる噂で存在しないなら、びくびくする必要はない。
「睦美ちゃんは前の学校でも、掃除委員もやってて、学力も申し分ないですね。きっとクラスの人気者になるでしょうね」
 校長はさっさと話題を変えてしまった。

「ここなら日当たりはいいし、作物もよく育ちます。えっと、三沢さんは農業の経験はありましたか?」
 不動産屋が訊いた。
「ええ。海外で食料品の原材料の買い付けの交渉に行った時に、体験学習でやりました」
「じゃあ、心配ないですね。何を作るつもりですか?」
「ナスやトマトなんていいかなあって。それも無農薬で、新鮮な野菜を作って、村の人たちにもお裾分けしたいですね」
「三沢さんなら上手くいきますよ。いや、楽しみだ」
 不動産屋の乗ったライトバンを見送りながら、康介は買い取った畑となる土地の真ん中に立った。秋の風が気持ちよかった。一国一城の主になった気分だ。
「お父さーん。あっちに鹿がいた!すごいよ。ここ、サファリパークみたい!」
 睦美が転びそうになりながら、山の斜面を駆け下りてきた。
「よかったなあ。でもイノシシには気をつけるんだぞ。お父さんな、ここで無農薬野菜を育てて、みんなに振る舞うぞ」
 康介はシャツの袖を捲り、力瘤を見せた。
「わあい、でも、わたし、トマトは食べられないなあ」
「大丈夫。お父さんが育てたトマトなら、睦美も食べられるよ」

 翌日、財糸村の村長宅へ康介たち三人で訪れた。
 村長は八十近い高齢の老人だった。代々、生糸産業で財を成してきた一族の末裔で、財糸村の名づけ親でもあった。
 かつて、生糸産業で儲けたものたちがこぞって、御殿のような家屋を建て、栄耀栄華を極めていたが、現在は村長宅の屋敷だけが、その名残を留めていた。
 どの村でも、兵どもの夢のあとのような村が存在する。時代とともに変わっていく村の姿は枯れた木のようでもあった。それは世の理と言ってしまえばそれまでだが、宿命的にそれは避けられないのかもしれない。
 浦添村長は齢八十九歳だが、身体はかくしゃくとしていて、血色もよかった。
「わざわざ挨拶に出向いていただいて嬉しいねえ。さ、楽にしてくださいな。今お茶を淹れますから」
 浦添村長はソファから立ち上がろうとした。百合子は慌てて、わたしが淹れますと言った。
「そうかい。悪いね。キッチンに茶筒があるから適当に淹れてくださいね」
 百合子は頷くと、キッチンへと消えた。
「村長さんはここでお一人ですか。こんな広いお屋敷では掃除も大変でしょう」
 康介が周りを見回しながら訊く。
「まあ、適当にやっとます」
「おじちゃん、わたし、前の学校で掃除委委員にいたんだ。お掃除は得意だよ」
 睦美がすかさずアピールする。
「ハハハ。元気なお嬢ちゃんだ。子どもは宝ですからなあ。財糸村も隆盛期の頃は子どもの数も百を越えて、学校もあちこちにあった。人口だって、現在よりも数倍だった。だが、今はどうだ。限界集落の看板を背負うようになった」
「どこも、村と呼ばれる地域は過疎化が進んでいますね。若い人たちは皆、都会に出てしまうわけですから」
「その通り。わしの子どもも都会に移住してしまった。でも、三沢さんたちは都会からこの地に移住してきた。若者と逆のことをしている。あなた方は稀有な存在だ」
 百合子がお茶を四人分、淹れ、居間まで運んできた。
「三沢さん、いい奥さんをもらいましたな。大事にしないとバチが当たりますよ」
 康介はギクッとした。沙穂のことが頭を過った。沙穂は今頃、どうしているのだろう。強引に関係を断ったが、彼女は終止符を打つつもりはなかったようだ。
 時々、山本大祐に連絡を取っているが、彼女は至ってふつうに仕事をしていると聞いた。
 百合子が康介を一瞥したので、彼女のことを考えるのをやめた。
「村長さん、もしよろしければ、わたしが家事をしましょうか?昼間は暇ですし。村長さんもお一人では大変でしょうから」
 百合子が提案してみると、村長は意外そうな顔をした。
「あ、ご迷惑でしたね」
「いや。そんなことはない。ただ、都会の人たちは冷たいというイメージがあったから、奥さんの提案がすんなり受け入れられなくて」
「ごめんなさい。急すぎましたね」
「いや、是非、やってもらいたい。報酬は弾むよ。ただという訳にはいかないから。来てくれると、こちらも助かる」

 村長宅を出たところで、康介は不機嫌になった。
「本気かい?家政婦みたいなことやって。お金の心配なら要らないのに」
「別にお金のためじゃないわ。気晴らしよ。あんな家に一日中、いたら気が変になりそうよ。わたしだって息抜きする権利はあるわ」
「おいおい、まるで俺が百合子を束縛してしているような物言いだな」
「そんなこと言ってないでしょう。わたしはただ、村長さんに便宜を図った方が後々何かの役に立つと思ったのよ。それのどこがいけないの?」
 百合子は不機嫌そうに頬を膨らませた。昔から彼女が機嫌の悪い時のサインだ。
「あんなジジイの世話なんて。あのジジイ、百合子を女として見てたぞ」
「あら、嬉しいわ。わたし、まだまだ女盛りなのね。もう一花咲かせようかしら」
「本気で言ってるのか?」
「冗談では言わないわ。わたしはね、こんな田舎で誰にも相手にされずに朽ち果てるなんて、まっぴらごめんよ」
 百合子の頭から火が出そうな勢いだ。すると、それを聞いていた睦美が「女盛りってなあに?」と訊いた。
「ああ、まだ睦美には教えるのは早いな。そうだ。森の中を通って帰ろうか」
「わあ!森の中、楽しそう!」
 睦美がいい緩衝材になってくれた。