きみが教えてくれた、世界で一番優しい青

春の風が、校門の桜を優しく揺らしている。
卒業式の喧騒はどこか遠く、校舎に響くブラスバンドの音色は、まるで長い夢の終わりを告げるファンファーレのように聞こえた。
僕たちは今、あの日の踊り場ではなく、満開の桜並木の下に立っている。
一歩、また一歩。僕は隣を歩く彼女の歩幅に合わせて、ゆっくりと、噛み締めるように砂利道を進む。


「秋月くん。見て、今日の桜……すごく優しい『灰桜』の色がするね」


羽白さんが僕の腕にそっと手を添え、眩しそうに空を仰いだ。
彼女の瞳には、以前のような厚い包帯はない。
けれど、度数の強い眼鏡の向こう側にあるその瞳は、今もまだ、この世界の輪郭を完璧に捉えているわけではなかった。
手術は成功したけれど、視力が完全に元通りになったわけじゃない。
彼女の視界はいまだに淡い霧が立ち込めている。
けれど、今の彼女の顔には、かつてのような「喪失」への怯えは微塵もなかった。


「……そうだね。君が教えてくれるまで、こんなに綺麗な色だって気づかなかったよ」


僕は彼女の手を優しく握りしめる。
彼女は今、物理的な視力ではなく、心に刻まれた「色彩の地図」で世界を視ているのだ。
あの日、二人で指先を重ねて作り上げたあの「月白の地図」が、彼女の暗闇を、誰よりも鮮やかな世界へと変えていた。


「魔法、解けちゃったね」


羽白さんがふふ、と悪戯っぽく微笑んだ。

卒業。それは、生徒という守られた時間が終わる合図。そして、かつて彼女が恐れていた「視力が失われる魔法」のタイムリミットでもあった。

けれど、僕は知っている。
一度失われかけた僕の筆に、彼女が新しい命を吹き込んでくれたことを。
そして、僕が綴った色が、彼女の中で永遠に枯れない花を咲かせたことを。


「解けたね。……でも、新しい魔法が始まったんだよ」


僕は立ち止まり、彼女と向き合った。
僕たちの間には、もう言葉による色の説明はいらない。
彼女が僕の腕に触れるその強さで。僕が彼女を見つめるこの眼差しの熱で。
僕たちは、どんな精密な絵画よりも確かな、愛という名の色彩を共有できている。


「これからは、二人で色を作っていこう。勿忘草色も、常磐色も、月白も……。世界にある全部の色を、君と一緒に塗り重ねていきたいんだ」


羽白さんの瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。
その一滴は、春の陽光を反射して、どんな宝石よりも美しく輝いている。


「……うん。私、もう怖くないよ。秋月くんがいてくれるなら、真っ白な霧の中でも、私は一番綺麗な場所へ行けるから」


彼女は僕の手の跡をなぞるように、自分の掌を僕の手の中に滑り込ませた。
重なる体温。混ざり合う呼吸。

僕たちが綴った「永遠」は、キャンバスを飛び出し、今、この現実の空の下で芽吹いている。
見上げれば、青空はどこまでも高く、澄み渡っていた。
それはかつて僕を救った「月白」が、新しい明日へと繋がる「夜明け」へと変わった証。

僕たちは、どちらからともなく歩き出した。
卒業証書を抱え、まだ見ぬ未来という名の真っ白なキャンバスに向かって。
そこに描かれる色は、きっと、世界中の誰にも真似できない。
僕と彼女、二人だけの「消えない魔法」で綴る、最高の物語がこれから始まっていく。