「……やめて」
それは、今にも消えてしまいそうなほど小さくて、でも確かな拒絶だった。
「お願い、それ以上言わないで、秋月くん。わかってる……わかってるから! お願いだから、もう……っ」
僕の手にある色見本帳を振り払おうとしたのか、彼女の指先が虚空を彷徨う。
その指先が僕の制服の袖をかすめ、何も掴めなかった。
視界が欠けている彼女にとって、僕との距離さえも、もう確かなものではなくなっているのだ。
「言わないで……。見えなくなってきているなんて、そんな事実に、私を正面から向き合わせないでよ!」
「羽白さん……」
「わかってるの! 昨日より今日、さっきより今の方が、世界の色が少しずつ剥がれていくみたいに、薄白くなっていることなんて、私が一番わかってる! でも、それを言葉にしたら……秋月くんに認められちゃったら、本当に全部が消えてなくなっちゃう気がするの。魔法が解けて、私はただの、何も持たない女の子に戻っちゃう!」
彼女の声は、もはや悲鳴だった。
西日に照らされた彼女の瞳は、激しく揺れ、大粒の涙が溢れ出している。
必死に言葉を絞り出す彼女の全身は、まるで冬の寒さに凍える小鳥のように震えていた。
「怖いんだよ……。昨日まで当たり前に呼べていた色の名前が、思い出せなくなるのが。大好きなはずのこの世界の色が、溶けて消えていくのが。それを秋月くんに知られたら、君はもう私を見てくれなくなる。色の魔法使いじゃない私なんて、君の隣にいる理由がなくなっちゃうじゃない……!」
「そんなわけないだろ! 僕は、色を教えてくれる君だけを見てたわけじゃ……」
「嘘だよ!」
彼女は僕の言葉を、耳を塞ぐようにして遮った。
「秋月くんが私と一緒にいたのは、私が君の世界に色を塗ってあげたからでしょ? 君を閉じ込めていた『青』を、塗り替えてあげたからでしょ! 私から色彩が消えたら、君を救う魔法もなくなっちゃう。そんなの……そんなの、耐えられないよ……」
彼女は崩れ落ちるようにその場にしゃがみ込んだ。
僕の手から奪い返した色見本帳を、宝物のように、あるいは自分を繋ぎ止める呪いのように、胸の前にぎゅっと抱きしめる。
「まだ、私は魔法使いでいたいの。たとえ嘘でも、塗り固めたハリボテの言葉でもいいから。明日も、明後日も、秋月くんの隣で色の名前を呼びたいの……。だから、お願い。お願いだから……私の世界を壊さないで……っ」
西日がゆっくりと沈み、屋上には境界線の曖昧な長い影が伸びていく。
僕は伸ばしかけた手を、どうしても彼女の肩に置くことができなかった。
今の僕が彼女に触れたら、その指先の温度さえも、彼女の言う「魔法」を壊してしまうような気がしたから。
泣きじゃくる彼女の背中を見つめながら、僕はただ、自分を繋ぎ止めるように拳を強く握りしめることしかできなかった。
ふと見上げた空は、いつの間にか、僕の知っている夕暮れとは似ても似つかない色に変貌していた。
それは、不気味に濁った「灰青」。
太陽は沈もうとしているはずなのに、空は優しく暮れていくことを拒んでいる。
ただ、湿った灰が重く膨張していくような、重苦しい青だけが空を埋め尽くしていく。
以前彼女が僕に教えてくれた「優しい青」はどこにも見当たらない。
それはあらゆる光を飲み込み、輪郭を溶かし、世界を絶望へと変えてしまう、死んだ色だった。
「……怖いよ、秋月くん」
色の死に絶えた空の下で、彼女が小さく呟いた。
その声は、重く濁った空の中に吸い込まれ、どこにも届かずに消えた。
僕たちの間にあったはずの鮮やかな季節は、今、音も立てずに鉛色の虚無へと塗り潰されていく。
