羽白さんは真っ白な霧の中で目を凝らすように、わずかな色の欠片を求めている。
迷子のような手を、僕は迷わず取った。
「羽白さん、これに触れてみて」
僕の導きに従って、彼女の細く白い指先が、荒々しい絵具の塊に触れた。
「……あ……っ」
驚きに、彼女の肩が小さく跳ねる。
指先がキャンバスの上を泳ぎだす。そこに広がっているのは、滑らかな平面の絵などではない。
筆が激しくのたうち回った跡、ペインティングナイフで鋭く切り裂かれた、光の隆起。
僕が魂を削り、祈りを込め、何度も何度も色が層を成すまで塗りたくった、岩肌のような圧倒的な凹凸だ。
けれど、彼女の瞳にはまだ、ぼんやりとした色彩の塊が霧の向こうで揺らめいているようにしか映っていない。指先は、その激しい起伏の上で戸惑うように彷徨っていた。
「……羽白さん、左の端。そこには、最初に踊り場で話した日の空があるよ」
僕が囁きながら彼女の手を導くと、彼女の指先は、ナイフで鋭く切り立った絵具の層に触れた。
「……あ、ここ? 少し硬くて、ひんやりしてる」
「そう。そこには、あの日と同じ勿忘草色の空が広がってるんだ」
彼女の指が、慈しむようにその硬い感触をなぞる。
その瞬間、彼女の脳裏にある真っ白な霧の一部が、記憶の「勿忘草色」に塗り替えられていくのがわかった。
「じゃあ、この……真ん中の、すごく盛り上がっているところは?」
「そこは、君が僕を救ってくれた青——『月白』だ」
僕は彼女の手を、キャンバスの中央、最も厚い絵具の層へと重ねた。
そこは夏の陽光を吸い込み、微かな熱を帯びている。
「全部キャンバスに塗り込めた。その熱が、僕が君に贈る一番強い光だよ」
そして、キャンバスの端——そこには、僕が筆を捨て、直接指先で絵具を押し付けた僕自身の「手の跡」が、生きた証としてそのまま刻まれている。
羽白さんの指先が、僕の手の跡と、重なる。
まるで、あの日屋上で初めて触れ合った時のように。
「……すごい。秋月くん、ここ……君の、手の形がする」
彼女は震える指で、愛おしそうにその凹凸をなぞり続けた。
視界がどれほど不透明であっても、指先から伝わる圧倒的な「物質としての生命力」が、彼女の脳裏に眠っていた強烈な色彩を、一気に呼び覚ましていく。
さらに、病室を包み込むのは、あの日一緒に過ごした夏の匂い。
窓から差し込む陽光を吸い込んだ絵具が、微かな温もりを持って彼女の指を優しく包み込む。
「目に見えるものだけが、世界じゃないって……君が教えてくれた。だから、たとえ光が届かなくても、君がこれに触れれば、いつでも僕が隣にいるってわかるように……僕たちの生きた時間を、ここに全部閉じ込めたんだ」
羽白さんの顔が、驚きと、そして深い愛しさに満たされていく。
彼女の瞳は、まだ輪郭を捉えきれていない。
けれど、彼女は間違いなく、指先を通して、僕が綴った「永遠」を——真実の色彩を視ていた。
「……暖かい。秋月くん……。色……色が、聴こえるよ。真っ白な霧の中に、君の声と、この色が……私の中に、溢れてくる」
羽白さんは、自分の掌を僕の手の跡にぴったりと重ね合わせた。
指先から伝わる凹凸、鼻をくすぐる濃密な油の匂い、そして僕の言葉。
それらが彼女の中で化学反応を起こし、ぼんやりとした視界に、強烈な色彩の地図を描き出していく。
「これで、もう迷子にならないね」
羽白さんが顔を上げ、涙で濡れた瞳を僕に向けた。
そこには、絶望の影など微塵もなかった。
彼女が今見ているのは、物理的な光を超えた、僕たちが二人で完成させた「消えない魔法」だった。
「……ありがとう、秋月くん。私の世界に、色を連れてきてくれて」
夏の光が病室を白く染めていたけれど、僕たちの間には、キャンバスから溢れ出した無数の色が、永遠の輝きを持って咲き誇っていた。
彼女は、絵に寄り添うようにして、その凹凸をそっと抱きしめた。
それは視力を超えた、魂と魂の対面。
僕が描いた月白の光が、彼女の心の中で、ついに本物の夜明けを迎えた瞬間だった。
