きみが教えてくれた、世界で一番優しい青

四時限目のチャイムが鳴り終わると同時に、僕は逃げるように教室を飛び出した。

「一緒にご飯食べよう」という健太の声を背中で振り切り、向かったのは、静寂の底に沈んだ昼休みの図書室だった。

昨日まで、彼女と二人で「色の名前」当て合いで笑った、あの陽だまりのような芸術書のコーナーには目もくれない。
僕はその脇を通り過ぎ、さらに奥へ、入り口から一番遠い場所に位置する、埃っぽい医学・科学の棚へと足を踏み入れた。

——単なる疲れに決まっている。

そう自分に言い聞かせる心とは裏腹に、指先は「視覚」「眼病」というラベルが貼られた棚を必死に彷徨っていた。


「……色、失明、進行性、異常……」


棚の端から端まで、背表紙に並ぶ冷徹なフォントを必死に目で追う。
窓の外からは、運動場で無邪気に遊ぶ生徒たちの歓声が微かに聞こえてくるけれど、今の僕にはそれが異世界の騒音のように遠く、不快な耳鳴りにしか感じられなかった。

一冊の、辞書のように分厚い眼科学の専門書を手に取る。
めくる指が小刻みに震え、硬い紙の端で指先を浅く切った。

じわりと滲んだ血の赤。
いつもなら「緋色」だとか「茜色」だとか、彼女の声を借りて愛でられたはずのその色が、今の僕にはひどく毒々しく、暴力的な「ただの赤」に見えた。


「……これ、なのか」


ページをめくる手が止まったのは、ある疾患の解説が目に飛び込んできた時だった。
そこに記されていた言葉は、僕が「まさか」と否定し続けていた仮説を、一つ残らず肯定していくものだった。


『初期症状として、中心視力の低下、および進行性の色覚異常が見られる。特に、色の鮮やかさが徐々に失われ、次第に世界が透過したような、色のない状態(全色盲)へと移行していくケースが多い。また、周辺視野が欠損し、距離感の把握や段差の認識が困難になる……』


頭を冷たい鉄の塊で殴られたような衝撃だった。

昨日の、ありもしない青を白と呼んだ「白磁色」。
今日の、色で見分けられず掌で転がした「小銭への手探り」と、ボタンの位置さえ間違えた「ジュースの取り違え」。
そして、入り口の角を避けるための、あの不自然な回り道。

バラバラだった不吉な断片が、最悪という名の鎖で、逃れようのない一つの真実へと繋がっていく。

もし、これが僕の勘違いではなく、本当の出来事なら。

彼女は——あんなに色を愛し、世界の美しさを誰よりも感じていた羽白さんは。
自分の中から色が、光が、世界そのものが少しずつ削り取られていく恐怖と、たった一人で戦っていたのだ。
誰にも、僕にさえも悟られないように、あんなに眩しく笑いながら。


「……そんなの、あんまりじゃないか」


掠れた声が、本棚の隙間に吸い込まれて消えた。

僕に世界の彩りを教えてくれた彼女が、なぜ、その世界から最初に見放されなければならないのか。
神様がいるのなら、あまりに趣味の悪い、残酷な配役だ。
 
本を閉じようとして、ふと一章の結びに記された記述が目に留まった。


『患者は周囲との視覚情報の乖離から、深刻な精神的孤立を感じやすく……』


精神的な孤立。
図書室の影の中で、昨日、彼女が僕に言った「優しい逃げ場所」という言葉が、鋭い棘となって僕の胸を深く抉った。

彼女が僕に色を教えたのは、僕のためだけじゃなかったのかもしれない。

世界から色が消えていく自分を、それでも笑って繋ぎ止めてくれる「場所」を。
隣で同じ色を見てくれる「誰か」を。彼女は、壊れそうな心で必死に探していたのではないか。

僕は本を棚に戻し、逃げるように図書室を飛び出した。
廊下ですれ違う生徒たちの服の色、ポスターの極彩色、すべてが眩しすぎて、僕は思わず目を逸らした。
教室に戻り、彼女の背中をどんな顔で見ればいいのか、今の僕には分からなかった。