きみが教えてくれた、世界で一番優しい青


結局、昨夜は一睡もできなかった。

重い瞼を閉じれば、暗闇の中に羽白さんのあの瞳がぼうっと浮かび上がってくる。
吸い込まれそうなほど澄んでいて、今にも消えてしまいそうだったあの瞳。

同時に、僕の心の奥底に沈めていた「あの日」の記憶が、どろりとした嫌な手触りが蘇る。
一度触れてしまえば、もう二度と純粋なモノクロームには戻れない。

そんな予感に怯えながら、僕は鉛のように重い足取りで学校の門をくぐった。

朝の光を浴びながら、クラスの女子数人と何気ない雑談に花を咲かせている。
「あ、それ可愛い!」「今度一緒に行こうよ」なんて、どこにでもいる女子高生らしい声が聞こえてくる。
その姿は、昨日の夕暮れ、僕の袖を掴んで「一人じゃダメなの」と切実に縋った少女と、どうしても同一人物には見えなかった。

僕が自分の席についても、彼女は一度もこちらを振り返らない。
それどころか、目が合うことさえ一度もなかった。
 
(……やっぱり、昨日のあれは、何かの間違いだったのか?)

そんな安堵と、説明のつかない焦燥が胸の中でぐちゃぐちゃに混ざり合う。

約束なんて、彼女はもう忘れてしまったんだ。

そう思えば楽なのに、なぜか指先が落ち着かなくて、僕は机の下で何度も拳を握り直した。

授業中も、黒板の文字は滑って頭に入ってこなかった。
斜め前にある彼女の後頭部をぼんやりと眺めていると、さらりとした黒髪が風に揺れるたびに微かに光を反射する。
その輝きさえ、今の僕には刺激が強すぎた。

やがて放課後を告げるチャイムが鳴り、一斉に教室が騒がしくなる。
部活へ向かう奴、駅前へ遊びに行く奴。

それぞれの日常へと散っていくクラスメイトを横目に、僕はゆっくりと荷物をまとめ、あえていつもより時間をかけて立ち上がった。
彼女は、挨拶もそこそこに、もう教室を出ていってしまったようだ。

行かなければいい。
このまま帰れば、また平穏な灰色に戻れる。

そう自分に言い聞かせながらも、足は無意識に北校舎の渡り廊下へと向かっていた。
心臓が、自分でも驚くほどうるさく鼓動を刻んでいる。

昇降口を通り過ぎた、渡り廊下の突き当たり。
そこには昨日と同様、屋上へと続く階段の影に、彼女が一人で立っていた。
壁に背中を預け、手元の小さなノートを眺めていた羽白さんは、僕の足音に気づくと、パッと顔を上げた。
花が綻ぶような、けれどどこかいたずらっぽい笑み。


「遅いよ、秋月くん。……てっきり、逃げちゃったかと思った」

「……別に、逃げる理由なんてないだろ。約束したし、俺は約束を破るのが嫌いなだけだ」


さっきまで逃げようか本気で迷っていたくせに。
自分の心を見透かされないよう、ぶっきらぼうに答えると、彼女は満足そうに「ふふっ」と頷いた。


「よかった。……今日はね、街の中に隠れてる『夜の準備の色』を探したいの」

「夜の準備?」

「うん。太陽が沈んでから、夜が完全に降りてくるまでの、ほんのわずかな時間。……ほら、行こう?」


羽白さんは僕の返事を待たず、軽やかな足取りで歩き出した。
彼女が動くたびに、昨日と同じ石鹸のような香りが、ふわりと僕の鼻先をかすめた。