迷子のような手を、僕は迷わず取った。
「羽白さん、これに触れてみて」
僕の導きに従って、彼女の細く白い指先が、荒々しい絵具の塊に触れた。
「……あ……っ」
驚きに、彼女の肩が小さく跳ねる。
指先がキャンバスの上を泳ぎだす。そこに広がっているのは、滑らかな平面の絵などではない。
筆が激しくのたうち回った跡、ペインティングナイフで鋭く切り裂かれた、光の隆起。
僕が魂を削り、祈りを込め、何度も何度も色が層を成すまで塗りたくった、岩肌のような圧倒的な凹凸だ。
けれど、彼女の瞳にはまだ、ぼんやりとした色彩の塊が霧の向こうで揺らめいているようにしか映っていない。指先は、その激しい起伏の上で戸惑うように彷徨っていた。
「……羽白さん、左の端。そこには、最初に踊り場で話した日の空があるよ」
僕が囁きながら彼女の手を導くと、彼女の指先は、ナイフで鋭く切り立った絵具の層に触れた。
「……あ、ここ? 少し硬くて、ひんやりしてる」
「そう。そこには、あの日と同じ勿忘草色の空が広がってるんだ」
彼女の指が、慈しむようにその硬い感触をなぞる。
その瞬間、彼女の脳裏にある真っ白な霧の一部が、記憶の「勿忘草色」に塗り替えられていくのがわかった。
「じゃあ、この……真ん中の、すごく盛り上がっているところは?」
「そこは、君が僕を救ってくれた青——『月白』だ」
僕は彼女の手を、キャンバスの中央、最も厚い絵具の層へと重ねた。
そこは夏の陽光を吸い込み、微かな熱を帯びている。
「全部キャンバスに塗り込めた。その熱が、僕が君に贈る一番強い光だよ」
そして、キャンバスの端——そこには、僕が筆を捨て、直接指先で絵具を押し付けた僕自身の「手の跡」が、生きた証としてそのまま刻まれている。
羽白さんの指先が、僕の手の跡と、重なる。
まるで、あの日屋上で初めて触れ合った時のように。
「……すごい。秋月くん、ここ……君の、手の形がする」
彼女は震える指で、愛おしそうにその凹凸をなぞり続けた。
視界がどれほど不透明であっても、指先から伝わる圧倒的な「物質としての生命力」が、彼女の脳裏に眠っていた強烈な色彩を、一気に呼び覚ましていく。
さらに、病室を包み込むのは、あの日一緒に過ごした夏の匂い。
窓から差し込む陽光を吸い込んだ絵具が、微かな温もりを持って彼女の指を優しく包み込む。
「目に見えるものだけが、世界じゃないって……君が教えてくれた。だから、たとえ光が届かなくても、君がこれに触れれば、いつでも僕が隣にいるってわかるように……僕たちの生きた時間を、ここに全部閉じ込めたんだ」
羽白さんの顔が、驚きと、そして深い愛しさに満たされていく。
彼女の瞳は、まだ輪郭を捉えきれていない。
けれど、彼女は間違いなく、指先を通して、僕が綴った「永遠」を——真実の色彩を視ていた。
「……暖かい。秋月くん……。色……色が、聴こえるよ。真っ白な霧の中に、君の声と、この色が……私の中に、溢れてくる」
羽白さんは、自分の掌を僕の手の跡にぴったりと重ね合わせた。
指先から伝わる凹凸、鼻をくすぐる濃密な油の匂い、そして僕の言葉。
それらが彼女の中で化学反応を起こし、ぼんやりとした視界に、強烈な色彩の地図を描き出していく。
「これで、もう迷子にならないね」
羽白さんが顔を上げ、涙で濡れた瞳を僕に向けた。
そこには、絶望の影など微塵もなかった。
彼女が今見ているのは、物理的な光を超えた、僕たちが二人で完成させた「消えない魔法」だった。
「……ありがとう、秋月くん。私の世界に、色を連れてきてくれて」
夏の光が病室を白く染めていたけれど、僕たちの間には、キャンバスから溢れ出した無数の色が、永遠の輝きを持って咲き誇っていた。
彼女は、絵に寄り添うようにして、その凹凸をそっと抱きしめた。
それは視力を超えた、魂と魂の対面。
僕が描いた月白の光が、彼女の心の中で、ついに本物の夜明けを迎えた瞬間だった。
