放課後の校舎は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
オレンジ色の西日が長い廊下の端から端までを貫く。
静寂の中で、僕と彼女の足音だけがリズムを刻んでいた。
「さあ、秋月くん。今日は校舎の中に隠れている『秘密の色』を、全部見つけちゃうよ!」
羽白さんはいたずらっぽく笑うと、弾むような足取りで廊下を駆け出した。
僕は彼女に置いていかれないよう、胸ポケットに差した「藤鼠」の色鉛筆と、羽白さんに渡された小さな「和色見本帳」を握りしめ、その後を追う。
僕たちが最初に足を止めたのは、北校舎の隅にある理科室の前だった。
入り口の掲示板には、いつから貼られているのかもわからない、端の丸まった古い科学展のポスターが残されていた。
日光に晒され、もはや何の告知なのかも判別できないほど退色している。
「秋月くん、見て。あのポスターの背景……。ただの『灰色』に見える?」
彼女が細い指先で示したのは、長年の年月が作り出した、不思議な色合いの部分だった。
「……いや。少しだけ、青が混じっているような気がする。でも、すごく淡くて、今にも消えてしまいそうな色だ」
「それはね、『瓶覗』っていうんだよ」
瓶覗。
僕は見本帳の青のページを探し、見つけた。
本当に、水に一滴だけ藍を落としたような、儚い青だ。
「染め物をする時に、藍の瓶をちょっと覗いただけの、一番薄い青のこと。名前まで可愛いでしょう?」
「……瓶を覗いただけの色。素敵な名前だ。ただの『色褪せた紙』だと思ってたのに」
彼女が名前を呼んだ瞬間、その古びたポスターは、物語を持つ特別な物質へと変わった。
彼女はそのまま、理科室の扉にある小さな小窓に顔を近づけた。
西日が反射するガラスに、彼女の横顔が映る。
「ねえ、中も見て。実験器具が、西日を浴びて光ってる」
促されるまま、僕も彼女の隣で、薄暗い室内を覗き込んだ。
棚に並んだビーカーやフラスコ。
その透明なガラスの曲線が、柔らかい西日を透過させ、実験机の上に複雑な光の模様を落としている。
「あの、ガラスの厚い部分に溜まった光……。あれは何色に見えるかな?」
「白……かな。でも、光が反射して、少しだけクリーム色が混ざっているような……」
僕は見本帳の「白」のカテゴリーを指でなぞる。
「正解。あれは『練色』。精練したばかりのシルクみたいな、柔らかくて温かい白だよ」
練色。
僕が見本帳の文字を指で確認すると、彼女は満足そうに目を細めた。
彼女の視線の先では、無機質なはずの理科室が、幻想的な空間として呼吸をしていた。
僕はポケットから「藤鼠」の色鉛筆を取り出し、小窓のガラスにそっとかざしてみた。
紫がかった鼠色の軸が、理科室の中に溜まった「練色」の光と重なり、溶け合うような綺麗な境界線を作る。
「……羽白さんが教えてくれると、見慣れた学校が、全然知らない場所みたいに見える」
「ふふ、そうでしょ? 世界はいつだって、秋月くんが名前を呼んでくれるのを待ってるんだよ」
彼女は誇らしげに笑う。
その笑顔は、西日を透かして「練色」に輝く実験器具よりも、ずっと眩しく僕の目に映った。
オレンジ色の西日が長い廊下の端から端までを貫く。
静寂の中で、僕と彼女の足音だけがリズムを刻んでいた。
「さあ、秋月くん。今日は校舎の中に隠れている『秘密の色』を、全部見つけちゃうよ!」
羽白さんはいたずらっぽく笑うと、弾むような足取りで廊下を駆け出した。
僕は彼女に置いていかれないよう、胸ポケットに差した「藤鼠」の色鉛筆と、羽白さんに渡された小さな「和色見本帳」を握りしめ、その後を追う。
僕たちが最初に足を止めたのは、北校舎の隅にある理科室の前だった。
入り口の掲示板には、いつから貼られているのかもわからない、端の丸まった古い科学展のポスターが残されていた。
日光に晒され、もはや何の告知なのかも判別できないほど退色している。
「秋月くん、見て。あのポスターの背景……。ただの『灰色』に見える?」
彼女が細い指先で示したのは、長年の年月が作り出した、不思議な色合いの部分だった。
「……いや。少しだけ、青が混じっているような気がする。でも、すごく淡くて、今にも消えてしまいそうな色だ」
「それはね、『瓶覗』っていうんだよ」
瓶覗。
僕は見本帳の青のページを探し、見つけた。
本当に、水に一滴だけ藍を落としたような、儚い青だ。
「染め物をする時に、藍の瓶をちょっと覗いただけの、一番薄い青のこと。名前まで可愛いでしょう?」
「……瓶を覗いただけの色。素敵な名前だ。ただの『色褪せた紙』だと思ってたのに」
彼女が名前を呼んだ瞬間、その古びたポスターは、物語を持つ特別な物質へと変わった。
彼女はそのまま、理科室の扉にある小さな小窓に顔を近づけた。
西日が反射するガラスに、彼女の横顔が映る。
「ねえ、中も見て。実験器具が、西日を浴びて光ってる」
促されるまま、僕も彼女の隣で、薄暗い室内を覗き込んだ。
棚に並んだビーカーやフラスコ。
その透明なガラスの曲線が、柔らかい西日を透過させ、実験机の上に複雑な光の模様を落としている。
「あの、ガラスの厚い部分に溜まった光……。あれは何色に見えるかな?」
「白……かな。でも、光が反射して、少しだけクリーム色が混ざっているような……」
僕は見本帳の「白」のカテゴリーを指でなぞる。
「正解。あれは『練色』。精練したばかりのシルクみたいな、柔らかくて温かい白だよ」
練色。
僕が見本帳の文字を指で確認すると、彼女は満足そうに目を細めた。
彼女の視線の先では、無機質なはずの理科室が、幻想的な空間として呼吸をしていた。
僕はポケットから「藤鼠」の色鉛筆を取り出し、小窓のガラスにそっとかざしてみた。
紫がかった鼠色の軸が、理科室の中に溜まった「練色」の光と重なり、溶け合うような綺麗な境界線を作る。
「……羽白さんが教えてくれると、見慣れた学校が、全然知らない場所みたいに見える」
「ふふ、そうでしょ? 世界はいつだって、秋月くんが名前を呼んでくれるのを待ってるんだよ」
彼女は誇らしげに笑う。
その笑顔は、西日を透かして「練色」に輝く実験器具よりも、ずっと眩しく僕の目に映った。
