きみが教えてくれた、世界で一番優しい青

「約束通り、持ってきたよ……っ」


僕は、布に包まれた巨大なキャンバスを、彼女のすぐ側に立てかけた。
まだ見てはいけない。見せるわけにはいかない。けれど、生乾きの絵具が放つ濃密な匂いと、僕が注ぎ込んだ魂の熱量だけは、今の彼女にも届くはずだ。


「……あ。本当だ。すごい、秋月くんの匂いがする。……前よりも、ずっと濃くて、温かい匂い」


羽白さんの顔に、ふわりと安堵の色が広がった。

彼女が向かう手術室は、誰も立ち入ることのできない、一人きりの孤独な戦場だ。
僕はそこへついていくことはできない。

だからこそ、僕は持ってきたんだ。
僕が命を削って綴ったこの光が、僕の身代わりとして、彼女のすぐ隣でその心を守ってくれるように。
目をつむっていても、深い麻酔の闇に落ちても、この匂いと熱が「僕はここにいる」と彼女に囁き続けてくれるように。


「羽白さん。これは、僕の魂なんだ。君が手術を受けている間も、ずっとここに置いておいてもらう。だから、一人じゃないってこと、忘れないで」

「……うん。ありがとう。秋月くんが、そこにいてくれるんだね」


羽白さんは僕の手をぎゅっと握りしめた。
その瞬間、彼女の指先から先ほどまでの微かな震えが消え、確かな覚悟が宿ったのがわかった。


「私、怖くないよ。この匂いと一緒に、行ってくるね」


看護師たちが静かにストレッチャーを動かし始める。
ゆっくりと離れていく彼女の指先。
僕は、銀色の扉が閉まるその瞬間まで、彼女の背中に向かって心の中で叫び続けた。

(待ってるよ、羽白さん。……この『光』と一緒に、君が帰ってくるのを、ずっと)

扉が閉まり、廊下に静寂が戻る。
僕は一人、彼女がいない病室の隅で、白い布に包まれたままの「永遠」を抱きしめるようにして、パイプ椅子に腰を下ろした。
窓の外からは、盛夏の訪れを告げる蝉時雨が、祝福か、あるいは祈りのように、容赦なく降り注いでいた。