きみが教えてくれた、世界で一番優しい青

自動販売機の前に着くと、彼女は財布を取り出し、小銭入れの口を広げた。


「ええと……百円玉、百円玉……」


彼女の指先が、小銭入れの中で何度も、何度も硬貨をなぞる。

朝の柔らかな光が差し込む自販機の前だ。
十円玉の鈍い銅色と、百円玉の冷ややかな銀色の区別がつかないはずがない。
それなのに、彼女はまるでお手玉でもするように、一枚一枚を掌で転がし、その重さや指に伝わる縁の感触を必死に確かめている。


「……羽白さん。これ、百円玉だよ」


僕が横から指を差すと、彼女は一瞬、心臓を突かれたように肩を跳ねさせた。


「あ、あはは! ごめんごめん。なんだか昨日から光が乱反射してて……。ちょっと寝不足かな、目がチカチカしちゃう」


彼女は誤魔化すように笑い、手探りで硬貨を投入口に入れた。


「さあ、どれがいい? 私のおすすめは、この黄色いパッケージの……」


彼女の指が、ボタンの並びを泳ぐようになぞる。
だが、彼女の指先が止まったのは、レモン色の鮮やかなビタミン飲料ではなく、その隣にある、淡い緑色のアップルジュースのボタンだった。


「……羽白さん」

「ん? なに?」


その問い返した顔に、愕然とした。

レモン色の輝きと、アップルジュースの淡い緑。
昨日までなら、彼女はそれらの色をきちんと呼び分け、その歴史や美しさを、歌うように語ってくれたはずなのに。


「……いや。なんでもない。じゃあ、アップルジュースにしようかな」

「いいでしょ? この『菜の花色(なのはないろ)』、見てるだけで元気になれるもんね」


——菜の花色。

たしかそれは、春の陽光をそのまま写し取ったような、鮮やかな黄色を指す言葉だ。

淡い緑色のジュースを、彼女は「黄色」だと言って、愛おしそうに笑っている。

昨日の「白磁」から、さらに色の境界が溶け始めているように感じる。
疲れなんて言葉では、もう説明がつかない。
やっぱり、知識が間違っているんじゃない。
彼女の中にある色彩の地図が、一箇所、また一箇所と、音もなく立ち込める深い霧に覆われて見えなくなっているのだ。

どうして急に、こんな……。
いや、予兆は今までにいくつかあったはずだ。

青の図書館で目を細めていたこと、不意に歩調が乱れたこと。
——「色」に貪欲で、「杖」を集めまわっていること。

僕は、彼女と一緒にいられる喜びを守りたくて、それを「見て見ぬふり」をしていただけなんじゃないか。


「……羽白さん、本当は……」


喉元まで出かかった言葉を、僕は必死に飲み込んだ。

今ここで本当のことを聞いてしまったら。
目の前の彼女が、鏡の破片みたいに粉々に砕け散ってしまうような気がして、たまらなく怖かった。

ガタン、と取り出し口に落ちたジュースの音は、僕の耳には、二人の世界を隔てる扉が静かに閉まる音のように重く響いた。

彼女はそれを手に取り、満足そうに微笑んでいる。
その微笑みが、この世の何よりも遠く、届かない場所にあるように感じられて。

僕は冷え切った紙パックのジュースを、自分の心臓を繋ぎ止めるように、ただ強く、強く握りしめることしかできなかった。