*
*
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二年前、高校一年生の春。
桜の花びらが舞う校庭を、誰もが希望という名の光を追いかけて走り出す中で、私の世界からは「未来」という言葉が鮮やかに色を失った。
医師から告げられた無機質な病名は、私の柔らかな日常を、冷たく真っ白な恐怖で塗り潰していく。
「いつか、君の視力は失われるかもしれない」
その言葉は、鋭いナイフのように私の胸を貫いた。
宣告を受けた翌日。
放課後の校舎は、部活動に励む生徒たちの声で溢れ、世界はこんなにも眩しいのに、私だけが出口のない深い深い霧の底へ突き落とされたような心地だった。
震える足で歩く廊下。
これから訪れる永遠の霧を想像しては、肺が押し潰されるような呼吸の苦しさに、どうしようもない絶望を噛み締めていた。
(……怖いよ。何も、見たくない。何も、知りたくない……っ)
涙で視界が歪み、世界が溶けてしまいそうになった、その時だった。
美術室の前に飾られていた、たった「一枚の絵」が、私の足を止めた。
それは、同じ学年の秋月湊くんが描いた作品だった。
そこに広がっていたのは、私が今まで見てきたどの景色よりも、自由で、激しくて、息を呑むほどに鮮やかな世界。
キャンバスの上で光が踊り、影が歌うような、圧倒的な色彩の氾濫。
夕焼けの赤も、木漏れ日の緑も、雨上がりのアスファルトの青も——彼の手にかかれば、それらはまるで命を宿した宝石のように、一粒一粒が烈しく輝いていた。
「……綺麗。なんて、綺麗なんだろう」
瞳から、ボロボロと大粒の涙が溢れた。
それは美しさへの感動であると同時に、耐えがたいほどの悲しみでもあった。
こんなにも美しい色彩がこの世界には満ちているのに、私はもうすぐ、そのすべてを失ってしまう。
すべてを奪われてしまう。
けれど、絵を見つめているうちに、私の奥底で何かが小さく産声を上げた。
それは、真っ白な運命に対する、私なりのちっぽけで、けれど猛烈な「抗い」だった。
(……忘れたくない。たとえいつか世界が真っ白に塗り潰されても、この人が描くような美しい色が世界に溢れていたことを、私は死ぬまで覚えていたい)
たとえ瞳が光を捉えなくなっても、心に鮮明な地図があれば、私はきっと濃霧の中でも立ち止まらずに済むはず。
記憶のキャンバスに、この美しい色彩を一生消えないように刻み込みたい。
私は、幼い頃に大好きだったおじいちゃんが教えてくれた、古い「和色」の名前を思い出した。
「紬、色は名前を呼んであげると、もっと輝くんだよ」
おじいちゃんの穏やかな声を、お守りのように心の中で再生する。
空の色は、ただの青じゃない。淡く、どこか切ない「勿忘草色」。
校庭を彩る木々は、深い決意を秘めたような「常磐色」。
私は、目の前の景色に一つずつ、魂を込めて名前を当てはめていくことにした。
それが、秋月湊という一人の少年が教えてくれた「光」を、絶望の淵で繋ぎ止めるための、私だけの秘密の始まりだった。
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二年前、高校一年生の春。
桜の花びらが舞う校庭を、誰もが希望という名の光を追いかけて走り出す中で、私の世界からは「未来」という言葉が鮮やかに色を失った。
医師から告げられた無機質な病名は、私の柔らかな日常を、冷たく真っ白な恐怖で塗り潰していく。
「いつか、君の視力は失われるかもしれない」
その言葉は、鋭いナイフのように私の胸を貫いた。
宣告を受けた翌日。
放課後の校舎は、部活動に励む生徒たちの声で溢れ、世界はこんなにも眩しいのに、私だけが出口のない深い深い霧の底へ突き落とされたような心地だった。
震える足で歩く廊下。
これから訪れる永遠の霧を想像しては、肺が押し潰されるような呼吸の苦しさに、どうしようもない絶望を噛み締めていた。
(……怖いよ。何も、見たくない。何も、知りたくない……っ)
涙で視界が歪み、世界が溶けてしまいそうになった、その時だった。
美術室の前に飾られていた、たった「一枚の絵」が、私の足を止めた。
それは、同じ学年の秋月湊くんが描いた作品だった。
そこに広がっていたのは、私が今まで見てきたどの景色よりも、自由で、激しくて、息を呑むほどに鮮やかな世界。
キャンバスの上で光が踊り、影が歌うような、圧倒的な色彩の氾濫。
夕焼けの赤も、木漏れ日の緑も、雨上がりのアスファルトの青も——彼の手にかかれば、それらはまるで命を宿した宝石のように、一粒一粒が烈しく輝いていた。
「……綺麗。なんて、綺麗なんだろう」
瞳から、ボロボロと大粒の涙が溢れた。
それは美しさへの感動であると同時に、耐えがたいほどの悲しみでもあった。
こんなにも美しい色彩がこの世界には満ちているのに、私はもうすぐ、そのすべてを失ってしまう。
すべてを奪われてしまう。
けれど、絵を見つめているうちに、私の奥底で何かが小さく産声を上げた。
それは、真っ白な運命に対する、私なりのちっぽけで、けれど猛烈な「抗い」だった。
(……忘れたくない。たとえいつか世界が真っ白に塗り潰されても、この人が描くような美しい色が世界に溢れていたことを、私は死ぬまで覚えていたい)
たとえ瞳が光を捉えなくなっても、心に鮮明な地図があれば、私はきっと濃霧の中でも立ち止まらずに済むはず。
記憶のキャンバスに、この美しい色彩を一生消えないように刻み込みたい。
私は、幼い頃に大好きだったおじいちゃんが教えてくれた、古い「和色」の名前を思い出した。
「紬、色は名前を呼んであげると、もっと輝くんだよ」
おじいちゃんの穏やかな声を、お守りのように心の中で再生する。
空の色は、ただの青じゃない。淡く、どこか切ない「勿忘草色」。
校庭を彩る木々は、深い決意を秘めたような「常磐色」。
私は、目の前の景色に一つずつ、魂を込めて名前を当てはめていくことにした。
それが、秋月湊という一人の少年が教えてくれた「光」を、絶望の淵で繋ぎ止めるための、私だけの秘密の始まりだった。
