「……わすれなぐさ?」
聞き慣れない、けれどどこか泣きたくなるような響きに、僕は言葉を失った。
彼女がかざしたページ越しに見る空は、夕焼けに飲み込まれる直前の、世界が優しく透き通るような、淡く切ない青だった。
「そう。名前を知るまでは、ただの薄い青だと思ってたでしょ?」
羽白さんは色見本帳を下ろし、いたずらっぽく笑う。
「青とオレンジが混じり合うこの空、儚くて綺麗だよね」
けれど、その瞳は沈みゆく太陽の残光を惜しむようにゆらゆらと揺れていた。
「勿忘草は花の名前でもあるんだよ。花言葉はね、『私を忘れないで』」
「……」
「たとえいつか、世界からこの色が消えちゃっても、この名前だけは残る。一度知ってしまったら、もうただの青には戻らない。素敵だと思わない?」
「……わからないな」
僕は視線を逸らした。
「名前なんて、ただのラベルだろ。何色と呼ぼうが、暗くなれば全部同じ黒になる。色なんて、その程度の曖昧なものだろ。……そんなものに縋って、何が楽しんだ」
我ながら、ひどく冷めた声が出た。
どうしてこんなにムキになって言い返してしまったのだろう。
ただのクラスメイトなのだから、さらりと受け流せばいいのに。
冷たく突き放すような僕の言葉に、羽白さんは反論するでもなく、寂しそうに眉を下げた。
けれど、すぐに思い直したように一歩踏み込み、僕の顔をじっと覗き込んでくる。
「楽しいからじゃないよ。……怖いから」
「怖い?」
「うん。君の言う通り、色って曖昧で、放っておいたらすぐに消えちゃうものだから、名前を覚えて繋ぎ止めておきたいの。
秋月くんは、消えてほしくないもの、一つもないの?」
「……ないよ。そんなもの」
嘘だ。本当は、消えてほしくないものばかりだった。
けれど、守ろうとすればするほど、色は濁り、形は崩れていった。
だったら最初から、何も持たないほうがマシだ。
羽白さんは僕の答えを待たずに、僕のカバンから覗く画帳に目をやった。
「じゃあ、どうしてそんなふうに突き放すの?」
「それは……」
「私ね、 秋月くん描いたデッサン、見たことあるの。あんなに丁寧に、石膏の肌を撫でるみたいに、影と光を拾って描くのに。……どうして、色を乗せることだけを頑なに避けるの?」
羽白さんの声が、静かな廊下に波紋のように広がっていく。
「……そんなの、君に関係ないだろ」
「うん。関係ない。でも気になっちゃって。
……色のない世界は、安全だもんね。汚れないし、裏切られない」
「……何が言いたいんだよ」
「秋月くんの絵、すごく綺麗だけど、どこか寂しいよ。まるで、自分で自分を閉じ込めてるみたい」
「……っ、君に何がわかるんだ」
僕は思わず声を荒らげた。
「私には、秋月くんの心の底なんてわからないよ。でも、本当は色を使いたいんじゃないかなって。
だって、絵を描くこと自体はやめてないから。色を捨てたふりをして、まだしがみついてるから。
……縋ってるのは秋月くんのほうじゃないの?」
心の中に土足で踏み込まれたような気がして、奥歯を噛みしめた。
教えられるわけがない。
僕が色を塗るのをやめたのは、色を混ぜるたびに、あの黒に近い海の青、崩れていく家族の笑顔、自分の汚い感情がキャンバスにこびりついて離れなくなったからだなんて。
色を使えば使うほど、僕は僕自身の黒い部分を突きつけられる。
それが怖くて、僕は「色のない世界」に逃げ込んだのだ。
でも——彼女の言う通り、絵を描くこと自体をやめていないのは、やっぱり怖いからだ。
鉛筆さえ手放してしまったら、もう二度と「色に囲まれた自分」に戻れない気がして。
「色」という存在に縋っているのは、僕のほうだ。
「……君には関係ないだろ。勝手な分析はやめてくれ」
僕はこれ以上、彼女の澄んだ瞳を見ていられなくなった。
これ以上、自分の内側を暴かれたくない。
「もう帰る。二度と俺の絵を覗き見しないでくれ」
