きみが教えてくれた、世界で一番優しい青

アパートに戻った僕は、荷物も置かずに真っ直ぐ押し入れへと向かった。

一番奥、日当たりの悪いクローゼットに押し込んでいた段ボール。
そこには、僕がかつて「画家」であった頃のすべてが、埃を被ったまま眠っている。

重い箱を引き摺り出すと、蓋の隙間から、独特の油と埃が混ざった匂いが鼻をついた。
無理やり蓋をこじ開けると、無惨な挫折の記録たち。
固まって開かなくなった絵具のチューブ、毛先の割れた無格好な筆。
そして——あの日、僕の指を、心を、絶望で染め上げた「あの日の青」が塗られたキャンバス。


「……っ」


一瞬、喉の奥が震え、肺が酸素を拒絶するように引き攣った。
あの頃の、出口のない真っ暗な部屋に閉じ込められたような感覚が蘇る。

けれど、僕は強く、強く瞼を閉じた。
瞼の裏、暗闇の向こうに浮かぶのは、あの病室で、白濁した視界を必死に凝らして僕を見ようとしてくれた羽白さんの姿だ。

『秋月くんが綴ってくれる、私だけの永遠』

彼女の震える声が、僕の体温を呼び戻す。

(そうだ。これから僕が描くものは、僕自身を満足させるための「作品」じゃない。)

僕に色の美しさを教えてくれた彼女へ、真っ白な絶望を塗り潰すために捧げる「光」なんだ。

目を開けたとき、かつての作品たちは、ただの「過去」になっていた。
もう、あの頃の僕じゃない。
今は、色を失いかけている一人の少女に、世界の美しさを届けたいと願う、ただの「魔法使いの弟子」なのだから。

僕は、生きている筆と、使える絵具を、慎重に畳の上に並べた。
だが、すぐに手が止まる。


「……全然、足りない」


僕が描こうとしているのは、どこにでもある風景じゃない。
彼女が愛し、僕に分け与えてくれた、この世界の鼓動そのものだ。
手元にある古びた色では、彼女が信じてくれている「永遠」を綴るにはあまりにも力不足だった。

僕は弾かれたように立ち上がり、財布と鍵を掴んだ。
外はもう、空が夜へと溶け出し始めている。
自転車に飛び乗り、僕は夜の街を疾走した。

閉店間際の画材店へ滑り込み、棚に並ぶチューブを端から端まで睨みつける。
今の僕の「覚悟」を乗せるに相応しい、鮮明な「言葉」たちを、次々とカゴへ放り込んだ。

アパートに戻ると、僕は上着も脱がずに、新しく買い求めた大判のキャンバスをイーゼルに据えた。

窓の外はすでに深い夜に沈んでいる。
けれど、僕の部屋の中だけは、かつてないほどの熱を帯び始めていた。


「……よし」


パレットに、新しい色が絞り出されていく。
僕は、一番太い筆を手に取った。
迷いもない。恐怖もない。

——ぐしゃり。
最初の色が、無垢な白を切り裂いた。

そこからの数日間、僕の記憶は断片的にしかない。
ただ、筆がキャンバスを擦る乾いた音と、部屋中に充満する重苦しいほどの油絵具の匂いだけが、僕の世界のすべてだった。

食事も睡眠も、もはや僕を繋ぎ止める鎖にはならなかった。
何かに取り憑かれたように、僕はただ、キャンバスという名の空白に己の魂を叩きつけ続けた。
思いを乗せるのに筆が折れればナイフを使い、ナイフがもどかしくなれば直接指で絵具を塗りつけた。
爪の間に色が入り込み、手の皮が剥けて血が滲んでも、アドレナリンが痛みを焼き尽くした。

僕が描いているのは、絵ではない。
彼女と過ごした一分一秒、あの日の陽だまり、交わした言葉の体温。
そのすべてを一滴の光も零さないように閉じ込める「祈り」だ。
キャンバスの上で色がうねり、重なり、血潮のような厚い層を成していく。
その具体的な輪郭はまだ誰にもわからない。
けれど、そこには間違いなく僕と彼女の「生」が宿っていた。
ただ一人の少女の瞳に、もう一度、消えない魔法をかけるために。
僕は狂おしいほどの情熱で、夜の終わりを、月白の夜明けを綴り続けた。