きみが教えてくれた、世界で一番優しい青


「……羽白さん。この前は、ごめん。何も知らないのに、あんなひどいこと言って。君を傷つけた」


僕が頭を下げると、彼女は慌てて手を振った。


「ううん、謝らないで! 私の方こそ、変に隠したりしちゃって、取り乱しちゃってごめんね。……実はね、二年前くらいからかな。網膜が光や色を認識しなくなる病気が発覚してね」


彼女は、まるで今日読んだ本のあらすじを話すような気軽さで、自分の抱える絶望を語り始める。


「少しずつ進行してたんだけど、最近、ちょっとだけスピードが早まっちゃったみたい。お医者さんには難しい名前で呼ばれてるんだけど……。要するにね、世界が少しずつ、光の中に溶けていっちゃう感じかな?」


彼女はどこか遠くを見るような、うつろで優しい眼差しで続ける。


「ほら、お気に入りの写真をずっと日向に置いておくと、色が抜けて白っぽくなっちゃうでしょ? あんな感じ。……なんだか世界が透き通っていくみたいで、ちょっとだけオシャレだと思わない? 映画のラストシーンみたいでさ」


そんなわけ、ないだろう。
オシャレなんかじゃない。
そんな、なにもかもが消えてしまいそうなくらい淡く、輪郭を失っていく世界で、君はたった一人で笑っていたのか。


「……羽白さん」

「でも大丈夫だよ。点滴もしてるし、すぐ退院するよ。そしたらまた一緒に色見本帳、作ろうね。あ、次はもっと派手な色から練習しなきゃダメかも。私、最近ちょっとだけ赤とグレーの区別が怪しいんだよね、あはは!」


無理に明るく笑う彼女の目尻から、不意に一筋の涙が溢れ出した。
彼女はそれに気づかないふりをして、なおも饒舌に「大丈夫」を積み重ねていく。

その笑顔が、その声が。
どれほどの恐怖と孤独を押し殺し、どれほど僕を繋ぎ止めたいという一念だけで紡ぎ出されているのか。
僕には、痛いほど伝わってしまった。

彼女は今この瞬間も、僕の前でだけは、最後まで「色彩を教える魔法使い」であり続けようとしている。
僕の中に刻まれた、鮮やかな彼女のままでいようとしているんだ。

(……魔法なんて、もういいのに。君が生きて、そこにいてくれるだけで、いいのに)

その嘘があまりにも哀しくて、美しくて。
僕は唇を噛み締め、込み上げてくる嗚咽を必死に喉の奥へ押し込んだ。「……もう、いいんだ」


僕は、彼女の言葉を遮るように静かに呟いた。
なおも「退院したらどこに行こうか」と、壊れた時計のように明るい未来を語り続けていた彼女の唇が、ぴたりと止まる。


「もう、魔法使いのふりなんてしなくていい。……これ以上、強がらなくていいんだよ、羽白さん」


その瞬間、彼女の顔に張り付いていた偽物の笑顔が、音を立てて崩れ落ちた。
見開かれた瞳から、堪えていた熱い雫が堰を切ったように溢れ出す。


「……っ、でも、だって……そうじゃないと、私は秋月くんの隣にいれないから」


彼女は、喉を詰まらせながら本音を吐き出した。シーツを握りしめる拳が、白くなるほど激しく震えている。


「魔法が解けちゃったら、私は君にとって、ただの不自由な女の子になっちゃう。君の目に映る世界を彩ってあげられない私は……君に必要とされなくなるのが、何より、死ぬことよりも怖かったの」

「そんなわけ、ないだろう」


僕はたまらず、彼女の震える手を、折れてしまいそうなほど細い指を、両手で包み込むように握りしめた。
その肌は、驚くほど冷え切っていた。

(……救われていたのは、僕の方なのに)

彼女がこの白濁とした絶望の中で、どれほどの孤独を抱えていたか。
それを思うと、胸が千切れるように痛む。

ふと、お母さんの言葉が脳裏を過った。
『手術をしない限り、もう色を繋ぎ止めることは難しい』

僕は、自分の震える声を必死に抑えて、核心を尋ねた。


「……羽白さん。手術のこと、聞いたよ。……受けるつもりは、ないの?」


僕の言葉に、彼女は一瞬だけ視線を泳がせ、それから逃げるように顔を伏せた。


「……怖いんだ。手術をすれば、進行は止められるかもしれない。でも、成功する保証なんてどこにもないの。もし失敗したら……明日にはもう、君の姿さえ完全に光の中に溶けて、見えなくなっちゃうかもしれない」


彼女の肩が、微かに震える。
「色」を愛し、色の魔法を信じてきた彼女にとって、残されたわずかな視界は、自分を自分たらしめる最後の生命線なのだ。


「それに、手術が終わった後、数日間は両目を包帯で覆わなきゃいけないんだって。その期間は、完全に真っ暗。その暗闇の中で、色が残っているのか、それともすべて消えてしまったのかを、一人で怯えながら待つなんて……私、耐えられそうにないよ」


彼女が躊躇っているのは、手術そのものよりも、その先に待っているかもしれない「真の孤独」だった。


「今のままなら、まだ、ぼんやりとだけど君の形がわかる。白く濁った世界でも、君がそこにいるってわかる。でも、もし手術をして、光が一つも戻ってこなかったら……っ」

「羽白さん」


僕は、彼女の言葉を遮るように、その凍えた手を強く、今度こそ確実に握りしめた。


「暗闇なら、僕が隣でずっと喋り続ける。包帯が取れるその瞬間まで、絶対に君の手を離さない。一秒だって、君を一人にはさせないから」


彼女が顔を上げ、潤んだ瞳で僕を見つめる。


「君が恐れている真っ暗な世界には、僕も一緒に行く。そこで君が見失った色を、僕が全部、言葉にして君の心に届ける。……だから、自分を諦めないで。魔法が解けるのを待つんじゃなくて、君自身の足で、新しい光の方へ進んでほしいんだ」

「……私、君にそこまでしてもらう資格ないよ」


羽白さんは、溢れる涙を拭うこともせず、自分を責めるように言葉を絞り出した。
その告白は、血を流すような悲鳴に似ていた。


「私ね、本当は……君を『利用』してたの。色が消えていくのが怖くて、君の瞳を借りて、一人じゃ辿り着けない世界の色を、必死に探してた。君に色の名前をたくさん教えたのも……もしも、いつか私の世界が真っ白になったとき、君の言葉を私の『杖』にして生きていこうとしたから」


告白とともに、彼女の肩が激しく波打つ。
彼女が僕に「色」を与えてくれていた時間は、同時に、彼女が僕という「光」に必死に縋り付き、いつか来る永遠の夜のための準備をしていた時間でもあったのだ。


「自分のために、君の優しさを、未来を、奪おうとしてた。私は、そんな卑怯な人間なんだよ……っ!」


泣きじゃくる彼女の姿を、僕はただ静かに、けれど強く、その存在を確かめるように抱きしめた。
利用されたなんて、一度も思ったことはない。

(君が僕の瞳を杖にするなら、僕は君の声を地図にする。それでいいじゃないか)

色彩の一切を排除されたような白い病室で、僕たちの心だけは、今、人生で一番鮮やかな熱を帯びて混ざり合っていた。