きみが教えてくれた、世界で一番優しい青

描き始めてから、何日が経ったのだろうか。

部屋の中は、強烈な油絵具の匂いと、何十枚もの描き損じのスケッチで埋め尽くされている。
パレットの上で混ざり合った色は、いつの間にか僕の指先やシャツの袖までをどす黒く染め、僕自身がキャンバスの一部になったかのような錯覚にさえ陥った。

(……これで、本当に届くのか?)

ふと、筆を握る手が止まった。
キャンバスの上には、激しい色彩がうねっている。
けれど、一度冷静になってそれを見つめた瞬間、言いようのない恐怖が背筋を駆け上がった。
僕が描いているのは、結局、ただの自己満足ではないのか。
「永遠を綴る」なんて大層な言葉を並べておきながら、僕は彼女の失われていく光を、より残酷に際立たせているだけではないのか。
もし、手術を終えた彼女がこれを見て——何も感じなかったら。彼女の暗闇を、一欠片も照らすことができなかったら。


「……っ」


一度生じた疑念は、猛毒のように全身に回っていく。
筆が鉛のように重くなり、キャンバスの白濁した部分が、まるで羽白さんの失明を予言しているかのように見えて、僕はたまらず後ずさりした。
世界が歪む。部屋を支配するのは、乾きかけた絵具のむせ返るような匂いと、僕の浅く、震える呼吸音だけ。

その沈黙を切り裂くように、床に放り出していたスマホが震えた。
暗い部屋で、液晶の青白い光が激しく明滅する。
画面に浮かび上がったのは、何よりも愛しく、今の僕には眩しすぎる『羽白 紬』の五文字。
僕は震える指で、汚れを気にする余裕もなく通話ボタンをスライドさせた。


「……もしもし」

『あ、秋月くん? 起きてた?』


受話器越しに届く彼女の声は、驚くほど穏やかで、陽だまりのような温かさを持っていた。


「……うん。ちょっと、絵を描いてた」

『ふふ、やっぱり。声を聞けばわかるよ、すごく一生懸命なときの声だもん。……あんまり無理しちゃだめだよ?』


彼女の無垢な優しさが、今は何よりも胸に刺さった。
「描けないかもしれない」「怖いんだ」という言葉が喉元まで出かかって、僕はそれを必死に飲み込む。


「羽白さん、僕は……君に、最高の光を見せたいんだ。でも、それが本当に正解なのか、分からなくなる時があって」


僕の震える声を聞いて、彼女は少しだけ沈黙した。
やがて、受話器の向こうで小さく笑う気配がした。


『正解なんて、最初からどこにもないよ。……秋月くんが一生懸命色を覚えて、不器用なくらい必死に私のための光を探してる。その姿を知っているから、私は「もう少しだけ足掻いてみよう」って思えたんだよ』

「……」

『だからね、どんな絵でもいいの。秋月くんが私を想って綴ってくれたものなら、それが私の新しい世界のすべてになるから。……私、秋月くんの魔法を、世界で一番近くで、誰よりも信じてるよ』


その言葉が、僕の心の奥底に溜まっていた泥のような不安を、一瞬で押し流していった。

そうだ。僕は画家として合格点を求めていたんじゃない。
上手な絵を描く必要なんてなかったんだ。
ただ、彼女に「ここに光があるよ」と伝えたい、その一心だけでよかったんだ。


『……あ、もう消灯の時間。ごめんね、電話しちゃって。絵が見れる日、私、心から楽しみにしてるから』

「……ありがとう、羽白さん。おやすみ」


通話が切れたあと、僕はもう一度キャンバスに向き合った。
視界は不思議とクリアだった。
窓から差し込む月光が、塗り重ねた絵具の隆起を、美しく照らし出している。
プレッシャーが消えたわけじゃない。
けれど、その重みさえも、今は彼女を支えるための力に思えた。

(綴ろう。僕たちの、これまでのすべてを。この筆先に、僕の魂をのせて)

僕は再び筆を手に取り、最も純粋な白をパレットに絞り出した。
もう、迷わない。
キャンバスを叩く筆の音は、さっきよりもずっと力強く、確かなリズムを刻み始めた。