君がいなくなってからの僕は

 復帰初日から、はしゃぎすぎてしまったかもしれない。僕と宮下さんの会話を阻むように、学習机に黒い影が落ちた。

 「お前たち」

 案の定、矢作くんだ。丸刈りにメガネで、柔道部の主将。成海学園には電車通学をしていて、何度も痴漢を撃退しており、警察から表彰されているような、正義感の強い漢。当然、校則違反の『バイト』なんて許さない。さきほどの会話を盗み聞きされてはいないかと、僕は警戒した。

 「あんたはヤハリくんやっけ?」

 宮下さんは成人男性(だよね……?)の余裕からか、コンビニのバイトで迷惑な客になれてしまっているからなのか、矢作くんにもフランクに対応している。ヤハリじゃなくてヤハギくんね。

 「ヤハギだ。宮下、お前は授業中に眠っていたな。前の学校では寝ていてもよかったのだろうが、成海学園では、そのようなたるんだ態度は許されないぞ」

 本人からも訂正が入って、宮下さんはめんどくさそうに頭を掻いた。僕は矢作くんに注意される前に、第一ボタンをいそいそと締める。

 「雄大くんに起こされんかったから」
 「僕のせい?」
 「宮下。他人に責任をなすりつけるのはよくないな。だが、介護役を任せた狭間にも、責任はある」
 「僕にも?」
 「連帯責任だ」

 矢作くんは、学習机に二冊のノートを置いた。なんだろう。

 「明日までに、このノートの中身を書き写せ」
 「えー!」

 宮下さんは不満そうな声を上げたが、僕は重なっているノートのうちの一冊を開いて、……驚いた。これ、一週間ぶんの板書だ。
 一冊目が文系科目、二冊目が理系科目。

 「矢作くん、これ」
 「みなまでいうな。このクラスの平均点を落とすわけにはいかない。ひいては学園の沽券に関わる」

 矢作くんは、照れ隠しのように、メガネを押し上げた。沽券という単語に包んでいるけど、つまりは、僕の学力を心配してくれている。一週間ぶんの遅れを取り返すのに、このノートはうってつけだ。

 「ほーん。ツンデレ?」
 「違う!」
 「見た目イカツいのに、カワイイところあるやん」
 「か、かわいい、だと……?」
 「ま、まあ、こうやって、別のノートに書き写すことで、矢作くんの復習になるから、一石二鳥、だよね!」
 「うむ。そうだ」

 ふぅ。なんとかフォローできた。矢作くんに『カワイイ』を言ってはいけない。本人は生真面目な委員長だから、おちゃらけた『カワイイ』は受け入れがたい概念なのだとか。

 「まっ、ええか。おおきにー」
 「それと宮下。その長い髪を切れ」

 ノートをスクールバッグにしまう宮下さんに、矢作くんからの追加の指摘が入った。長い髪は校則違反ではない、はず。僕は生徒手帳を取り出す。……うん、公序良俗に反するレベルではない。

 「ほい」
 「なんだこの手は」
 「こうしたほうがええか?」

 宮下さんはまず手のひらを天井に向けて出して「なんだこの手は」と言われて、人差し指と親指をくっつける。金?

 「?」
 「髪を切るには、金がいるやろ」
 「そうだな?」
 「ヤハリくんがウチに髪を切ってきてもらいたいんやったら、ヤハリくんがそのぶんの金を払うのが筋やない?」
 「ちょっと!」

 大人が高校生にたかるな、と口から出かけて、こらえた。宮下さんの中ではこういう理論がまかり通るのだろうが、矢作くんにも通るとは限らない。おそるおそる矢作くんの顔を見上げれば、さきほどの『カワイイ』と言われてしまったときのようになっている。要は、噴火寸前。頭に血がのぼっている状態。

 「宮下ぁ!」
 「み、宮下さんには悪気があるわけじゃないから! ねっ! 成海学園としては、髪が長くても問題ないみたいだし! 矢作くんが、なんで『髪を切ってきてほしいのか』を、落ち着いて、話してくれたら、宮下さんだってわかってくれるよ!」
 「お、おう……すまない、狭間。狭間の言うとおりだ」

 よ、よかった。矢作くんに暴れられたら、僕には先生を呼ぶことしかできない。変に止めようとして、ケガでもしたら大変だ。矢作くんは正義感が強いけど、融通の利かない男でもある。君もそう思うだろう?

 「短くしとるからって、他人に強制するんは、よくないで」

 さすがの宮下さんも突然の噴火にはびっくりしたようだ。背もたれに身を隠すようにして、抗議している。

 「自分が短いのは、競技のためだ」
 「せやったら、なおさら、ウチの髪にいちゃもん付けてくるんかわからへんな。ウチは競技なんてせんもん」
 「その、宮下の雰囲気と相まって、女性のように見える。髪型を変えてもらえたら、自分は誤認識せずに済むのではと、思ってしまった。悪かった。すまない」
 「ウチが? ……たまに女の子っぽいとは言われるけど。理緒っていう名前含めて。雄大くんは、どう?」

 判断を委ねられた。宮下さんが女の子に見えるかというと、……僕は宮下さんがいざとなると窓を割ろうとしてきたり(自称)幽霊が見えたりするとんでもない人間だと知っているので、正常な判断ができない、気がする。君と相談できたら相談したいが、僕は幽霊とは話せないから、僕が考えるしかない。

 「うーん?」
 「ちなみにやけど、男は恋愛対象外やで。ウチ」

 矢作くんは僕と宮下さんを交互に見た。なんだよその目は。

 「なるほど、なるほどなあ」

 何が『なるほど』なのか、矢作くんはうんうんとうなずきながら離れていった。なんだったんだよ。