きみが教えてくれた、世界で一番優しい青



窓の外から、今シーズン初めての蝉の声が聞こえ始めた。
湿った熱気がカーテンの隙間から入り込み、生乾きの油絵具の匂いをさらに濃く部屋に立ち込めさせている。
Tシャツの襟元は汗と絵具で汚れ、意識は熱に浮かされたように朦朧としている。
けれど、キャンバスを睨みつける僕の視界だけは、驚くほど冴え渡っていた。

(……あと、一点だけ)

色彩の濁流が渦巻く画面の中、どうしても足りなかった最後の一欠片。
それは彼女が僕にかけた、ひりつくような鮮烈な光の「魔法」だ。
僕は震える指で、パレットに残った最後の白をナイフで掬い取った。

数日間、一睡もせずに綴り続けた僕たちの物語。
その中心に、命の鼓動を刻みつけるかのように、鋭い一筋を刻みつける。
——その瞬間だった。
バラバラにうねっていた色が、一筋の光を軸に、目を開けるようにして一つの「景色」へと変貌した。
それはもはや平面の絵などではなかった。重厚な時間を、痛みも喜びもすべてを閉じ込めた、僕たちの真実の結晶だった。


「……できた」


ナイフが床に落ち、乾いた音を立てる。
僕はそのまま、数分間、完成した絵の前で動けなかった。
喉の奥が熱くなり、汗なのか涙なのか分からないものが頬を伝った。
けれど、それを拭う気力さえ残っていなかった。


「……っ、急がないと……!」


壁の時計が、残酷に刻限を告げている。
手術の開始時間は、もうすぐそこまで迫っていた。

僕はまだ熱を帯びている巨大なキャンバスを、清潔な白い布で幾重にも包んだ。
生乾きの色が布に染み出すかもしれないが、そんなことを気にしている余裕はない。

鏡に映った自分は、ひどい有様だった。
髪は乱れ、目の下には深い隈。いたるところに絵具が飛び散り、まるで戦場から帰ってきた兵士のようだ。
けれど、僕はそのまま、部屋を飛び出した。

外に出た瞬間、強烈な夏の陽光が全身を焼いた。
アスファルトから立ち上る陽炎が、視界を歪ませる。
自転車に乗ることさえ叶わず、僕は巨大な絵を両腕で抱え、病院までの坂道をがむしゃらに走った。


「はぁ、はぁ……っ!」


絵が重い。腕の筋肉が悲鳴を上げ、肺が焼け付くように痛む。
不格好で、泥臭くて、かつて僕が追い求めた「優雅な芸術家」の姿なんて、どこにもない。
けれど、今この腕の中にあるのは、ただのキャンバスじゃない。
彼女が、この先の人生で何度でも見返すはずの、世界のすべてなんだ。


「……羽白、さん……っ!」


病院の長い廊下を駆け抜け、彼女の病室の前に辿り着いたとき、僕は膝から崩れ落ちそうになった。
ちょうど、ストレッチャーの横に看護師たちが集まり、彼女を運び出そうとしているところだった。
車椅子に座った彼女の瞳は、もうほとんど何も捉えていない。
けれど、僕の荒い呼吸と、全身に纏ったあの濃密な絵具の匂いを感じ取った瞬間、彼女の顔が、この夏の太陽よりも眩しく輝いた。


「秋月くん……? 来てくれたの?」


僕は彼女のそばに倒れ込むように駆け寄り、絵具で汚れたままの手で、彼女の細く白い手を、折れそうなほど強く握りしめた。