それは、今にも消えてしまいそうなほど小さくて、でも確かな拒絶だった。
「お願い、それ以上言わないで、秋月くん。わかってる……わかってるから! お願いだから、もう……っ」
僕の手にある色見本帳を振り払おうとしたのか、彼女の指先が虚空を彷徨う。
その指先が僕の制服の袖をかすめ、何も掴めなかった。
視界が欠けている彼女にとって、僕との距離さえも、もう確かなものではなくなっているのだ。
「言わないで……。見えなくなってきているなんて、そんな事実に、私を正面から向き合わせないでよ!」
「羽白さん……」
「わかってるの! 昨日より今日、さっきより今の方が、世界の色が少しずつ剥がれていくみたいに、薄白くなっていることなんて、私が一番わかってる! でも、それを言葉にしたら……秋月くんに認められちゃったら、本当に全部が消えてなくなっちゃう気がするの。魔法が解けて、私はただの、何も持たない女の子に戻っちゃう!」
彼女の声は、もはや悲鳴だった。
西日に照らされた彼女の瞳は、激しく揺れ、大粒の涙が溢れ出している。
必死に言葉を絞り出す彼女の全身は、まるで冬の寒さに凍える小鳥のように震えていた。
「怖いんだよ……。昨日まで当たり前に呼べていた色の名前が、思い出せなくなるのが。大好きなはずのこの世界の色が、溶けて消えていくのが。それを秋月くんに知られたら、君はもう私を見てくれなくなる。色の魔法使いじゃない私なんて、君の隣にいる理由がなくなっちゃうじゃない……!」
「そんなわけないだろ! 僕は、色を教えてくれる君だけを見てたわけじゃ……」
「嘘だよ!」
彼女は僕の言葉を、耳を塞ぐようにして遮った。
「秋月くんが私と一緒にいたのは、私が君の世界に色を塗ってあげたからでしょ? 君を閉じ込めていた『青』を、塗り替えてあげたからでしょ! 私から色彩が消えたら、君を救う魔法もなくなっちゃう。そんなの……そんなの、耐えられないよ……」
彼女は崩れ落ちるようにその場にしゃがみ込んだ。
僕の手から奪い返した色見本帳を、宝物のように、あるいは自分を繋ぎ止める呪いのように、胸の前にぎゅっと抱きしめる。
「まだ、私は魔法使いでいたいの。たとえ嘘でも、塗り固めたハリボテの言葉でもいいから。明日も、明後日も、秋月くんの隣で色の名前を呼びたいの……。だから、お願い。お願いだから……私の世界を壊さないで……っ」
西日がゆっくりと沈み、屋上には境界線の曖昧な長い影が伸びていく。
僕は伸ばしかけた手を、どうしても彼女の肩に置くことができなかった。
今の僕が彼女に触れたら、その指先の温度さえも、彼女の言う「魔法」を壊してしまうような気がしたから。
泣きじゃくる彼女の背中を見つめながら、僕はただ、自分を繋ぎ止めるように拳を強く握りしめることしかできなかった。
ふと見上げた空は、いつの間にか、僕の知っている夕暮れとは似ても似つかない色に変貌していた。
それは、不気味に濁った「灰青」。
太陽は沈もうとしているはずなのに、空は優しく暮れていくことを拒んでいる。
ただ、湿った灰が重く膨張していくような、重苦しい青だけが空を埋め尽くしていく。
以前彼女が僕に教えてくれた「優しい青」はどこにも見当たらない。
それはあらゆる光を飲み込み、輪郭を溶かし、世界を絶望へと変えてしまう、死んだ色だった。
「……怖いよ、秋月くん」
色の死に絶えた空の下で、彼女が小さく呟いた。
その声は、重く濁った空の中に吸い込まれ、どこにも届かずに消えた。
僕たちの間にあったはずの鮮やかな季節は、今、音も立てずに鉛色の虚無へと塗り潰されていく。
