立ち去ろうとする僕の袖を、羽白さんの細い指先が、ほんの少しだけ引いた。
力のこもっていない、触れるだけの引き止め。
けれど、僕は足を止めてしまった。
「待って。……一人じゃ、ダメなの」
「……何が」
「色を探すの。私一人で見つける色と、誰かと一緒に見つける色は、きっと違うから」
羽白さんの声は、夕暮れの風にかき消されそうなほど小さかった。
けれど、そこには無視できないほどの、切実な熱がこもっている。
「秋月くんのデッサンを見て、思ったんだ。影の中に、すごくたくさんの『暗闇』を描き分けているなって。……真っ黒に見える影の中にも、実は緑があったり、紫が混ざっていたりすることを、君は知ってる。だから、私が気付かないような、世界の隅っこに隠れた色を見つけてくれるんじゃないかって」
羽白さんの瞳が、僕を真っ直ぐに射抜く。
その瞳は、吸い込まれそうなほど澄んでいた。
濁った感情なんて一つもない、ただ純粋に「何か」を求めている瞳。
「……どうして俺なんだ。クラスにはもっと、明るくて絵の上手い奴だっているだろ。健太とか、他の奴に頼めばいい」
「明るい色だけが、色じゃないよ」
羽白さんさらに一歩、僕に近づいた。
微かに甘い、石鹸のような匂いが鼻をくすぐる。
「秋月くんは、暗い場所を知ってる。だから、そこに差す小さな光の色にも、きっと気付けるはず。……お願い。私と一緒に、この世界の色の『名前』を探してくれないかな。私、全部を覚えておきたいの」
「覚えておく……?」
「うん。いつか、全部を思い出せなくなる前に。
……だから、君の目が必要なの」
彼女の指はまだ、僕の袖を掴んだままだ。
断る理由はいくらでもあった。
面倒だ、興味がない、自分には資格がない。
それなのに、喉まで出かかった断りの言葉が、どうしても外に出てこなかった。
目の前の彼女の瞳が、あの空の『勿忘草色』と同じように、今にも消えてしまいそうな危うさを含んでいて。
もしここで手を振り払ってしまったら、彼女はこのまま夜の闇に飲み込まれて、本当に消えてしまうんじゃないか。
そんな、根拠のない、けれどひどくリアルな不安が僕の足を地面に縫い付けていた。
……いや、本当は。
彼女の言う通りにすれば、僕の止まった時間が、また少しだけでも動き出すんじゃないかと。
そんな、自分でも信じられないような期待が、心のどこかにあったのかもしれない。
……一分、いや、数秒の沈黙。
遠くで運動部の掛け声が響き、屋上へと続く階段を冷たい風が通り抜ける。
僕は視線を斜め下に落として、深く、ため息をついた。
「……少しだけなら。それから、俺は絵は描かない。ただ隣にいるだけだ。それでもいいなら」
その瞬間、羽白さんの顔に、ぱあっと光が差した。
それは、どんな高価な絵具でも表現できないほど、鮮やかで劇的な変化だった。
「うん! それでいい。……ありがとう、秋月くん」
彼女は嬉しそうに、カバンから取り出した小さなノートを開いた。そこには、びっしりと書き込まれた色の名前と、日付。
「じゃあ、明日の放課後から。……まずは、通学路に隠れてる色を探そう?」
差し出された細い指先。
その背景には、完全に夜へと沈みかけた、深い深い藍色の空が広がっていた。
