君がいなくなってからの僕は

 矢作くんがのしのしと僕たちの席に近付いてきた。僕は壁掛けの時計を見上げる。いつも通り。遅刻をしているわけではない。何の用だろう。朝から学級委員から咎められるようなことで、思い当たる節は、僕にはない。宮下さんがタバコを吸っている姿を見かけたとか、バイト先のコンビニの前を通りかかったとか?

 「おはようさん、ヤハリくん」

 先手必勝とばかりに宮下さんが挨拶した。矢作くんは、意を決して、宮下さんの両肩に手を置く。

 「宮下!」
 「わ。何?」
 「昨日、駅で女性とその、その……」

 出だしは勢いよく。それこそ宮下さんが動じるほどの迫力で。だが、言葉の途中から突然顔が真っ赤になって、口ごもる。最初の勢いはどこへやらの急降下。大きな目をせわしなくきょろきょろとさせて、頭の中では次に続く言葉が出てきているのに口には出せない様子。やれやれ。僕らのクラスのリーダーは純情派でいらっしゃる。

 「矢作くんも、あの駅にいたのかー」
 「も……? ということは、狭間もあの場にいたのか?」
 「うん。要は、僕も矢作くんも、宮下さんと女の人のキスシーンの目撃者、ってことね」

 キスシーン、という言葉で矢作くんは耳まで真っ赤になって「いや! その! 自分は! 昨日は兄の道場にお世話になっていて! 偶然だ、偶然!」と聞いていない言い訳をし始めた。僕だって偶然だ。

 「結構見られてたんやね。ウチと樹里ちゃん」

 宮下さんは薄ら笑いを浮かべつつ、両肩に置かれた矢作くんの手をずらして外す。この笑いが、ちょこっとだけ不気味に見えた。僕の知らない宮下さんの顔がまだまだあるような気がする。学生でも、コンビニ店員でもなく。

 「人の往来が多いターミナル駅のド真ん中だもの。みんな見てくれ、って言っているようなものだよ」
 「さよか。来月は着替えてからにしよ。制服、樹里ちゃんには好評だったんやけどな」

 来月。
 ふと、疑問に思う。宮下さんと樹里ちゃんの関係性が恋人同士なのだとして、給料日の一日しか会わないというのは、少なすぎるのではなかろうか。七夕の織姫と彦星よりは会えているが、たとえば、樹里ちゃんが遠くに住んでいて、いわゆる〝遠距離恋愛〟のような状態なのかもしれない。一ヶ月に一度、樹里ちゃんがこちらに来てくれたり、逆に宮下さんがあちらに行ったりしているのだとすれば、宮下さんの『またいっしょに暮らそうよ』のセリフも理解できる。

 この『また』というのがミソだ。狭間家でも議論の焦点となったのだが、過去に宮下さんと樹里ちゃんは同棲していた、と考えられる。何らかの複雑な事情があって、今は宮下さんが実家暮らしとなっていて、樹里ちゃんとは別居状態。僕たちはまだ宮下さんの過去に何があったのかを知らない。中学にもまともに通っていないと、ちらっと話していた気がする。宮下さんの『幽霊が見えて会話できる』霊能力にも関係あるのだろうか。

 僕は宮下さんのことをもっと知りたい。この謎めいた霊能者の、本当を知りたくて仕方ない。僕は君のことならなんでも知っているつもりだったのに、実際は君のことを知らなすぎて、君を救えなかった。現在の菱田家を追いながら、宮下さんにも迫っていきたい。

 「自分は! 見るつもりはなかった! 成海学園の一員として、風紀を乱すような行動は慎むべしと、警告すべきか悩んだ!」
 「校外やで?」
 「校外であっても、この制服を着用しているのなら、成海学園の生徒と見做されるであろう。けしからん!」
 「タバコ吸うなとかバイトするなとかと同じか。学生に自由はないんやね。脱げばええんやろ、脱げば」
 「別れろとまでは言わない! その、いちゃつきたいのなら! せめて目立たぬところで、だな!」
 「矢作くんから『別れろ』って言われたって、別れへんよ。ボクと樹里ちゃんは一生つながっとるから」

 すごい自信だ。いや、束縛が強い系の彼氏?
 宮下さん、飄々としているようでいて恋愛面ではしつこいのかも。なるほど。ふむふむ。

 「ならば、……折り入っての相談があってだな」
 「この流れで?」

 矢作くんがこほん、と咳払いをする。矢作くんには僕が休んでいた分の一週間の板書ノートという借りがあるので、とんとんになるのなら、相談に乗りたい。

 「自分のいとこが、今週末にこちらへ遊びに来るのだが、……自分は、その、いとこをどこに連れて行ったらいいだろうか?」
 「男の子? 女の子?」
 「男だったら、相談していない。ふたりで組み手をする。それだけだ」

 まあそうか。矢作くんは柔道バカだ。いい意味で。野暮な質問をした。

 この、オクテな矢作くんは、いとこの女の子をどこに連れて行ったらいいかわからないから、彼女のいる宮下さんに問いかけている。ということだ。

 「遊びに来るって、子守りを任されたって話?」
 「いとこと会うのは、十年前の曾祖父の葬式以来だ。そのとき、あの子はまだ小さかった」

 十年前に小さかったのなら、今はいくつなんだろう。小さかったの程度にもよるけれども、小学校高学年から中学生か、もしくは、僕たちと同い年ぐらいか。

 「十年前なら、ヤハリくんだってちっこいやろ。人のこと言えへん」
 「だから! 今、どのように育っているかわからない! なのに、父と叔父は自分に任せてきた! ――もし、ふたりの予定が合えば、同席してもらえないだろうか。自分一人では、その、正しくエスコートできるかが、とても、不安だ」

 今週末……菱田家の引っ越し先の情報を集めるために、宮下さんを連れて、あの街に出かけたかった。しかし、矢作くんの頼みとなると断りづらい。

 「ウチはええけど」
 「けど?」
 「金は出してくれるんやろな?」
 「ああ。いくらほしい?」

 このやりとりだけ見ると、裏取引みたいだ。昨日は給料日だからって僕にプリンを奢ってくれたのに、翌日はこうやって年下にたかっているのは、なんだか面白い。