聞き慣れない、けれどどこか泣きたくなるような響きに、僕は言葉を失った。
彼女がかざしたページ越しに見る空は、夕焼けに飲み込まれる直前の、世界が優しく透き通るような、淡く切ない青だった。
「そう。名前を知るまでは、ただの薄い青だと思ってたでしょ?」
羽白さんは色見本帳を下ろし、いたずらっぽく笑う。
「青とオレンジが混じり合うこの空、儚くて綺麗だよね」
けれど、その瞳は沈みゆく太陽の残光を惜しむようにゆらゆらと揺れていた。
「勿忘草は花の名前でもあるんだよ。花言葉はね、『私を忘れないで』」
「……」
「たとえいつか、世界からこの色が消えちゃっても、この名前だけは残る。一度知ってしまったら、もうただの青には戻らない。素敵だと思わない?」
「……わからないな」
僕は視線を逸らした。
「名前なんて、ただのラベルだろ。何色と呼ぼうが、暗くなれば全部同じ黒になる。色なんて、その程度の曖昧なものだろ。……そんなものに縋って、何が楽しんだ」
我ながら、ひどく冷めた声が出た。
どうしてこんなにムキになって言い返してしまったのだろう。
ただのクラスメイトなのだから、さらりと受け流せばいいのに。
冷たく突き放すような僕の言葉に、羽白さんは反論するでもなく、寂しそうに眉を下げた。
けれど、すぐに思い直したように一歩踏み込み、僕の顔をじっと覗き込んでくる。
「楽しいからじゃないよ。……怖いから」
「怖い?」
「うん。君の言う通り、色って曖昧で、放っておいたらすぐに消えちゃうものだから、名前を覚えて繋ぎ止めておきたいの。
秋月くんは、消えてほしくないもの、一つもないの?」
「……ないよ。そんなもの」
嘘だ。本当は、消えてほしくないものばかりだった。
けれど、守ろうとすればするほど、色は濁り、形は崩れていった。
だったら最初から、何も持たないほうがマシだ。
羽白さんは僕の答えを待たずに、僕のカバンから覗く画帳に目をやった。
「じゃあ、どうしてそんなふうに突き放すの?」
「それは……」
「私ね、 秋月くん描いたデッサン、見たことあるの。あんなに丁寧に、石膏の肌を撫でるみたいに、影と光を拾って描くのに。……どうして、色を乗せることだけを頑なに避けるの?」
羽白さんの声が、静かな廊下に波紋のように広がっていく。
「……そんなの、君に関係ないだろ」
「うん。関係ない。でも気になっちゃって。
……色のない世界は、安全だもんね。汚れないし、裏切られない」
「……何が言いたいんだよ」
「秋月くんの絵、すごく綺麗だけど、どこか寂しいよ。まるで、自分で自分を閉じ込めてるみたい」
「……っ、君に何がわかるんだ」
僕は思わず声を荒らげた。
「私には、秋月くんの心の底なんてわからないよ。でも、本当は色を使いたいんじゃないかなって。
だって、絵を描くこと自体はやめてないから。色を捨てたふりをして、まだしがみついてるから。
……縋ってるのは秋月くんのほうじゃないの?」
心の中に土足で踏み込まれたような気がして、奥歯を噛みしめた。
教えられるわけがない。
僕が色を塗るのをやめたのは、色を混ぜるたびに、あの黒に近い海の青、崩れていく家族の笑顔、自分の汚い感情がキャンバスにこびりついて離れなくなったからだなんて。
色を使えば使うほど、僕は僕自身の黒い部分を突きつけられる。
それが怖くて、僕は「色のない世界」に逃げ込んだのだ。
でも——彼女の言う通り、絵を描くこと自体をやめていないのは、やっぱり怖いからだ。
鉛筆さえ手放してしまったら、もう二度と「色に囲まれた自分」に戻れない気がして。
「色」という存在に縋っているのは、僕のほうだ。
「……君には関係ないだろ。勝手な分析はやめてくれ」
僕はこれ以上、彼女の澄んだ瞳を見ていられなくなった。
これ以上、自分の内側を暴かれたくない。
「もう帰る。二度と俺の絵を覗き見しないでくれ」
